第95話 去りし日は煙の如く
白鶴を見送った後、波有たちは皇宮の内殿へと足を踏み入れた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、寝室のベッドの上に座禅を組むひとりの坊主頭の僧侶だった。
小亀が静かに周囲へ囁きかける。
「中に入るのは少し待ちましょう。あのお方は光如意羅漢の真身……師姉(波有)の前世の師匠です」
大柄な体に無骨で不格好な顔立ち。
固く目を閉じ、微動だにせず盤坐している。
心魔である無光にとって、今の彼は光如意と驕盧という二人分の肉体を支配下に置いていた。
片やゴツゴツとした不格好な体、片や凛とした端正な青年の体。
選ぶなら当然、若く麗しい方の肉体だ。
だからこそ国師となった彼は常に驕盧の姿を使い、羅漢の真身はこうして内殿のベッドの上に置き去りにされていたのである。
波有は老師の前に膝をついた。
目の前にいるのは伊高屋ではなく、前世の自分を導いてくれた師——光如意羅漢だ。
内殿の扉をくぐり、ベッドに腰掛ける真身を目にした瞬間から、彼女の目からはポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
歩んできた足跡にそって、涙の雫がポツポポツと床を濡らしていく。
「お師匠様……本当にお久しぶりです」
彼女は小さく泣きじゃくった。
通天山で星盤仙尊から前世の話を聞かされ、その後に沙の谷で秘宝を探し求める過程で、前世の記憶は一片ずつ胸の中に蘇っていた。
そして今、波有は光如意羅漢の弟子だった頃の記憶を完全に思い出していたのだ。
―――
人魚島の姫として生まれた彼女は、幼い頃から「人魚族を守る」という使命を背負わされていた。
五百歳を迎えた年、強くなって一族を守るため、秘宝『海音鈴』を使って人間の両足を手に入れた。
足裏を割かれるような激痛に耐え、一歩一歩踏みしめながら秀麗山へ向かったのは、当時世で最も名高い強者・光如意に弟子入りするためだった。
目立たぬよう、顔には人魚の薄絹のヴェールを被っていた。
もともと弟子を取る気のなかった光如意だったが、彼女の血に染まった両足を目にし、その強い決意に心を打たれた。
さらに、人間たちに迫害されて南海へと追いやられ、孤独に耐える人魚族を力づけたいという慈悲の心から、ついにうなずいたのだ。
しかしあの日、彼女がヴェールを外し、弟子入りの礼を捧げた瞬間——解脱院の空気はまるで時間が止まったかのように静まり返ったのだった。
光如意の瞳は大きく見開かれ、そこには驚きと……深い後悔の色が混ざり合っていた。
傍らにいた俊敏な青年も、まるで金縛りにでも遭ったかのように動けなくなっている。
そして儀式を見守っていた師匠の友人や弟子たちも皆、彼女のあまりの美しさに息を飲み、呆然と固まっていたのだった。
長い沈黙の後、光如意はようやく口を開いた。
「……一度口にした言葉だ。これもまた、姫とわしらの縁なのかもしれんな。さあ、まずは一番弟子であり、わしの乗り物でもある四不像を紹介しよう。名を驕盧という」
弟子入りが叶った嬉しさのあまり、彼女は青年に向かって丁寧に一礼した。
「波有と申します、驕盧師兄。南海から来たばかりで陸の慣わしが分かりません。いろいろと教えてくださいね」
青年は顔を真っ赤にし、しどろもどろになりながら返事をした。
「波有師妹、どうぞ気を使わないでくれ」
……光如意羅漢の真身の前に跪き、出会った頃の記憶を辿っていた波有は、ふと疑問に思い思案に暮れた。
師匠の心の中に、一体いつ『心魔』が芽生えたのだろう?
―――
こんなことがあった。
ある日、師匠が瞑想の修行に入っていた際、彼女は秀麗山へ朝露を集めに出かけた。
すると木の上から子ザルが落ちてきて、足を折って気絶しているのを見つけたのだ。
彼女は大急ぎで手元の仕事を放り出し、あたりを必死に探して薬草を摘んできた。
薬草をすり潰して足に塗り、木の枝で固定して手当を終える頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。
子ザルを抱きかかえて戻ろうとしたものの、道を間違えて奧へと迷い込んでしまった。
疲労と眠気で限界を迎えた彼女は、大きな木の根元に寄りかかったまま眠り落ちてしまった。
夜半過ぎ、かすかに自分を呼ぶ師兄の声が聞こえて目を覚ました。
心配した驕盧が山に入り、探し回ってくれたのだ。
師兄が起こして温かい焚き火のそばに寄り添い、持ってきてくれた干し肉を勢いよく平らげながら、彼女は嬉しそうに声を上げた。
「師兄がいてくれて本当によかった! 空腹で倒れるところだったよ!」
お腹が満たされ、焚き火の温もりに包まれると、彼女はそのまま草むらへゴロリと転がって再び寝入ってしまった。
あまりのマイペースさに驕盧は呆れて苦笑いするしかなかったが、そのまま一晩中、彼女の側で見守り続けてくれたのだった。
翌朝目を覚ますと子ザルの姿はなく、驕盧は「きっと親サルが連れ戻しに来たんだよ」と笑った。
二人で半日かけて山を下り、解脱院へ戻ったのは夕暮れ時だった。
そこにはすでに瞑想を終えた光如意が待っていた。
「お師匠様! お帰りなさい! もう数日は戻られないと思っていました」
彼女は嬉しそうに駆け寄った。
しかし師匠は無表情のまま、静かに二人を見つめるだけだった。
「そうか。わしがいない方が、お前たちは伸び伸びと過ごせるのだろうな」
冗談だと思った彼女は、へらへらと笑いながら言った。
「そんなことありませんよ! ねえ、師兄?」
そう言って驕盧に視線を送ったが、彼は青ざめた顔で黙り込むばかりだった。
不思議に思って師匠へ視線を戻すと、そこには師兄を刺すような、恐ろしい目つきで見つめる光如意の姿があった。
強い視線に耐えかね、驕盧は顔を上げることすらできずにいた。
―――
そう、思い返せばあの時からだった。
いつも慈愛に満ちていた師匠の様子が、どこかおかしくなったのだ。あんな恐ろしい目つきなど、いままで見たこともなかった。
それからの師匠は、彼女と驕盧が楽しそうに過ごしているのを見るたび、蔑むような笑みを浮かべるようになった。
師兄に対する当たりも日に日に厳しくなり、嫌味や冷たい言葉を浴びせるようになった。
側で見ている彼女ですら不憫に思えるほどだった。
なぜ師匠がそこまで彼を冷遇するのか分からず、彼女は可哀想に思って声をかけた。
「師兄、いつ師匠様の機嫌を損ねてしまったの? 私から師匠に執り成してあげるよ」
驕盧は酷く暗い顔をしていたが、それでも無理に笑ってみせた。
「師妹の気持ちだけで十分だよ。きっと師匠は僕を鍛えようとしてくださっているんだ。心配いらないよ」
そんな日々がしばらく続いた後、師匠の旧友である星盤仙尊が二人の弟子を連れて遊びにやってきた。
一行が立ち去った後、師匠は真剣な面持ちで二人を呼び出し、妙なことを言い出したのだ。
当時の波有にはよく理解できなかったが要約すると——「二人を夫婦にしたい」ということだった。
もちろん、彼女はきっぱりと断った!
自分は強くなって人魚族を守るためにここへ修行に来たのだ。
いずれは人魚島へ帰らなければならないし、何より驕盧のことは優しい「お兄ちゃん」としてしか見られなかった。
彼女は自分の思いをそのまま素直に口にした。
隠し立てなど何一つしなかった。
だが言い終えた瞬間、驕盧の顔色は一変し、俯いたまま部屋を飛び出していってしまったのだ。
一方、師匠の方は彼女の言葉に怒る風でもなく、「よい子だ、本当によい子だ」と何度も頷いていた。
褒められて彼女は鼻高々だったが、同時に不思議でもあった。
『私はずっと良い子なのに、何を今さら?』と。
しかし、あの日を境に、彼女が近づくだけで驕盧は遠くへ逃げ去るようになってしまった。
用がなければ話しかけてもくれず、昔のように親しく接してくれることは二度となかったのだった。
―――
前世の記憶が、煙のように淡く脳裏をかすめていく。
(ああ、そういえばあの時助けた足の折れた子ザルって……もしかして後霊伯母のことだったのかな? いや、違うかも。でも世代の順番で言えば、仮羅伯父や胡白伯父は私の『師弟』になるんじゃ……?)
(胡の伯父が私の師弟……!)
南海にいた頃の出来事を思い出す。
口一杯に鶏肉を頬張りながら、両手と両目をテーブルに運ばれてきたばかりの辛味チキンへ伸ばしていた胡白の姿。
普段は白い長袍をなびかせ、仙人のように澄ました顔をしている彼とはまるで別人だった。
思わず、波有の口元からプッと笑いが漏れた。
小亀はずっと彼女の後ろに控え、泣き続ける姿をそっと見守っていた。
感無量になっているのだろうと思い声をかけずにいたのだが、彼女の顔に笑みが戻ったのを見て、心のつかえが取れたのだと察した。
「師姉、少しは気分が落ち着きましたか?」
彼はそっと近づき、優しく尋ねた。
波有はうんとうなずいた。
「もしあの時死んでいなかったら、伯父たちはみんな私の師弟だったんだなーと思って。そう考えると、あんたは私の『甥っ子』ってことになるよね?」
(師姉のこの楽天的な性格は救いだな。悲しみを引きずらないで済むなら、それが一番だ)
小亀は心の中で安堵しながら、調子を合わせて笑ってみせた。
「いいですよ、これからは『波有伯母』って呼びましょうか? でも師姉、普通の女性は老けて見られるのを嫌がるものですが、その太っ腹さは大したものですね!」




