第6話 内部通報者
第6話 内部通報者
職務停止から一週間が過ぎていた。
六月の終わり。
雨はようやく途切れ始めていたが、空はまだ重い雲に覆われている。
白川葵は朝早く目を覚ました。
いつもなら出社の準備をしている時間だった。
しかし今は違う。
会社へ行くことは許されていない。
コンプライアンス室長でありながら、社内システムへのアクセス権も停止されている。
テーブルの上には食べかけのトーストと半熟の目玉焼き。
淹れたてのコーヒーの香りだけが部屋に漂っていた。
だが食欲はなかった。
スマートフォンを見つめる。
神崎からの連絡は昨夜から来ていない。
妙な胸騒ぎがしていた。
その時だった。
画面が光る。
神崎だった。
『今夜。二十時。来られるか』
短い文章。
葵はすぐ返信する。
『どこへ?』
返事は一分後に来た。
『会社の近くの喫茶店』
そのあとに。
『大きな動きがあった』
葵の心臓が高鳴った。
夜。
指定された喫茶店は古い店だった。
木製の扉。
琥珀色の照明。
コーヒー豆の香ばしい香り。
ジャズが小さく流れている。
窓際の席に神崎がいた。
白いシャツの袖をまくり、珍しく疲れた顔をしている。
「遅かったな」
「電車が止まってたの」
葵は席に座った。
アイスコーヒーを注文する。
グラスに浮かぶ氷が小さく鳴った。
神崎は周囲を確認した。
誰もこちらを見ていない。
それを確認してから小さな封筒を差し出す。
「何これ」
「内部通報」
葵は目を見開いた。
「まさか」
「コンプライアンス窓口に届いた」
「でも私は職務停止中よ」
「だから俺に回ってきた」
神崎の声は低かった。
「普通じゃない」
封筒は分厚かった。
中にはUSBメモリ。
そして手紙。
葵は震える手で紙を開いた。
そこには乱れた文字が並んでいた。
『助けてください』
その一文から始まっていた。
営業部の若手社員だった。
名前は伏せられている。
だが内容は生々しかった。
売上の改ざん。
架空契約。
数字の水増し。
達成していない営業成績の偽装。
そして。
従わなければ異動。
降格。
退職勧告。
若手社員は追い詰められていた。
「酷い……」
葵は呟いた。
神崎は頷く。
「まだある」
USBをノートパソコンへ差し込む。
音声ファイルが表示された。
録音日時。
二か月前。
営業本部会議室。
再生。
雑音。
椅子を引く音。
誰かが咳払いをする。
そして。
黒崎の声。
『数字が足りません』
聞き慣れた声だった。
続く。
『契約予定を今月計上します』
別の声。
若い男性。
震えている。
『まだ契約してません』
『来月になる予定です』
黒崎は笑った。
『来月契約するなら同じだろ』
『数字は今必要なんだ』
葵の指が止まる。
これは完全にアウトだった。
営業成績の偽装。
さらに録音は続く。
若手社員が言う。
『それは規定違反です』
一瞬の沈黙。
そして。
黒崎の声が低くなる。
『会社に残りたいなら従え』
空気が変わった。
圧力。
脅し。
録音越しでも伝わってくる。
葵は唇を噛んだ。
しかし。
本当に衝撃だったのはその後だった。
別の声が聞こえる。
低く落ち着いた声。
聞き覚えがある。
神崎と葵は同時に顔を上げた。
三浦専務だった。
『黒崎』
『はい』
『例の件は問題ないな』
『処理済みです』
『数字は作れ』
『責任は私が持つ』
葵は凍りついた。
喫茶店の空気が急に冷たく感じる。
アイスコーヒーの氷が溶ける音だけが聞こえた。
「三浦……」
声がかすれる。
神崎は黙ったままだった。
録音は続く。
『監査が来ても問題ない』
『必要なら契約書も後で整えろ』
『今は数字が最優先だ』
録音終了。
沈黙。
長い沈黙だった。
葵はしばらく何も言えなかった。
店員がナポリタンを運んでくる。
鉄板の上でジュウジュウと音が鳴る。
ケチャップの甘い香り。
だが二人とも手を付けない。
「黒崎だけじゃなかった」
葵が呟く。
神崎は頷いた。
「最初からそう思ってた」
「でも」
葵は首を振る。
「ここまでとは思わなかった」
三浦専務。
会社ナンバー2。
次期社長候補。
その人物が不正を指示していた。
つまり。
敵は営業部ではない。
会社そのものだった。
神崎が言う。
「まだ終わりじゃない」
「え?」
「通報者はもう一つデータを残してる」
新しいファイルを開く。
そこには一覧表があった。
架空契約。
循環取引。
水増し売上。
数十件。
いや。
百件近い。
葵の背筋を冷たい汗が流れる。
「こんなの……」
「組織的だ」
神崎が言う。
「個人では無理だ」
窓の外では雨が再び降り始めていた。
街灯に照らされて銀色に光る。
葵は父のことを思い出す。
五年前。
父もきっと何かを見た。
だから消された。
だから会社を追われた。
胸の奥で怒りが燃え上がる。
静かに。
しかし確実に。
「神崎」
「なんだ」
「私は戦う」
神崎は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
「知ってる」
葵も笑った。
久しぶりだった。
心から笑えたのは。
恐ろしい相手だ。
巨大すぎる敵だ。
だが。
もう引き返せない。
黒崎は駒に過ぎなかった。
その背後には。
会社を動かす巨大な闇がいた。
そして今。
その闇の輪郭がようやく見え始めていた。




