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第3話 映り込んだ真実

第3話 映り込んだ真実


公開婚約破棄から三日が過ぎていた。


五月の朝。


ネクスト・ソリューションズ本社の窓から差し込む光は眩しかったが、葵の心は妙に静かだった。


悲しくないわけではない。


三年間付き合った婚約者だった。


結婚式場の下見もした。


家具も選び始めていた。


それでも涙は出なかった。


代わりに残ったのは違和感だった。


M案件。


百二十五万円。


萌香のブレスレット。


そして黒崎の不自然な態度。


どこかに必ず真実がある。


葵はそう確信していた。


昼休み。


社員食堂の窓際で、葵は一人ランチを取っていた。


本日の定食は鯖の塩焼きだった。


湯気の立つ味噌汁。


炊きたての白米。


大根おろし。


口に運んでも味がよく分からない。


そこへトレーを持った神崎がやって来た。


「隣、いいか」


「どうぞ」


神崎は無言で座った。


唐揚げ定食だった。


山盛りのキャベツの横でレモンが光っている。


数分後。


神崎がぽつりと言った。


「黒崎課長と紅林の件」


葵は箸を止めた。


「何か分かった?」


「まだ断定はできない」


神崎は味噌汁を一口飲んだ。


「だが面白いものを見つけた」


その言葉に葵の目が細くなる。


神崎が面白いと言う時は、大抵ろくでもない発見がある。


「今夜、時間あるか」


「あるわ」


「会議室を押さえておく」


その日の業務終了後。


法務部の小会議室。


ブラインドが下ろされた室内にはコーヒーの香りが漂っていた。


神崎はノートパソコンを開く。


画面に表示されたのは萌香のSNSだった。


「フォロワー十五万人」


葵が呟く。


「人気者ね」


「本人もそう思ってる」


神崎は無表情だった。


画面には萌香の写真が並んでいた。


高級ランチ。


ブランドバッグ。


ネイル。


ホテルのアフタヌーンティー。


キラキラした生活ばかりだ。


「この写真を見ろ」


神崎が一枚の画像を拡大した。


萌香がオフィスで自撮りしている写真だった。


ピンクのジャケット。


笑顔。


その背後にガラス窓がある。


「ただの自撮りじゃないの?」


「よく見ろ」


さらに拡大。


葵は息を止めた。


窓ガラスに反射したホワイトボード。


そこに文字が映っている。


顧客名。


提案金額。


契約予定日。


営業部しか知らない情報だった。


「これ……」


「完全に映り込んでる」


神崎が言う。


「しかも複数社分」


葵は思わず額を押さえた。


背筋が寒くなる。


もし競合他社が見ればどうなるか。


大問題だった。


「本人は気付いてない」


神崎は淡々と続けた。


「承認欲求が強い人間によくある」


葵は再び画面を見た。


確かに萌香は気付いていない。


無邪気な笑顔だった。


だからこそ怖い。


悪意のない情報漏洩ほど厄介なものはない。


「他にもある」


神崎が別の画像を開いた。


高級レストランの写真だった。


黒い皿に盛られたキャビア。


シャンパン。


夜景。


そして。


萌香の左手。


ブレスレット。


あのブレスレットだった。


「購入時期を追った」


神崎が言う。


「投稿日時は公開婚約破棄の二週間前」


「二週間前……」


「さらにブランド公式サイトも確認した」


神崎は画面を切り替える。


海外高級ブランドのページだった。


価格表示。


百二十二万円。


葵の心臓が跳ねる。


百二十二万円。


百二十五万円。


ほとんど同じだ。


「偶然かしら」


神崎は答えなかった。


代わりに新しい画像を表示する。


萌香の投稿だった。


そこには。


『大切な人からプレゼント♡』


と書かれていた。


葵の胸の奥が冷たくなる。


「大切な人」


神崎が呟く。


「誰だろうな」


「分かりきってるわ」


葵は静かに答えた。


会議室に沈黙が落ちた。


エアコンの音だけが聞こえる。


やがて神崎が言った。


「まだある」


「まだ?」


「本命だ」


神崎は最後の写真を開いた。


萌香がカフェで撮影した画像だった。


パンケーキ。


フルーツ。


アイスティー。


何の変哲もない写真。


だが。


「ここ」


神崎が指差した。


テーブルの端。


紙が映っている。


偶然入り込んだらしい。


葵は目を凝らした。


そして凍り付いた。


社内資料だった。


営業推進費申請書。


その一部が映っている。


はっきりとは見えない。


だが。


案件コードだけは読めた。


M案件。


全身に鳥肌が立った。


「嘘……」


思わず声が漏れる。


神崎も珍しく表情を険しくした。


「偶然とは思えない」


窓の外では夜の街が光っていた。


車のヘッドライト。


ビルの明かり。


だが葵には何も見えていなかった。


父の背中が脳裏によみがえる。


雨の日。


段ボール箱。


うつむいた横顔。


そして書類に書かれていた文字。


M案件。


同じ名前。


同じ案件。


五年前から続いている。


「神崎」


「なんだ」


「これ、ただの浮気じゃない」


「ああ」


神崎は頷いた。


「俺もそう思う」


葵はゆっくり立ち上がった。


胸の奥で何かが形を変えていく。


婚約破棄の傷ではない。


怒りでもない。


真実を暴きたいという執念だった。


百二十五万円。


ブレスレット。


情報漏洩。


そしてM案件。


すべての点が少しずつ繋がり始めている。


その時だった。


会議室のドアがわずかに揺れた。


誰かが外にいたような気がした。


葵と神崎は同時に振り向く。


しかし廊下には誰もいない。


ただ遠くでエレベーターの閉まる音だけが響いていた。


気のせいか。


それとも。


誰かが二人の調査に気付き始めたのか。


葵は閉じられたドアを見つめた。


知らず知らずのうちに、本当に危険な場所へ足を踏み入れている。


そんな予感だけが、静かに胸の奥で膨らんでいた。



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