第93話 話刃を交える前の談笑
無光が笑みを浮かべ、風を受けて悠然と佇む姿を、李御は見つめていた。
その表情には絶対の自信が満ちている。
主人の底知れぬ実力を熟知している彼女は、「このお方のお考えがあってのこと」と察し、余計な口を挟まず静かに寄り添っていた。
しかし、もう一人の女妖・美姫は落ち着きのない性格だった。
無光の前で、何としても李御より忠心を見せつけ、活躍してみせたい。
彼女が円筒に顎で合図を送ると、察しの良い男とともに、和白と藍の前に立ちはだかった。
「千年前の約束だなんて知るか! 驕盧様と何を取り決めようが……」
威勢よく言い放とうとした美姫だったが、隣の円筒が慌てて割って入った。
「宮主……違います! 無光国師です!」
「あ、でも宮主のおっしゃる通りです! かつての驕盧様が今の国師様ですから!」
「くすっ」と小さな笑い声が漏れた。李御の笑い声だと気づいた美姫は、カッと顔を真っ赤にする。
その微笑みはあまりに妖艶で華やかで、甲羅の上の小妖たちはすっかり目を奪われてボケッと見惚れてしまうほどだった。
だが、目の前の三人の男たちはといえば、誰一人として視線を向けることすらなくスルーしていた。
美姫が仕切り直して挑みかかろうとした、まさにその時——。
雲霧の向こうから、新たな影がいくつも姿を現した。
相手の援軍が到着したのだ。
「ずいぶん大勢やってきたな。人魚族だけでなく、通天山の番犬までお鉢が回ってきたのか」
無光は口元を緩めてくすりと笑った。
―――
人魚島から駆けつけたのは戦勇と戦雄の一家。
そして通天山側からは、首領の阿達が率いる丸子部族きっての猛者たちが勢揃いしていた。
和白は低い声で人魚たちに指示を出した。
「戦勇、島の密室から持ってきた『息神水』なら、狐妖の三昧真火を消せる。李御と戦うときは気をつけてくれ」
続けて蒼狼にも向き直る。
「阿達は北海宮主を頼む。彼女の正体はデンキウナギだ。電撃を繰り出してくるときは注意しろ。隣の肥満体はただの小魚妖だから、法術も大したことはない。無視して構わん」
二人は力強くうなずいた。
北海宮主の筆頭愛妾にして軍師を自負する円筒がこの言われようを聞いていたら、悔しさで腹が張り裂けていたかもしれない。
戦勇と戦雄は、息子たちを連れて真っ先に突っ込んできた。
彼らはすでに知っている。
冷ややかに整った若者の肉体の中にいるのは、千年前自分たちをハメた光如意の心魔なのだと。
まさに宿敵との再会。
兄弟は怒りに瞳を燃やし、無光に向かって拳を握りしめた。
「大恩には感謝の言葉もないな! 無光国師のおかげで、俺たち兄弟は凍てつく北海の果てで、千年も恐ろしい姿のまま耐え忍ぶ破目になったんだ。後でじっくり手ほどきを受けるとしよう!」
無光は相変わらず貼り付けたような微笑を崩さない。
「それは楽しみだ。いつでもお相手しよう」
四人の美しい人魚が一斉に自分に向かって突き進んでくるのを見ても、李御はまったく動じなかった。
王都にいた頃から、あまたの男たちが自分にひれ伏すのを見飽きるほど見てきたのだ。
「天下一の美女」の呼び名は伊達ではない。
彼女は口元を緩め、あでやかな色気を振りまいた。
「人魚族は天人のように美しいと聞いていたけれど、本当に噂通りね。私、王都では天下一の美女と呼ばれていたの。この美貌なら、人魚島に入っても一番になれるんじゃないかしら?」
相手が完全に油断しているのを見て、戦勇は心の中で踏んでいた。
(この狐め、倒せない相手じゃない。だがあの法具は厄介だ。三昧真火を使われる前に決着をつけるぞ)
彼は弟に目配せすると、李御へと言い返した。
「容姿の美しさなら、我が人魚島の波有姫様こそが随一だ」
「元は光如意羅漢の第二弟子であり、氷のように清らかで蘭のように気品に満ちておられた。人魚島でも秀麗山でも、誰もが姫様を慕っていたものだ。王都の俗物どもが持てはやす美女などと、比べものになると思うな」
李御は瞳をくるりと巡らせた。
「あら、王都で見かけたあの小娘のこと? たしかに可愛らしかったけれど、子どもすぎるわ。私に比べたら、大人の女の魅力をまるで分かっていないじゃない」
戦勇はあえて煽るように鼻で笑った。
「自らを姫様と比べるんじゃない。お前の狐臭さが姫に移ったらどうする」
その一言が、女としての李御のプライドを完璧に打ち砕いた。
しかも男の口から直接言われたのだから、端正な顔立ちを保つ余裕すら吹き飛んでしまう。
目尻が釣り上がり、柳の葉のような細い眉が逆立った。
「今の言葉……絶対に後悔させてやるわ!」
叫びながら、怒りが頂点に達したことを示すように何度も同じことを繰り返す。
「絶対に後悔させてやるから!」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、頭上から凄まじい暴風が吹き降ろした。
思わず見上げると、なんとビルほどもある巨岩が天から落ちてくるところだった。
悲鳴をあげる暇もなく、彼女は巨岩に押し潰されるように海へと叩き落とされ、姿を消した。
―――
一方、阿達が連れてきたのは部族で最も勇敢な五十匹の蒼狼たちだった。
美姫はすでに電鰻の正体を現し、ぐにゃりと曲がった魚体をくねらせながら、バチバチと激しい稲妻を放ち続けている。
並の相手ならこれだけで圧倒できただろう。
だが蒼狼たちは動きが素早く、電撃よりも速い。
放たれた矢のように稲妻の隙間をくぐり抜けて跳躍してくる。
美姫は焦り始めた。
チラリと脇に目をやると、例の円筒が遠く離れた場所で小妖の後ろに隠れていた。
しかし隠れ場所のチョイスが悪く、ひょろひょろとした小妖では肥満体を隠しきれていない。
彼の法術が大したことなどないと知りつつも、彼女はいつもの癖で叫んでしまった。
「円筒! 早く来なさい! 手伝いなさいよ!」
主人の呼び出しを無視する勇気などない円筒は、まるでボールのように半分転がりながら美姫の元へ駆け寄った。
阿達が狙っていたのは、まさにその瞬間だった。
彼が低い遠吠えをあげると、配下の蒼狼が東・西・南・北の四方から一斉に襲いかかった。
狼たちのくちばしには、細い網糸が加えられている。
丸子部族が狩りに使う特殊な網で、蒼狼の毛で編み込まれた非常に頑丈な代物だ。
一匹また一匹と蒼狼たちが交差し、網をぐっと引き絞っていく。
美姫と円筒はあっという間に大きな繭のように縛り上げられてしまった。
網の魚にされるものかと美姫はすぐさま電流を放ったが——
この特殊な網はまったく電気を通さない。
ただ、隣の円筒が「宮主、おやめくださいー!」と感電して悲鳴をあげるばかりだった。
―――
手下がことごとく返り討ちに遭うのを目の当たりにしながらも、無光は気品漂う佇まいを崩さず、口元に笑みを絶やさなかった。
「どうやら和白兄さん、万全の準備を整えてやってきたようだな」
和白はキッと表情を引き締めた。
「いまのお前は三大能者をも超える力を持っている。倒すためなら、どんな手でも打つさ」
「うん、どれほど準備を重ねようと、螳螂の斧に過ぎんよ。身の程知らずというものだ」
「たとえ身の程知らずだろうと、この世にはどうしてもやらなきゃならないことがあるんだよ」
和白がポツリと呟いた。
無光はゆったりと言葉を返した。
「まったく同感だな」
「和白兄さん、今回人魚島へやってきた本当の目的を知っているか? 」
「かつて二人で語り合ったことがあっただろう。師匠たちは絶大な力を持つ存在として崇められていたが、いつかは天人五衰を迎え、世を去るときがやってくる、と」
「あの時、君に話したはずだ。人魚島には不老不死になれる禁断の秘術書が眠っているという伝説があるとな」
「君は鼻で笑っていたが……いま教えてやろう」
「これから秘術書を手に入れる! そして不老不死の領域へ足を踏み入れるのだ! それが身の程知らずだろうと何だろうと……」
「君が言った通り、僕にはどうしても成し遂げなければならないことなのだからな!」




