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第10話 コンプライアンス違反につき

第10話 コンプライアンス違反につき


取締役会から三か月後。


秋の風が街を吹き抜けていた。


ネクスト・ソリューションズ本社の前に並ぶ街路樹は少しずつ色づき始めている。


テレビでは連日、ネクスト・ソリューションズの不正会計問題が報じられていた。


第三者委員会による調査。


粉飾決算。


循環取引。


架空売上。


そして裏金。


世間の反応は厳しかった。


株価は急落した。


大口取引先も離れていった。


会社の名前はニュースで何度も流された。


しかし今回は違った。


会社は隠蔽しなかった。


逃げなかった。


第三者委員会を設置し、調査結果を全面公開した。


その姿勢だけは評価された。


そして。


責任を負うべき者たちは裁かれていった。


黒崎竜也はある朝、自宅マンションで逮捕された。


特別背任。


業務上横領。


私的流用。


証拠は十分だった。


テレビ画面の向こうで連行される黒崎を見た時、葵は何も感じなかった。


憎しみも。


怒りも。


もう残っていなかった。


ただ終わったのだと思った。


あの日。


公開婚約破棄された夜から続いていた戦いが。


静かに。


本当に静かに。


終わったのだと。


萌香もまた姿を消した。


情報漏洩。


虚偽投稿。


不正への関与。


SNSは炎上した。


フォロワーたちは離れた。


スポンサー契約も解除された。


あれほど毎日更新されていたアカウントは今では止まったままだった。


三浦専務は失脚した。


取締役を解任。


刑事告発。


そして五年前の不正隠蔽も明るみに出た。


父を追い詰めた男。


その名前は今や新聞の社会面に載っている。


因果応報。


そう呼ぶ人もいた。


けれど葵は少し違うと思っていた。


これは復讐ではない。


ただ真実が表に出ただけだ。


それだけだった。


冬が過ぎ。


春が来た。


桜が咲いた。


そして一年後。


ネクスト・ソリューションズ本社。


朝の光が大きな窓から差し込んでいる。


以前とは違う景色だった。


組織改編が行われた。


新しい部署が設立された。


リスク統括本部。


その本部長室。


白川葵は窓際に立っていた。


淡いベージュのジャケット。


白いブラウス。


以前より少しだけ柔らかな表情。


デスクの上には一冊の冊子が置かれていた。


新しいコンプライアンスマニュアル。


厚い冊子だった。


表紙を撫でる。


指先に紙の感触が伝わる。


その最初のページ。


そこには一文だけ記されていた。


『規則は人を守るためにある』


父の言葉だった。


正式な社内方針として採用されたのだ。


葵は静かにページを閉じた。


ノックの音。


「どうぞ」


ドアが開く。


神崎だった。


片手には紙コップが二つ。


コーヒーの香りが部屋に広がる。


「本部長」


神崎が言う。


葵は苦笑した。


「やめて」


「事実だ」


「まだ慣れないの」


神崎はコーヒーを差し出した。


受け取る。


温かい。


春の朝にちょうどいい温度だった。


「ありがとう」


「今日は入社式だ」


神崎が窓の外を見る。


葵も視線を向ける。


そこには新入社員たちの姿があった。


真新しいスーツ。


少し緊張した顔。


希望に満ちた表情。


何人かは笑いながら歩いている。


去年の今頃。


会社は崩壊寸前だった。


けれど今。


新しい一歩を踏み出している。


神崎が言った。


「不思議だな」


「何が?」


「去年はここが潰れると思ってた」


葵は笑った。


「私も」


「それが今じゃ本部長室だ」


「あなたも昇進したでしょう」


「俺は肩書に興味ない」


「知ってる」


二人は笑った。


窓から桜が見える。


柔らかな風が吹く。


花びらが舞っている。


平和な朝だった。


本当に。


久しぶりの。


その時だった。


内線電話が鳴った。


葵が受話器を取る。


「はい」


『新しい内部通報が入りました』


担当者の声だった。


葵は少し驚いた。


そして。


笑った。


神崎が首を傾げる。


「どうした」


「仕事」


「もうか」


「もうよ」


受話器を置く。


新しい案件。


新しい問題。


新しい誰かのSOS。


組織がある限り、不正はなくならない。


人がいる限り、間違いも起こる。


だから。


終わりはない。


神崎が言った。


「休ませてくれない会社だな」


「そうね」


葵は頷いた。


そしてデスクの上のマニュアルをもう一度見た。


父の言葉。


五年間追い続けた真実。


失ったもの。


守れたもの。


その全てが胸の中にあった。


窓の外では新入社員たちが歩いている。


桜の花びらが風に舞う。


新しい季節。


新しい会社。


新しい未来。


葵は静かにマニュアルを閉じた。


そして微笑んだ。


「本当のコンプライアンスは、ここから始まるのよ」


神崎は何も言わなかった。


ただ少しだけ笑った。


春の光が二人を包む。


父が守ろうとしたものは失われなかった。


規則は人を縛るためではない。


人を守るためにある。


その想いは今。


新しい会社の中で確かに息づいていた。


そして物語は終わる。


けれど。


誰かを守るための戦いは。


これからも続いていくのだった。



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