第7話 砂上の楼閣
第7話 砂上の楼閣
七月最初の日曜日だった。
久しぶりに朝から晴れていた。
窓から差し込む陽射しは眩しく、ベランダの植木の葉が風に揺れている。
だが白川葵の心は晴れなかった。
テーブルの上には神崎から預かった資料が山のように積まれている。
営業実績一覧。
契約書。
売上報告書。
内部通報の記録。
そして数え切れないほどの数字。
冷めた紅茶を一口飲む。
アールグレイの香りが広がる。
だが味を感じる余裕はなかった。
目の前の資料がおかしかったからだ。
あまりにも。
午前十時。
インターホンが鳴った。
神崎だった。
今日は私服だった。
白いシャツに黒いパンツ。
珍しく紙袋を持っている。
「朝飯」
「え?」
「食べてないだろ」
紙袋の中からサンドイッチが出てきた。
卵。
ハム。
レタス。
さらにアイスコーヒーまで入っている。
葵は思わず笑った。
「ありがとう」
「倒れられると困る」
相変わらず不器用な言い方だった。
二人はテーブルを挟んで座った。
サンドイッチを頬張りながら資料を見る。
神崎がパソコンを開いた。
「見つけた」
「何を?」
「循環取引」
葵は眉をひそめた。
神崎は画面を見せる。
グラフだった。
複数の会社名が並んでいる。
ネクスト・ソリューションズ。
関連会社A。
関連会社B。
関連会社C。
矢印がぐるぐる回っている。
「これが?」
「売上だ」
神崎が言った。
「商品は動いてない」
「え?」
「請求書だけ回してる」
葵は絶句した。
架空取引。
紙の上だけで売上を作る手法。
会計士だった父から聞いたことがある。
だが。
こんな規模は見たことがない。
「まさか……」
「年間二十億以上」
神崎が言う。
「全部架空だ」
部屋の空気が重くなる。
葵は資料をめくる。
数字。
数字。
数字。
そのほとんどが嘘だった。
黒崎の営業成績も。
営業本部の実績も。
会社の成長も。
全部。
砂の上に積み上げられた城だった。
「だから黒崎は昇進できた」
葵が呟く。
「そうだ」
神崎が頷く。
「本当の営業力じゃない」
さらに資料を開く。
そこにはM案件の文字があった。
何度も。
何度も。
何度も。
まるで幽霊みたいに。
消えたはずの案件が何年も現れている。
「神崎」
「なんだ」
「これ五年前から?」
神崎は黙って頷いた。
葵の背中に冷たいものが走った。
父が消された年だ。
偶然ではない。
絶対に。
その時だった。
スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
葵は出た。
「はい」
数秒の沈黙。
そして。
「白川さん」
聞き覚えのある声だった。
三浦専務。
葵の全身が硬直する。
「専務」
「少し話がしたい」
その声は穏やかだった。
だから余計に怖かった。
その日の夕方。
指定されたホテルラウンジ。
高層階。
窓の外には夕焼けに染まる東京の街が広がっていた。
革張りの椅子。
落ち着いた照明。
ピアノの生演奏。
コーヒーの香り。
三浦専務はすでに座っていた。
高級スーツ。
高級時計。
余裕に満ちた笑顔。
「座りなさい」
葵は向かいに座る。
アイスティーが運ばれてきた。
氷が涼しげな音を立てる。
だが葵は一口も飲まなかった。
「何のご用ですか」
三浦は笑った。
「単刀直入に言おう」
窓の外を眺める。
まるで雑談でもするように。
「調査をやめなさい」
葵は無言だった。
三浦は続ける。
「あなたは優秀だ」
「だから残念だ」
「お父さんによく似ている」
その瞬間。
胸が強く痛んだ。
父の話をするな。
そう言いそうになった。
だが耐える。
「父をご存じなんですか」
三浦は笑った。
「もちろんだ」
その笑顔が気持ち悪かった。
「真面目だった」
「優秀だった」
「だが融通が利かなかった」
葵の指が震える。
怒りで。
「何が言いたいんですか」
三浦は初めて真顔になった。
そして静かに言った。
「お前の父親と同じ運命になるぞ」
空気が凍った。
ラウンジの音が遠くなる。
ピアノの音も。
人の話し声も。
何も聞こえない。
「脅迫ですか」
葵は言った。
三浦は肩をすくめる。
「忠告だ」
「会社を敵に回すな」
「会社?」
葵は笑った。
自分でも驚くほど冷たい笑いだった。
「会社じゃありませんよ」
三浦の目が細くなる。
葵は続けた。
「あなたたちでしょう」
沈黙。
数秒。
三浦の顔から笑みが消えた。
「若いな」
「真実を知りたいだけです」
「真実?」
三浦は鼻で笑う。
「真実で会社は守れない」
「嘘で守る会社に価値はありません」
その瞬間。
三浦の目が冷たくなった。
蛇みたいだった。
「後悔するぞ」
葵は立ち上がった。
バッグを持つ。
そして一礼する。
「父は後悔しませんでした」
三浦が初めて表情を変えた。
わずかに。
ほんのわずかに。
動揺した。
葵はそのまま歩き出した。
ホテルを出る。
夕暮れの風が頬を撫でる。
遠くで蝉が鳴いていた。
夏が来る。
長い戦いになりそうだった。
スマートフォンが震える。
神崎だった。
『どうだった』
葵は立ち止まる。
そして返信した。
『黒幕が確定した』
すぐ返事が来る。
『そうか』
短い。
だがその一言だけで十分だった。
一人じゃない。
そう思えた。
見上げると夕焼け空が広がっていた。
美しかった。
だが。
その美しさの下で。
ネクスト・ソリューションズという巨大企業は崩れ始めている。
循環取引。
架空売上。
粉飾決算。
巨大な城は砂でできていた。
そして今。
その砂の一粒一粒が崩れ始めている。
葵は歩き出した。
父が辿り着けなかった真実まで。
あと少しだった。




