第96話 前世は夢の如く
波有は静かに思いに耽っていた。
前世の記憶が次々と胸に込み上げてくる。
小亀も彼女の隣に寄り添い、守るように座っていた。
あの時、師兄との祝言を拒んだ後、師匠は何事もなかったかのように昔の優しい態度へ戻った。
時折、彼女たち体調を気遣ってくれることもあり、解脱院には再び穏やかで平穏な修行の日々が戻ってきた。
それからしばらく経ったある日のこと。
突然、師匠が「ひとり旅に出る」と言い出した。
「長旅になるかもしれんから、ふたりで励み、わしを待つ必要はない」と告げて出て行ったのだ。
ところが、大して日も経たないうちに戻ってきた。
しかもひとりではなく、土鍋ほどの大きさの珍しい亀を連れて。
「今回は実に運が良かった。奇妙な草亀をすぐに見つけられるとはな。これで亀の甲羅占い(亀卦)をするつもりだ」彼はふたりの弟子に得意気な顔で語った。
師匠の旧友は占術の大家であり、日頃から星盤仙尊の異能を羨ましく思っていたのだ。
甲羅の紋様が6つしかない極品の草亀を手に入れられたことが、嬉しくてたまらなかったのだろう。
師匠は、草亀に餌をやる役目を波有に任せた。
―――
その亀は食いつきも良く、人懐っこい性格をしていた。
彼女の姿を見つけるたび、短い四つの足をパタパタさせて、のろのろと食べ物をねだりにやってくるのだ。
毎日世話をしているせいか、気づけば傍らにはいつも亀が寄り添うようになっていた。
餌をやった後、彼女は小亀を抱きかかえて川へ連れて行くのが好きだった。
小さなブラシで甲羅を洗ってやると、亀も気持ちよさそうに短足をピーンと伸ばして洗われに身をゆだねてくる。
木の下で座禅を組むと、亀は頭と足を甲羅に引っ込め、守り人のように静かに隣で丸くなっていた。
そして彼女が立ち上がり、師匠にお茶を淹れに院へ戻るときも、一歩一歩後を追ってくるのだった。
亀は食欲旺盛であっという間に大きくなり、気づけば体が、机いっぱいの大きさまで成長していた。
日々を過ごすうちに、心には亀への愛着が芽生えていった。
同じ水族の生き物ということもあり、小亀を見ていると遥か遠い人魚島にいる族人たちの姿が重なった。
師匠がいずれこの亀を殺し、甲羅を剥いで占いに使うのだと思うと、胸が押し潰されるほど切なくなった。
愛おしくてたまらなくなった彼女は、ついに耐えきれず、勇気を振り絞って師匠の元へ駆け込んだ。
「お願いです、亀を殺さないでください!」と懇願したのだ。
しかし、師匠は首を縦に振らなかった。
焦った彼女は感情を爆発させ、思わず怒りにまかせて激しい言葉を言い放ってしまった。
草亀をかばいながら叫んだのだ。
「私、人を見る目がありませんでした! 師匠を間違えました! 師匠がこんなに残酷な人だったなんて思いもしなかった!」
普段は控えめで温厚な彼女が大声をあげて逆らったものだから、師匠はぽかんと呆然としていた。
だがすぐに瞳には冷たい寒気が宿り、ふつふつとした怒りが滲み出た。
しかし、当時は師匠の表情の変化にまで気が回らなかった。
彼女は一度感情が昂ると一直線に突き進んでしまう性格だったのだ。
続いて口から飛び出したのは、さらに信じられない一言だった。
「この草亀と一緒に、人魚島へ帰らせてください!」
師匠の顔色がガラリと変わった。
あの日、驕盧師兄に向けられた冷酷な目つきで、彼女と草亀を睨みつけたのだ。
苦々しい表情の裏には、隠しきれない強い嫌悪が渦巻いていた。
口を滑らせたと気づいた彼女は、慌てて頭を下げた。
「滅茶苦茶なことを言って申し訳ありません」と謝罪したものの、師匠は引きつった顔のまま何も言わず、ただ瞳の奥に不穏な光を怪しく揺らめかせるだけだった。
―――
だが、あの事件以来——彼女は常に師匠の「視線」を感じるようになった。
神識を使って自分の行動を陰から見張られている。
亀を連れて逃げるのではないかと疑っているのだろうか?
それからの師匠は、日に日に疑心暗鬼を募らせていった。
彼女への態度もコロコロと変わり、不気味で冷酷な視線を投げかけてくるようになった。
次第に師匠の変貌は加速し、ある時には怨念に満ちたドロドロとした目を向けられ、彼女も意識的に目線を避けるようになっていった。
(師匠はお怒りなのだ。きっと、あのこもすぐに殺されてしまうんだ……)
そう思うと胸が苦しくてたまらず、修行にも身が入らなくなっていった。
以前なら師兄の驕盧に悩みを聞いてもらえたが、「祝言拒絶」の件以来、避けるように引きこもって修行ばかりしていた。
彼女はひとり、草亀を相手に悲しみに暮れるしかなかったのだ。
―――
そしてある日。
師匠が彼女を部屋に呼び出し、冷たい声で告げた。
「……もう悲しむな。草亀を救う方法を見つけた」
彼女は跳び上がらんばかりに喜んだ。
しかし、師匠は冷ややかな瞳で彼女をじっと見つめ、こう続けた。
「ただし、これは人魚島に伝わる禁断の術だ。激しい痛みを伴う作業になる。お前が人魚の姫だからこそ使える方法なのだ」
そんな禁術など聞いたこともなかったが、草亀の命が助かるなら、多少の痛みなど耐えてみせると決意した。
何より、師匠がそう言うのだから間違いないと信じ切っていた。
彼女は言われるがままに悲しい歌を口ずさみ始めた。
歌うにつれ、経験したこともない強い脱力感と深い悲しみが、全身の細胞を蝕んでいく。
(もう少し……あと少しだけ耐えれば、涙が流れて、あの子が助かるんだ!)
自分にそう言い聞かせた。
やがて、生まれて一度も流したことのなかった涙が、目元からポロポロとこぼれ落ちていく。
それと引き換えにするように、体内の霊力が急速に失われていった。
雪のように白かった肌は透き通り、最後は完全に透明になって——目の前が真っ暗になり、あらゆる感覚が消え去ったのだった……。
―――
過去の光景が脳裏で目まぐるしく巡り、やがて波有は前世の記憶から現実へと戻ってきた。
(「去りし日は夢の如く」なんて言うけれど……前世の私って、本当におバカさんだったな! でも、もう夢から覚めたんだもの。前回の教訓を胸に刻んで、二度と同じ過ちなんて犯さないわ!)
彼女は首を少し傾げ、隣に立つ少年を見上げた。
柳のように美しい長眉に、玉の木のようにすっきりと整った佇まい。
あの日、自分の死が光如意の本心の意識を呼び覚まさなければ、この世に仮羅(草亀)も存在せず、目の前の「師弟」という存在も生まれていなかったのだ。
視線に気づいた小亀は、優しく微笑みかけた。
「通天山で星盤仙尊が師姉の前世の姿を『天人のようだ』と絶賛されて、『今の姿はその半分にも満たない』なんて仰っていましたが……僕に言わせれば、今のままでも世の中のどんな女性よりずっと素敵ですよ」
そう言って、彼は波有の顔をじっと見つめた。
「本当に、今のままで十分です。もし前世みたいに誰もがひれ伏すような美女だったら、僕は何の事も手につかなくなって、毎日ジェラシーの海で溺れ死んじゃいますからね」
「師弟……あなたはいつも私が落ち込んでいる時に笑顔にしてくれるのね。ありがとう!」
波有は心からの感謝を込めて伝えた。
ふたりがそんな会話を交わしていると、部屋の入口からトコトコと小さな影が踊り出てきた。
無畏だ。
彼は入ってくるなり不機嫌そのものの顔をしており、怒りを露わにしながら小亀へと突っかかった。
「おい、伊甲! お前さっき『入口で待ってろ』って言っただろ! なんでお前だけ中に入ってんだよ!」
「しかもふたりで楽しそうにおしゃべりして、俺たちを外で放置プレイとか何なんだよ! 知らない奴が見たら、お前が『師兄』で、外にいるふたりが『師弟』だと思うぞ!」
無畏は人間の感傷などあまり感知することがなかったので、丸っこい頭の中は、今や「胸の上で大石叩き割り」の大道芸のことでいっぱいなのだ。
通天山を出発してからというもの、白鶴の背に乗って賑やかな街並みを飛び越え、そのまま皇宮へ直行してしまったため、この不老国の都が四角いのか丸いのかすら拝めていない。
早く大道芸を見に連れて行け!と急かしたい気持ちは山々だったが、今回の目的が「救出作戦」という重大な使命であることも理解していた。
伊蘭たちが必死に大仕事をこなしている最中に、遊びたい一心で邪魔をするわけにはいかないのだ。
でも、早く見に行きたい、けれども言い出せない!
胸の中で葛藤が爆発した結果、つい口から刺のある言葉がポロポロと飛び出してしまうのだった。




