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エピローグ 規則の向こう側

エピローグ 規則の向こう側


五月だった。


あの日から二年が過ぎていた。


朝の陽射しは柔らかく、ネクスト・ソリューションズ本社前の街路樹には若葉が揺れている。


新設されたリスク統括本部は、会社の中でも特別な部署になっていた。


不正を摘発するためだけではない。


問題が起きる前に防ぐ。


誰かが泣く前に守る。


そんな組織へ変わり始めていた。


白川葵は執務室の窓を開けた。


初夏の風が頬を撫でる。


どこかから金木犀にも似た甘い花の香りが漂ってきた。


デスクの上には朝食代わりのサンドイッチが置かれている。


卵とハム。


レタスがたっぷり入っていた。


忙しい朝はこれくらいがちょうどいい。


パソコンには大量のメール。


会議予定。


相談案件。


今日も慌ただしい。


それでも昔より心は軽かった。


ノックの音がした。


「どうぞ」


ドアが開く。


神崎だった。


相変わらず無表情である。


だが付き合いが長くなると分かる。


少し機嫌がいい。


手には紙袋。


「また朝飯抜いただろ」


「どうして分かるの」


「机の上」


神崎が顎をしゃくる。


サンドイッチはまだ半分残っている。


葵は苦笑した。


「忙しかったの」


「言い訳だな」


神崎は紙袋から焼き立てのクロワッサンを取り出した。


バターの香りが広がる。


思わずお腹が鳴った。


「食べろ」


「ありがとう」


「本部長が倒れると面倒だからな」


「それ、本当に心配してる言い方?」


「してる」


即答だった。


葵は吹き出した。


二年前なら想像もできなかった光景だった。


あの頃は毎日が戦いだった。


裏切り。


隠蔽。


脅迫。


父の真実。


会社の闇。


思い出すだけで胸が苦しくなる。


だが今は違う。


窓の外から新入社員たちの声が聞こえた。


研修中らしい。


みんな真新しいスーツを着ている。


少し大きめのジャケット。


まだ硬い表情。


緊張と期待が入り混じっている。


葵は思わず微笑んだ。


「懐かしい」


「何が」


「私もあんなだったかなって」


神崎は少し考えた。


そして言う。


「いや」


「え?」


「もっと怖かった」


「失礼ね」


「事実だ」


二人は笑った。


その時だった。


秘書から内線が入る。


「白川本部長、来客です」


「来客?」


予定にはない。


数分後。


応接室へ向かう。


ドアを開いた瞬間。


葵は驚いた。


「……佐伯君?」


そこにいたのは若い男性だった。


スーツ姿。


少し日焼けした顔。


緊張した表情。


二年前。


内部通報を送ってきた営業部の若手社員だった。


あの録音データを残した人物。


「ご無沙汰しています」


深々と頭を下げる。


「どうしたの?」


「報告したいことがあって」


彼は少し照れながら笑った。


左手には結婚指輪。


そして。


「実は今度、子供が生まれるんです」


葵は目を丸くした。


「本当に?」


「はい」


その顔は二年前とは別人だった。


怯えていない。


自分の人生を生きている顔だった。


「それで」


佐伯は続ける。


「ずっと言いたかったんです」


「何を?」


彼は少し目を潤ませた。


「助けてくれてありがとうございました」


応接室が静かになる。


葵は何も言えなかった。


あの日。


自分は正しいことをしただけだと思っていた。


だが。


その結果。


救われた人がいた。


人生を取り戻した人がいた。


それが嬉しかった。


本当に嬉しかった。


「こちらこそ」


葵は笑った。


「勇気を出してくれてありがとう」


佐伯が帰ったあと。


葵はしばらく窓際に立っていた。


空が青い。


雲が流れていく。


遠くで救急車のサイレンが聞こえる。


街は今日も動いている。


机の引き出しを開く。


そこには一冊の古いファイルがあった。


父の監査報告書。


何度読んだか分からない。


最後のページを開く。


そこに残された言葉。


『規則は人を守るためにある』


父の文字。


少し癖のある筆跡。


もう涙は出ない。


代わりに温かい気持ちになる。


あの時。


父は負けたのではなかった。


会社から追い出されても。


名誉を奪われても。


信念は消えなかった。


その信念が今も誰かを守っている。


ノックの音。


振り返る。


神崎だった。


「また仕事だ」


「今度は何?」


「経費精算の相談」


葵は笑う。


「平和ね」


「平和だな」


二人は並んで廊下を歩き出した。


窓の外では若葉が風に揺れている。


新入社員たちの笑い声が聞こえる。


会社は変わった。


完璧ではない。


これからも問題は起きるだろう。


誰かが間違える日もある。


だが。


その時はまた向き合えばいい。


隠さず。


誤魔化さず。


正しく。


人を守るために。


エレベーターの前で神崎が言った。


「なあ」


「なに?」


「今度の休み」


珍しく言葉を探している。


葵は少しだけ目を細めた。


「うん」


「食事でもどうだ」


沈黙。


数秒。


そして。


「それ、お誘い?」


神崎は耳を赤くした。


「そうだ」


葵は笑った。


窓から吹き込む風が心地よかった。


「じゃあ行こうかな」


神崎は小さく頷いた。


それだけだった。


けれど十分だった。


規則の向こう側には。


ちゃんと人の人生がある。


喜びも。


悲しみも。


未来も。


そして二人は歩いていく。


守るべき人たちのいる場所へ。


新しい季節の中へ。


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