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第1話 M案件

第1話 M案件


五月の夕暮れだった。


ネクスト・ソリューションズ本社の窓の向こうで、西日を受けたビル群が赤く染まっている。


法務部コンプライアンス室長の白川葵は、デスクの上のコーヒーカップを手に取った。


少し冷めてしまったコーヒーは苦かった。


だが、その苦味は嫌いではない。


静かなオフィス。


キーボードを叩く音。


コピー機の駆動音。


仕事が進む音は、不思議と心を落ち着かせる。


葵はパソコン画面の契約書を確認しながら、小さく息を吐いた。


壁時計は午後七時を回っている。


法務部のフロアにはもう数人しか残っていない。


「また最後まで残ってるな」


背後から声がした。


振り返る。


そこにいたのは黒崎竜也だった。


チャコールグレーのスーツ。


整った顔立ち。


営業本部課長。


社内トップセールス。


そして葵の婚約者。


「竜也さん」


「迎えに来た」


黒崎は笑った。


「今日は予約してある」


「予約?」


「丸の内のフレンチ」


葵は思わず笑う。


「また急ね」


「たまにはいいだろ」


そう言って黒崎は机の端に腰を掛けた。


その姿は自然だった。


あまりにも自然だった。


だから周囲の女性社員が彼に憧れるのも分かる。


営業成績は常にトップ。


上司受けもいい。


取引先からの評価も高い。


非の打ちどころがない。


少なくとも表向きは。


「何かあったの?」


葵が尋ねる。


すると黒崎は肩をすくめた。


「大型案件がまとまった」


「おめでとう」


「だから祝勝会だ」


黒崎は笑いながら言った。


「結局さ」


「?」


「会社って数字を作った人間が動かしてるんだよ」


葵は苦笑した。


また始まった。


黒崎の持論だ。


「そんなこと言うと法務部に怒られるわよ」


「事実だろ」


黒崎は立ち上がった。


「ルールも大事だ。でも最後に評価されるのは結果だ」


「結果のためにルールを破ったら終わりよ」


「その線引きが甘いんだよな、法務は」


冗談めかした口調だった。


だが葵は少しだけ引っかかった。


ほんの一瞬。


胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚。


理由は分からない。


その違和感はすぐに消えた。


二人は会社を出た。


夜風は心地よく、街路樹の若葉が揺れている。


丸の内のレストランは落ち着いた店だった。


柔らかな照明。


磨かれたグラス。


焼きたてのパンの香り。


オマール海老のソースからは濃厚な甲殻類の香りが立ち上っている。


窓際の席で向かい合う。


シャンパンの泡が静かに弾けた。


「乾杯」


グラスが軽く触れ合う。


「来月には専務とも会うことになると思う」


黒崎が言った。


「昇進?」


「まだ分からない」


そう言いながらも表情には自信があった。


営業本部長候補。


誰もがそう噂している。


料理が運ばれてくる。


仔羊のロースト。


赤ワインソース。


香ばしい匂い。


だが会話は次第に仕事の話になった。


「今の会社は慎重すぎる」


黒崎が言う。


「コンプライアンスだの監査だの」


「必要だからあるのよ」


「数字を作れない奴ほどルールを語る」


葵は眉をひそめた。


「その考え方は危険だわ」


黒崎は笑った。


反論はしなかった。


その時だった。


テーブルの上のスマートフォンが光った。


一瞬。


ほんの一瞬だけ。


画面が見えた。


黒崎の表情が変わる。


彼は慌てるようにスマートフォンを裏返した。


その動作が妙に速かった。


あまりにも速かった。


だからこそ葵は見逃さなかった。


経費精算申請。


百二十五万円。


営業推進費。


そして。


M案件。


葵の呼吸が止まった。


世界から音が消える。


なぜ。


なぜその名前が出てくるの。


M案件。


半年前に終了したはずの案件。


それだけではない。


遠い記憶の底。


雨の日。


段ボール箱。


沈んだ父の背中。


机の上に置かれていた書類。


そこにも確かに書かれていた。


M案件。


心臓が大きく脈打つ。


ドクン。


ドクン。


「どうした?」


黒崎の声で我に返った。


「顔色が悪いぞ」


「……少し疲れてるだけ」


葵は笑顔を作った。


黒崎は数秒見つめたあと、


「無理するなよ」


とだけ言った。


だがその夜。


帰宅しても。


シャワーを浴びても。


ベッドに入っても。


M案件という文字が頭から離れなかった。


まるで忘れていた何かが、暗闇の向こうからこちらを見ているようだった。




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