第4話 消された領収書
第4話 消された領収書
六月に入った。
朝から雨だった。
ネクスト・ソリューションズ本社の窓ガラスを細かな雨粒が叩いている。
灰色の空。
濡れた街路樹。
通勤途中に濡れたアスファルトの匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
葵は濃紺のパンツスーツの袖を整えながらエレベーターを降りた。
法務部のフロアはいつも通りだった。
コピー機の音。
電話のベル。
社員たちの雑談。
しかし葵の心は落ち着かなかった。
昨夜発見したM案件の資料。
あれは偶然ではない。
そう確信していた。
昼過ぎ。
神崎から短いメッセージが届く。
『十八時。地下資料室』
それだけだった。
葵は小さく息を吐く。
神崎らしい。
十八時。
業務終了後。
地下資料室はひんやりしていた。
古い紙の匂い。
段ボール。
キャビネット。
蛍光灯の白い光。
人気はない。
神崎はノートパソコンを開いて待っていた。
黒いシャツ姿だった。
「お疲れ」
葵が言う。
「お疲れ」
神崎はいつも通り無表情だった。
だが目だけが鋭い。
「見つかった?」
葵が尋ねる。
神崎は頷いた。
「かなりまずい」
「どのくらい?」
「想像以上」
神崎はパソコンを回した。
画面には社内経費システムが映っている。
大量のデータ。
数字。
申請書。
承認履歴。
「削除済みフォルダから復元した」
神崎が言った。
「黒崎課長関連だ」
葵の背筋が伸びる。
画面を見つめる。
そこには。
高級レストラン。
高級クラブ。
高級ホテル。
次々と並ぶ領収書。
「営業推進費」
「顧客接待費」
「商談費」
そう記載されている。
だが実際の利用内容は違った。
「これ見ろ」
神崎が一枚を開く。
銀座の高級フレンチ。
利用人数二名。
利用金額四十八万円。
利用日。
萌香のSNS投稿と一致する。
「同じ日……」
「そうだ」
神崎が言う。
「しかも相手先企業の訪問履歴なし」
葵は眉をひそめた。
つまり。
業務ではない。
完全な私的利用だった。
さらに別の領収書。
高級ホテル。
スイートルーム。
二十五万円。
その日も萌香はSNSでホテルラウンジの写真を投稿していた。
「全部繋がってる」
葵が呟く。
神崎は次の画面を開いた。
「まだ終わりじゃない」
今度は接待記録だった。
取引先企業。
契約担当者。
高額な飲食。
高額な贈答品。
金額が異常だった。
「これはまずいわ」
葵の声が低くなる。
「かなり」
神崎も頷いた。
「普通の接待じゃない」
競合他社を排除するための不正な利益供与。
その疑いが濃厚だった。
雨音が強くなる。
地下室の窓を叩いている。
まるで何かの警告みたいだった。
葵は拳を握る。
「これだけあれば監査請求できる」
「まだある」
神崎はそう言った。
そして最後のファイルを開く。
M案件。
その文字が現れる。
葵の心臓が大きく跳ねた。
添付資料。
経費明細。
承認履歴。
支払先。
そして。
百二十五万円。
「これよ」
葵が身を乗り出す。
「全部の始まり」
神崎がファイルを開いた。
数秒後。
画面が真っ白になる。
エラーメッセージ。
閲覧権限がありません。
「何?」
葵が呟く。
神崎も眉をひそめた。
「おかしい」
再度開く。
同じ表示。
さらに別のファイル。
閲覧権限がありません。
また別。
閲覧権限がありません。
「そんなはずない」
神崎が初めて苛立った声を出した。
キーボードを叩く。
次々にファイルを確認する。
しかし。
M案件関連だけが見られない。
「消されてる?」
「いや」
神崎は首を振る。
「今消された」
「今?」
「アクセスした瞬間に権限変更が走った」
葵の背中を冷たい汗が流れる。
誰かが見ている。
そう思った。
その時だった。
地下資料室のドアが開いた。
二人は同時に振り向く。
清掃員だった。
高齢の女性が驚いた顔をする。
「ご、ごめんなさいね」
ほっと息を吐く。
だが嫌な感覚は消えない。
誰かがいる。
どこかで。
神崎は静かに言った。
「葵」
「なに」
「俺たちの調査が知られてる」
地下室の空気が急に冷たくなった気がした。
「黒崎?」
「違う」
神崎は即答した。
「黒崎じゃない」
「じゃあ誰?」
神崎は数秒黙った。
そして。
「もっと上だ」
葵は息を止めた。
営業課長程度ではない。
もっと上。
役員クラス。
経営層。
そこまで考えた瞬間。
五年前の父の顔が浮かぶ。
父もまた。
何かを見つけたのではないか。
だから消されたのではないか。
胸の奥が重くなる。
帰宅したのは二十二時近かった。
アパートの窓に雨粒が流れている。
シャワーを浴びる。
熱い湯が肩を流れる。
だが疲れは取れない。
簡単に夕食を作った。
鮭のおにぎり。
卵焼き。
豆腐の味噌汁。
温かい湯気が立つ。
しかし箸が進まなかった。
テーブルの上には父の写真立てがある。
昔の笑顔。
優しい目。
葵は静かに写真を見つめた。
「お父さん」
小さく呟く。
「あなたも見つけたの?」
返事はない。
雨音だけが聞こえる。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
神崎からだった。
短いメッセージ。
『今すぐ会社のサーバーを見るな』
葵の心臓が跳ねる。
すぐに電話をかける。
神崎が出た。
「何があったの?」
「消された」
「何が?」
数秒の沈黙。
そして神崎が言った。
「今日復元したデータ全部だ」
葵は立ち上がった。
椅子が大きな音を立てる。
「全部?」
「ああ」
神崎の声は低かった。
「誰かが本気で隠そうとしてる」
窓の外で雷が鳴った。
白い光が部屋を照らす。
葵はスマートフォンを握り締めた。
黒崎の不正。
百二十五万円。
M案件。
そして。
証拠を消せるほどの権限を持つ人物。
敵は思っていたより遥かに大きい。
その巨大な闇が、ゆっくりと姿を現し始めていた。




