第92話 千年前の約束
そこまで聞き取った無光は、思わず口元をほころばせた。
可笑しくてたまらなかったのだ。
かつて光如意の心魔だった頃、彼は凄まじい勢いで肉体を乗っ取り、一番弟子の驕盧を叩きのめして南海の底へ沈め、永遠の眠りにつかせた。
しかし思いがけず自分自身も敗れ去り、正果を修めた光如意羅漢の手によって、眠り続ける驕盧の体内へ封印されてしまったのだ。
四不像の身体にガチガチの呪術で縛りつけられて。
つまり言い換えれば、この封印の呪いは自分自身がかけたようなものだった。
当時は、波有が光如意の修行の邪魔をしていると本気で憎んでいた。
だから裏で人魚族の長老である戦勇に近づき、ある秘密を聞き出したのだ。
「人魚は生涯で涙を流さない。けれど、もし自ら涙を流せば、それが命の終わりになる」という秘密を。
さらに波有を巧みに騙した。
「人魚の涙は占いに使う亀の甲羅の代わりになる。それさえあるなら、大ガメの仮羅を救い出せる」と吹き込んだのだ。
しかし、いざ自分の企み通りに計画が成功し、人魚の姫が消えて修行の邪魔者もいなくなったその瞬間——。
なんと、正果を修めたもう一人の自分に打ちのめされることになったのだから、皮肉なものだった。
何より笑えるのは、南海の底から自分(驕盧)を救い出し、目を覚まさせてくれたのが、かつて自分がハメて殺したはずの人魚姫・波有だったことだ。
一体どんな仕組まれた盤面なのだろう。
二世にわたる迷走はまるで滑稽な戯曲のようで、考えれば考えるほど笑いが込み上げてくる。
今の彼は、絶大な神識で驕盧の肉体を支配している。
驕盧と光如意の二人分の記憶と法術を持ち、さらに『琉璃如意塔』と『如意錫杖』という至高の法具まで手にしていた。
見渡す限り、まさに天下無敵。
あとは不老不死の完璧な肉体さえ完成すれば、この世に心残りは何一つなくなるのだ。
―――
脇に控える二人の女妖は、黒いロープに銀色の髪をなびかせる若い男の姿を、うっとりとした目で見つめていた。
奥深く冷たいアイスブルーの瞳に、うっすらと清冷な笑みを浮かべる薄い唇。
その佇まいは、まるで雲の上の冷ややかな月のようだ。
顔立ちの整い具合で言えば仮羅や胡白に及ばないかもしれないが、海風に黒い衣をたなびかせる姿には、世の中をねじ伏せるような王者の威厳が漂っていた。
二人が「どう話しかければ機嫌をとれて、なおかつライバルを蹴落とせるかしら」と思案していた時、彼が海風に向かって、ひょいと声を上げた。
「千年も会わないうちだが、道友たちはお変わりないようで何よりだ」
李御が声のした方へ目をやると、少し先の海面に白い雲霧が立ち込め始めていた。
どうやら目的の人魚島へ辿り着いたらしい。
霧の切れ間から、白い影と灰色の影がふわりと姿を現した。
白い衣の男が先に口を開く。
「お前を『驕盧道友』と呼ぶべきか、それとも『如意羅漢』と呼ぶべきかな?」
隣の灰衣の男もあざ笑うように続ける。
「あいつは羅漢が正果を修める前の『カス』みたいなもんだろ。素直に『如意の心魔』と呼んでやればいい」
「そんなに呼び方に悩むことはないだろう? 気軽に『無光国師』と呼んでくれればいいさ」無光はくすりと笑った。
灰衣の男——藍が大笑いする。
「光が無ければ『暗』だからな! 羅漢の心魔なんだから、陰気でコソコソした日陰者がお似合いだ!」
白い衣の男——和白も調子を合わせる。
「どおりで無光兄さんは全身真っ黒な服を着ているわけだ。その格好、実に似合っているよ!」
二人はまるで漫才のように一唱一和し、彼のことなど露ほども恐れていない様子だった。
―――
国師を侮辱された李御と美姫がカッとなって飛び出そうとしたが、無光はそれを手で制した。
「君たちがここにいるということは、ガキどもが通天山まで泣きついたのだな? あの若さで数々の関門を突破してくるとは、大したものだ」
彼はパチパチと楽しそうに手を叩いてみせた。
「最近、昔のことばかり考えていてね。ふと思ったのだが……逃げ出したガキどもの中に、見覚えのある顔の少女が混ざっていた」
「もしや……」
彼は目を細め、静かに問いかけた。
「あの娘は、昔の人魚姫の生まれ変わりなのではないか?」
藍の心臓がドクンと跳ね上がった。
思わず隣の師兄(和白)へ視線を向けてしまう。
無光はその一瞬の動揺を見逃さなかった。
「やはりそうか……昔の面影を少し残しているからな」
彼は瞳を怪しく光らせた。
「思い返せば千年前、あの子が初めて人魚島から解脱院に姿を見せた時、君たちは全員口をポカンと開けて驚いていたっけ。そう……あの不細工なお坊さんも含めてね。クックック……」
羅漢をバカにされた和白は激怒し、瞳の奥に激しい炎を燃やした。
だが、すぐに深く息を吐き出すと、ニヤリと笑ってみせた。
「お前がかつて光如意本人だった時期があるのは知っている」
「だが、お前は彼の第一弟子でもあったはずだ」
「それほど光如意羅漢をバカにするというなら、宝塔も錫杖も使うんじゃない。そうだろ、藍?」
「師兄、それはいじめだよ! 二つの法具を取り上げたら、無光兄さんは何を使って僕たちと戦えばいいんだい? ああ、そうか! こいつは心魔だから幻術が得意なんだ。幻術だけで相手をしろってことだね?」藍がすかさず乗っかる。
無光は相変わらず笑みを崩さない。
「好きに言うがいい。僕は僕のやり方で使わせてもらうさ。あのお坊さんの持ち物なら、使わなきゃ損だからな」
三人はいかにも親しげに談笑しており、事情を知らない者がみれば昔からの親友同士に見えるほどだった。
―――
無光は微笑を浮かべたまま尋ねた。
「和白道友、僕と『千年の約束』をしたのを覚えているか?」
「……驕盧のことか。なるほど、彼の身体を使っているから記憶も残っているわけだ」
和白は一瞬呆気にとられたが、すぐにうなずいた。
「もちろん、覚えているとも」
彼の脳裏に、千年前の光景がよみがえった。
師匠に連れられて秀麗山へ向かい、旧友の光如意を訪ねた時のことだ。
驕盧と互いに一番弟子同士ということもあり、すぐに意気投合したのだった。
その時、驕盧はこう言っていた。
『世間じゃ「三大強者の誰が一番強いか」なんて噂されているが、沙の谷は入ったら生きて戻れない場所だから誰も確かめられない。ぶっちゃけ、この世で一番有名なのは君の師匠と僕の師匠、どっちが強いと思う?』
和白は少し考えて答えた。
『さあな、互角じゃないか? そんなに気になるなら、俺たち二人で試してみるか?』
驕盧は大声をあげて笑った。
『いいぞ! 和白兄さんはやっぱり話が分かる! でも、師匠たちにバレたら足をへし折られそうだな』
『じゃあ、こうしよう。「千年の約束」だ。千年後、じいさんたちは二人とも天人五衰を迎えて、俺たちを叱る元気もなくなるはずだ。その時に一回全力で戦って、どっちの流派が強いか決めようぜ!』
―――
……海風が恋人の手のように柔らかく、無光の銀色髪を優しく撫でていく。
彼は微笑みを絶やさずに言った。
「かつて君と星盤仙尊が遊びに来た時、僕たちはいっぺんに意気投合して楽しく語り合ったものだ。まさかこうして刃を交える日が来ようとはな」
和白も深くため息をついた。
「俺だって同じさ。お前と話したのが昨日のことのように思えるのに、あっという間に千年も経ってしまった」
「いまのお前は驕盧と光如意の二人分の修行と霊力を宿している。そんな化け物と戦うなんて、こっちから殴られに行くようなものだ。いくらなんでも不公平すぎると思わないか?」
彼が不満そうにこぼすと、無光はフッと微笑んだ。
「あの頃の約束など、若気の至りの冗談に過ぎんよ。僕たちの仲だ、いまさら大げさに戦う必要なんてないだろう? そう思わないか?」
和白は深くうなずいた。
「まったくだ! 船の上に酒と肴でも並べさせて、隣の美人さんたちに歌や踊りを披露してもらう方が、よっぽどいい!」
「師兄、無駄話はそこまでにしろよ! 昔話を買いに来たのかよ!」
隣で藍がしびれを切らして叫んだ。
「藍は自分の師兄のことを何も分かっていないな。僕ですら察しているぞ。彼は人魚たちの援軍がのを到着するまでの時間を稼いで待っているのさ」
無光はくすくすと笑った。
手を後ろで組み、余裕たっぷりの態度で対峙する二人を眺めていた。




