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第5話 葵を消せ

第5話 葵を消せ


六月中旬。


梅雨空が続いていた。


朝から重たい雲が空を覆い、窓ガラスには細かな雨粒が張り付いている。


白川葵は少し早めに出社していた。


淡いグレーのブラウスにネイビーのタイトスカート。


髪をきちんとまとめ、いつも通りの姿だった。


だが胸の奥には嫌なざわつきがあった。


昨日消されたデータ。


誰かが動いている。


それだけは間違いなかった。


法務部のフロアへ足を踏み入れた瞬間だった。


空気がおかしい。


社員たちが視線を逸らす。


話し声が止まる。


葵は足を止めた。


何かあった。


それもかなり悪いことが。


自席へ向かう。


すると若手社員の一人が慌てて立ち上がった。


「あ、あの……白川室長」


「どうしたの?」


その女性社員は言いにくそうに唇を噛んだ。


「これ……」


差し出されたスマートフォン。


画面を見た瞬間。


葵は固まった。


匿名掲示板だった。


大きな文字が躍っている。


『ネクスト・ソリューションズ法務部室長によるパワハラ疑惑』


『部下への恫喝音声流出』


『婚約破棄で逆上』


『私怨による権力乱用』


次々と並ぶ文字。


胃の奥が冷たくなる。


「何……これ」


誰かが作った嘘だった。


しかし。


そこには音声ファイルまで添付されていた。


再生ボタン。


葵は震える指で押した。


『仕事ができないなら辞めればいい』


『あなたみたいな人は必要ない』


『私に逆らうの?』


自分の声だった。


いや。


違う。


確かに声は自分だ。


だが言っていない。


そんな言葉。


一度も。


「捏造……」


葵は呟いた。


AIで編集された音声。


切り貼りされた会話。


法務担当だから分かる。


だが一般人には分からない。


投稿はすでに拡散していた。


社内SNS。


匿名掲示板。


動画サイト。


至るところで。


スマートフォンが震える。


また通知。


また通知。


また通知。


気持ち悪いほど鳴り続ける。


その時だった。


内線電話が鳴る。


「白川室長」


秘書課だった。


「専務がお呼びです」


葵は目を閉じた。


来た。


そう思った。


役員フロア。


分厚い絨毯。


静かな廊下。


専務室の前に立つ。


ノック。


「失礼します」


中には三浦専務がいた。


高級な革張りの椅子。


磨かれたデスク。


コーヒーの香り。


窓の外には雨に煙る東京の街。


「座りなさい」


三浦の声は穏やかだった。


葵は腰を下ろす。


その横には人事部長もいる。


空気は重かった。


「例の件は見たかな」


三浦が言う。


「はい」


「困ったことになった」


他人事のようだった。


葵は黙っていた。


三浦は続ける。


「社員から複数の相談が来ている」


「事実無根です」


葵は即答した。


「音声は編集されています」


「証明できるかな?」


葵は言葉を失う。


証明はできる。


だが時間がかかる。


その間に世論は動く。


三浦はゆっくりとコーヒーを飲んだ。


「会社としても対応が必要だ」


「つまり?」


「調査が終わるまで職務停止だ」


その言葉が胸に突き刺さる。


職務停止。


コンプライアンス室長。


権限剥奪。


調査権限停止。


すべてを意味していた。


「納得できません」


葵は言った。


「私が調査していた件と関係があります」


三浦は初めて目を細めた。


「何のことかな」


「M案件です」


沈黙。


ほんの一瞬。


だが確かに三浦の表情が動いた。


すぐに元へ戻る。


「職務停止は決定事項だ」


会話は終わった。


追い出されるように部屋を出る。


廊下が長く感じた。


息苦しい。


まるで空気が薄い。


エレベーターの鏡に映る自分の顔は青白かった。


父も。


こんな気持ちだったのだろうか。


その日の夕方。


葵は段ボール箱を渡された。


私物整理。


まるで五年前の光景だった。


社員たちの視線が痛い。


同情。


疑惑。


好奇心。


様々な感情が混じっている。


誰も声をかけない。


その時だった。


「葵」


神崎だった。


黒いシャツ姿のまま立っている。


「聞いた」


「早いわね」


「会社中の噂になってる」


神崎は段ボール箱を見た。


そして静かに言う。


「信じてる」


その一言で。


危うく涙が出そうになった。


「ありがとう」


神崎は周囲を確認した。


誰もいない。


「黒崎じゃない」


「え?」


「こんな工作ができるのはもっと上だ」


葵も同じことを考えていた。


これは婚約破棄された男の嫌がらせではない。


組織的だ。


計画的だ。


誰かが本気で葵を潰そうとしている。


帰宅した頃には夜になっていた。


雨はまだ降っている。


アパートの部屋は静かだった。


ブラウスを着替え、柔らかな部屋着に袖を通す。


冷蔵庫を開ける。


何も食べたくない。


それでも体は正直だった。


簡単に作った。


鮭のお茶漬け。


梅干し。


ほうれん草のおひたし。


湯気が立つ。


出汁の香りが広がる。


一口食べる。


温かい。


その温かさが逆につらかった。


父の写真立てが目に入る。


あの日。


段ボール箱を抱えて帰宅した父。


母が泣いていた。


自分は何もできなかった。


そして今。


同じ道を歩いている。


「お父さん……」


声が震える。


悔しかった。


情けなかった。


怖かった。


でも。


諦めたくなかった。


その時。


スマートフォンが震えた。


神崎からだった。


短いメッセージ。


『まだ終わってない』


そのあとに。


もう一通。


『消されたと思ったデータのバックアップを見つけた』


葵は顔を上げた。


雨音が聞こえる。


暗い夜だった。


けれど。


ほんの少しだけ。


遠くに光が見えた気がした。


敵は大きい。


会社そのものかもしれない。


それでも。


真実はまだ消えていない。


葵はスマートフォンを握りしめた。


父が守ろうとしたもの。


自分が守りたいもの。


そのために戦うしかない。


窓の外で雷が光った。


だが今度は不思議と怖くなかった。


反撃は。


ここから始まるのだから。



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