第2話 公開婚約破棄
第2話 公開婚約破棄
ネクスト・ソリューションズ創立三十周年記念パーティー当日。
都内有数の高級ホテルの大宴会場には、華やかなシャンデリアの光が降り注いでいた。
磨き上げられた大理石の床。
生花で彩られたテーブル。
ローストビーフの香ばしい匂い。
バターをたっぷり使ったパイの甘い香り。
グラス同士が触れ合う澄んだ音。
社員たちの笑い声。
そのすべてが成功企業らしい祝祭の空気を作り出していた。
葵は鏡の前で最後に身だしなみを整えた。
濃紺のドレス。
首元には小さなパール。
髪は低い位置でまとめている。
派手さはない。
だが法務部室長としての品格を意識した装いだった。
鏡の中の自分を見つめながら、葵は小さく息を吐く。
昨夜から眠りが浅かった。
M案件。
その文字が頭から離れない。
だが今は考えないことにした。
今夜は会社の式典だ。
余計な感情を持ち込む場ではない。
会場へ入ると、営業部の女性社員たちがざわめいていた。
「黒崎課長、今日もかっこいい」
「営業本部長になるんじゃない?」
「あり得るよね」
黒崎はグレーのタキシード姿だった。
背が高く、よく目立つ。
周囲の注目を集めることに慣れている男だった。
葵を見つけると微笑む。
「似合ってるよ」
「ありがとう」
「終わったら少し話そう」
そう言ったが、どこか視線が落ち着かない。
その違和感を覚えた瞬間だった。
甘いバニラの香りが漂う。
振り向くと萌香がいた。
白いレースのドレス。
肩を大胆に見せたデザイン。
手首には例の高級ブランドのブレスレットが輝いている。
萌香は黒崎の隣へ自然に立った。
その距離が近い。
近すぎる。
葵の胸の奥に冷たいものが落ちた。
やがて壇上で社長の挨拶が始まった。
会社の成長。
今後の展望。
来期計画。
拍手が続く。
シャンパンが配られる。
料理も運ばれてきた。
フォアグラのテリーヌ。
サーモンのマリネ。
ローストビーフ。
彩り豊かな野菜。
しかし葵は味がよく分からなかった。
何かがおかしい。
そんな予感だけが膨らんでいく。
その時だった。
黒崎が突然立ち上がった。
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
会場が静まる。
営業部の社員たちが顔を見合わせる。
黒崎はマイクを握った。
その横に萌香が立つ。
嫌な予感がした。
心臓が一度だけ強く脈打つ。
「本日は皆様にご報告があります」
黒崎は堂々としていた。
まるで営業プレゼンをする時のように。
「私、黒崎竜也は――」
一拍置く。
会場中の視線が集まる。
そして。
「白川葵との婚約を解消いたします」
空気が止まった。
誰かが息を飲む音が聞こえた。
料理を運んでいたスタッフの足も止まる。
静寂。
異様な静寂だった。
黒崎は続ける。
「価値観の違いです」
会場の誰も動かない。
「私は結果を出すことを重視する」
「しかし彼女は違う」
「法務部らしく理想論ばかりだ」
笑いを誘うつもりだったのかもしれない。
だが誰も笑わない。
そして黒崎は萌香の肩を抱いた。
「今後は紅林萌香さんと真剣にお付き合いしていきます」
ざわめきが広がる。
萌香は恥ずかしそうに微笑んだ。
だがその目には勝利の色が浮かんでいた。
葵は黙っていた。
怒りも。
悲しみも。
今は感じなかった。
むしろ頭の中が静かだった。
異常なほど静かだった。
父が会社を追われた日のことを思い出す。
雨の日だった。
誰も父を守らなかった。
誰も真実を見ようとしなかった。
胸の奥で何かが冷たく固まっていく。
葵はゆっくり立ち上がった。
全員の視線が集まる。
黒崎が勝ち誇った顔で見ている。
萌香も見ている。
役員たちも見ている。
葵は左手を見た。
婚約指輪。
三年前にもらったものだった。
静かに外す。
会場は水を打ったように静まり返っていた。
葵は壇上へ歩いた。
ヒールの音だけが響く。
コツ。
コツ。
コツ。
黒崎の前まで来る。
そして指輪をテーブルの上へ置いた。
小さな金属音。
その音が妙に大きく聞こえた。
葵は黒崎を見つめる。
そして穏やかな声で言った。
「承知しました」
黒崎がわずかに眉を動かした。
泣き叫ぶと思っていたのだろう。
責め立てると思っていたのだろう。
だが葵の表情は静かだった。
「婚約解消について異議はありません」
会場がざわつく。
葵は続けた。
「以後は法務担当として、客観的かつ厳正に対応いたします」
その瞬間。
黒崎の笑みが消えた。
萌香の顔色も変わる。
その言葉の意味を理解したのだ。
婚約者ではない。
法務担当。
つまり。
これから葵は一切の私情を排除し、会社のルールだけで彼らを見るということだ。
「それでは失礼します」
葵は一礼した。
そして振り返る。
その時だった。
会場後方に立つ神崎誠と目が合った。
神崎は何も言わない。
だがその鋭い視線は、黒崎ではなく萌香の手首に向けられていた。
高級ブレスレット。
きらりと光る金具。
そして。
神崎はわずかに首を傾げた。
何かに気付いたように。
葵の胸がざわつく。
M案件。
百二十五万円。
萌香のブレスレット。
公開婚約破棄。
すべてがどこかで繋がっている。
そんな確信だけが静かに膨らんでいった。
この夜。
葵は婚約者を失った。
だが同時に。
父を追い詰めた闇へ続く扉が、ゆっくりと開き始めていた。




