第97話 胸元大石割り
波有は顔の涙を拭うと、ニッコリと笑顔を作ってみせた。
「無畏の言う通りね! 私が悪かったわ。師兄たちを待たせちゃだめだよね!」
「師弟、大師兄と二師兄も呼んできてちょうだい。これからどうするか、人魚島へ行ったらどう動くか、みんなで相談しましょう!」
小亀は頷き、伊蘭と伊貴を呼びに行った。
部屋に入ってきた二人は、羅漢の真身へ恭しく頭を下げて一礼した。
小亀もまだ挨拶を済ませていないことを思い出し、大急ぎで後ろに並んで跪き、深く頭を下げたのだった。
器霊である無畏はまだ幼く、こうした人間独特の礼儀作法など知る由もない。ただ側で目を丸くしながら「へえ、面白そうなことやってるな」と眺めていた。
挨拶を終えると、みんなで床の上に輪になって座り込んだ。
伊貴は波有の心がまだ傷ついているのではないかと心配し、優しく声をかけた。
「師妹、少しは落ち着いたか? あんまり自分を責めるなよ。考えてもみろ、光如意羅漢だって天の上から見ておられるさ。今の君には、頼もしい師父と優しくて力強い師兄がいて、才能にあふれた師姉もいるんだ」
隣に座る小亀の肩をポンと叩いてニヤリと笑う。
「それに、とびきり男前な師弟まで揃ってるんだからな! 昔の師匠だって、きっと空の上で鼻を高くして喜んでるはずだぞ」
その言葉に場の空気が和らみ、みんなの口元からどっと笑いがこぼれた。
波有の胸に漂っていたしんみりとした切なさも、少しだけ吹き飛んでいった。
―――
すると、伊蘭が難しそうな顔で首をひねった。
「なあ波有ちゃん、急に思いついたんだが、ちょっと質問していいか?」
波有は「うん」と頷いて先を促す。
「この前通天山で、星盤仙尊からお前の前世の話を聞いただろ? その前世の時、お前は実質的に仮羅伯父の『師姉』だったわけだし、彼はお前に助けられた草亀だったわけだ」
「……じゃあなんで、彼はお前のことをキレイサッパリ忘れてたんだ?」
「もし、会った瞬間に昔のことを思い出してたら、もっと警戒して羅漢の真身や法具をしっかり隠せたはずだろ? そしたら心魔の奴に奪われることもなかったし、こんな面倒なことにもならなかったんじゃないか?」
普段は大雑把に見える大師兄だが、時折こういう鋭い観察力を見せるのだ。
波有はしばらく腕を組んで考え込んだが、やがて首を振った。
「仮羅伯父が私のことを覚えていなかった本当の理由は、よく分からないの」
「ただ……当時はまだ小さすぎて、知能(霊智)が開けていなかったんじゃないかしら。覚えているのは、毎日のご飯目当てで私の後ろをついて回っていたことくらいだし……」
二人の会話を静かに聞いていた小亀が、少し思案してからゆっくりと口を開いた。
「彼は僕の主人であり、僕自身は彼から分かれ出た存在です。だから分かりますが……彼の頭の中には、確かに幼少期の記憶が丸ごと存在しないんです」
彼は少し照れくさそうに苦笑いを浮かべた。
「僕たち亀族は、何をするのもテンポが遅いでしょう? みなさんもご存知の通りです」
「だから僕の主人が知能を開花させるのも、一般的な妖族よりずっと遅かったんだと思います」
波有は目を丸くした。
「でも、あんたはすっごく頭が良いじゃない! 師父の法術を覚えるのも一番早かったし!」
伊蘭と伊貴も「確かにその通りだ」と深く頷く。
小亀は顔を真っ赤にした。
「僕は主人に比べて、ずっと幸運だっただけですよ! 彼は普通の草亀からいろんな苦難を乗り越え、千年も修行を重ねてようやく大妖になったんです。でも僕は、最初から彼の霊力と法力を引き継いだ状態で生まれてきましたから」
それを聞いて「なるほどなあ」と深く納得した。
「でも、なんて言えばいいのかな……目に見えない大きな手が僕を導いて、師姉に巡り合わせてくれたような気がするんです」
「もしかしたら主人が僕の手を借りて、昔の命の恩に報いようとしたのかもしれませんね」
「初めて師姉を見た時、ものすごく温かくて懐かしい気配に引き寄せられて、どうしても後ろをついて行かずにはいられなかったんです」
小亀は口元を手で覆い、くすっと笑い声を漏らした。
「まあ、あの頃の師姉は人魚の姿に戻っていなくて、師父とまったく同じ顔をしていましたけどね!」
―――
伊貴はしみじみと頷いた。
「そうだなあ。目に見えない運命の導きってのは、確かにあるんだろうな」
「だから今回人魚島へ行くのも、難しく考えすぎるのはやめよう。自分たちの全力を尽くせばいいさ! 考えてもみろよ、星盤仙尊は未来を見通せる占いの大家だ。砂漠への旅だってそうだったろ?」
彼は言葉を続けた。
「仙尊は詳しいことを何も教えてくれなかったが、ただ『行け』とだけ言った。結果はどうだ? 紆余曲折はあったが、道はちゃんと開けたじゃないか! 今回も仙尊は僕たちの出発を止めなかった。だから絶対に上手くいくはずだ!」
伊貴は白い歯を見せてニッと笑った。
「それに今回は、甲ちゃんの光占羅盤の中に『蓋紅沙』をたっぷり詰めてある。無光の持つ如意錫杖のブラックホールに対抗するには十分すぎる量だぞ」
ここで大師兄の伊蘭が、いきなり割り込んできた。
「どうしても敵わなくなったら、無畏の中にサッと逃げ込めばいいんだ! 光があろうが無光だろうが、俺たちに手出しなんてできやしないさ!」
一同の視線が一斉に小さな無畏へと注がれた。
大人の難しい話についていけず退屈していたモヤシっ子は、うつむいて自分の指で手のひらにグルグルと円を描いていた。
「今回の旅は、無畏の頑丈さに命を救われることになりそうだな」
伊貴が愛おしそうに頭を撫でてやると、自分の存在が褒められたと察した無畏は、喉まで出かかっていた願い事をここぞとばかりに叫んだ。
「なあ! 出発する前に、アレを一目見に行こうぜ! 波有が言ってたやつ! 繁華街でやってる大道芸の『胸元大石割り』ってやつ!」
散々不機嫌そうに暴れていた原因がこれだと分かり、場にいた全員が思わず吹いてしまった。
無畏は目を丸くして「なんで笑うんだよ?」と不思議そうに首をひねる。
朝露のように澄み切った無邪気な大目玉で見つめられたら、誰も怒ることなんてできなかった。
―――
そこは、王都の繁華街で最も賑やかな大通りだった。
伊蘭たちは人ごみを押し分けながら、熱気あふれる人垣の中に紛れ込んでいた。
お目当ては言わずもがな——無畏が夢にまで見た大道芸「胸元大石割り」だ。
芸を披露している五人は、顔立ちがよく似ていることから一家族なのだろう。
幼い姉妹のふたりが、お盆を手に人垣を回りながら「ありがとうございます!」「感謝いたします!」と愛想よくお辞儀をし、投げ込まれる投げ銭を集めている。
父親らしき中年男は広場の隅に立ち、「季家雑技団」と黒字で大きく刺繍された赤い大旗を凛々しく掲げていた。
そして、逞しい体つきをしたふたりの青年が中心に立っている。
片方の青年が長椅子の上に仰向けに寝そべり、丸出しの胸の上に、テーブルほどもある平べったい巨大な石板をズドンと載せた。
もう片方の青年が重々しい鉄ハンマーを両手で高々と掲げ上げる!
観客から地鳴りのような歓声が上がる中、ハンマーが思い切り振り下ろされた!
ドカンッ!
衝撃音とともに、巨大な石板が一瞬で木っ端微塵に砕け散る。
どよめきが広がる中、寝そべっていた青年がゆっくりと起き上がり、体に散った石くずをパッパッと払い落とした。
ムキムキの腕をグッと上に突き出し、傷一つない頑丈な体を観客に見せつけたのだった。
「よっ!」「最高!」「すげえぞー!」
周囲の観客から爆発的な拍手と歓声が巻き起こる。
―――
しかし、伊蘭、伊貴、波有の三人は歓声に加わらなかった。
幼い頃から伊高屋に連れられて各地を旅してきた彼らにとって、この手の大道芸は見飽きるほど見てきた代物だったからだ。
三人はこっそりと、隣にいる小亀と無畏の様子を伺っていた。
伊蘭がヒソヒソ声で二人へ囁く。
「おい……あいつ、ショックで頭がおかしくなったんじゃないか?」
波有は真顔で言い返した。
「大師兄、大袈裟よ! 魂が抜けただけじゃない」
「ふたりとも、そんな言い方をするもんじゃないよ。無畏はまだ幼いし、沙漠から出たことがないんだ。こんな派手な光景を見たことがないんだから、驚くのも無理はないさ」
伊貴が苦笑いする。
なぜこんな会話をしているのかと言えば——。
小亀はちょっと腰を抜かしかけている程度だったが、無畏のリアクションが尋常ではなかったのだ!
背が低いため最前列に陣取っていた無畏は、まさに目の前で「ハンマー振り下ろし」の超絶大迫力シーンを目撃してしまった。
耳をつんざく大歓声を浴びながら、ショックのあまり直立不動で固まっている。
最終的に、無邪気な口の中に両手をまるごと突っ込んだまま、両目をギラギラと激しく燃やし、上半身裸の逞しい青年を狂気じみた視線で見つめ続けていたのだった。
小亀も彼の異変に気づき、慌てて押し寄せて無畏の口から手を引き抜いた。
「見物も終わったことだし、そろそろ本題に取りかかりましょう」
小亀が無畏の手を引いて人垣を抜け出そうとしたその時、お盆を持った小さな女の子が「ありがとうございます!」「お兄ちゃん、ありがとう!」と元気に声をかけながら近づいてきた。
すると無畏は小亀の手を強引に振り払い、懐からカモの卵ほどもある純金の塊を取り出すと——
ズドンッ!
容赦ない音を立てて、お盆の中へ叩き込んだのだった。




