第8話 父の報告書
第8話 父の報告書
七月の終わりだった。
蝉の声が朝から響いている。
窓を開けると、生ぬるい風が部屋へ流れ込んできた。
白川葵は昨夜ほとんど眠れなかった。
三浦専務との会話が頭から離れない。
『お前の父親と同じ運命になるぞ』
あの言葉。
あの目。
五年前の出来事を知っている人間の目だった。
葵は冷蔵庫から麦茶を取り出した。
グラスに注ぐ。
氷が涼しい音を立てる。
それでも胸の奥の熱は消えなかった。
スマートフォンが震える。
神崎からだった。
『今すぐ来られるか』
それだけだった。
葵は立ち上がった。
神崎がこんな文章を送る時は何かある。
大きな何かだ。
昼過ぎ。
二人は神崎のマンションの一室にいた。
神崎は普段から仕事以外をほとんど話さない。
部屋も驚くほど質素だった。
本棚。
パソコン。
小さなテーブル。
観葉植物。
それだけ。
窓際にはノートパソコンが三台並んでいる。
エアコンの風が静かに流れていた。
「コーヒーでいいか」
「うん」
神崎が淹れたコーヒーは意外と美味しかった。
深い香りが広がる。
葵はカップを持ったまま尋ねた。
「何が見つかったの?」
神崎はすぐに答えなかった。
珍しく表情が硬い。
そして。
パソコン画面をこちらへ向けた。
「これだ」
画面には膨大なログが並んでいた。
削除履歴。
アクセス履歴。
サーバー記録。
専門家以外には理解できない数字の海。
「復元できたの?」
神崎は頷いた。
「完全じゃない」
「でも十分だ」
葵の鼓動が速くなる。
神崎がキーボードを叩く。
一つのフォルダが開いた。
そこに表示された名前を見た瞬間。
葵は息を止めた。
監査報告書
作成者
白川正人
父の名前だった。
世界が止まった気がした。
神崎の声が遠く聞こえる。
「削除されたフォルダの奥にあった」
「五年前のものだ」
葵は画面に手を伸ばした。
震えていた。
信じられない。
ずっと探していた。
父が何を見つけたのか。
何と戦ったのか。
その答えが。
目の前にあった。
「開くぞ」
神崎が静かに言った。
葵は頷いた。
報告書が表示される。
ページ数は百を超えていた。
調査内容。
会計記録。
取引履歴。
関連会社。
そして。
M案件。
何度も何度も現れる。
父はすでに見抜いていた。
循環取引。
架空売上。
売上水増し。
不正会計。
すべて。
五年前の時点で。
「お父さん……」
葵は呟いた。
報告書は緻密だった。
数字。
証拠。
証言。
逃げ道を一切残さない。
まるで父そのものだった。
真面目で。
不器用で。
誠実で。
だからこそ潰された。
神崎が言う。
「ここを見ろ」
最終ページだった。
そこだけ様子が違う。
正式な文章ではない。
手入力された短い文章。
削除されかけた痕跡が残っている。
葵は息を飲んだ。
そこに書かれていたのは。
たった一文だった。
『規則は人を守るためにある』
その瞬間だった。
視界が滲んだ。
ぼろりと涙が落ちる。
一粒。
また一粒。
止まらない。
五年間。
ずっと知りたかった。
父は不正をしたのか。
父は何を考えていたのか。
なぜ反論しなかったのか。
なぜ会社を去ったのか。
答えはそこにあった。
父は最後まで戦っていた。
最後まで正しかった。
最後まで人を守ろうとしていた。
葵は顔を覆った。
涙が止まらない。
肩が震える。
神崎は何も言わなかった。
ただ黙って待っていた。
長い時間だった。
ようやく葵が顔を上げる。
目は真っ赤だった。
「ごめん」
「謝るな」
神崎は短く言った。
そして少しだけ視線を落とす。
「お前の父さん」
葵は神崎を見る。
神崎は続けた。
「最後まで戦ってた」
再び涙が溢れた。
今度は悲しみではない。
誇らしさだった。
父は逃げなかった。
折れなかった。
負けなかった。
真実は消されても。
残っていた。
神崎は報告書の別ページを開く。
そこには承認欄があった。
調査妨害を指示した人物。
署名。
名前。
三浦隆一。
若き日の三浦専務だった。
葵の目が鋭くなる。
「やっぱり」
神崎は頷く。
「全部繋がった」
五年前。
父を潰した男。
現在。
会社を支配する男。
同一人物。
もはや疑いようがなかった。
夕方になった。
神崎が夕食を作ると言い出した。
驚いた。
だが本当に作った。
生姜焼き。
味噌汁。
冷奴。
炊き立てのご飯。
質素だが温かかった。
「意外」
葵が言う。
「何が」
「料理するんだ」
神崎は少しだけ肩をすくめた。
「一人暮らし長いからな」
二人で食卓を囲む。
窓の外では夕焼けが広がっていた。
橙色の光が部屋へ差し込む。
葵は久しぶりにまともな食事をした気がした。
ご飯が美味しい。
味噌汁も温かい。
胸の奥の重さが少しだけ軽くなる。
食後。
神崎が言った。
「もうすぐだ」
「何が?」
「終わらせる時が」
葵は窓の外を見た。
夕陽が沈み始めている。
父の報告書。
三浦の名前。
消された真実。
全部揃った。
あと少しだ。
葵は静かに頷いた。
「うん」
涙はもう出なかった。
代わりに強い決意があった。
父が守ろうとしたもの。
父が託した言葉。
『規則は人を守るためにある』
その言葉を。
今度は自分が守る番だった。
そしてその夜。
ネクスト・ソリューションズ本社では。
三浦専務が静かに報告を受けていた。
「白川がまだ動いています」
三浦は窓の外を見た。
夜景が広がっている。
「そうか」
低い声。
冷たい目。
「ならば潰せ」
その言葉が静かな執務室に落ちた。
決戦の日は。
もうすぐそこまで迫っていた。




