第90話 取引
人面桃が知らせを聞いて大慌てで大帳へ滑り込むと、中はすでに天を突くような泣き声で溢れていた。
普段はささやき声でしか喋らない皇后が、まさかこんな大声を張り上げられるなんて。(相当な悲しみなのだろうな)と蛇男は思い込んでいた。
それからしばらくして、人面桃将軍が大帳から出てきた時、陰気な表情の裏には得意満面な笑みが浮かんでいた。
さっき皇后から、彼と副隊長たちにあるお願いをされたのだ。
それは、人面桃が新しい「砂漠の主」に昇格し、二人の副隊長が左右の将軍として彼を支え、沙の谷を治めるというもの。
皇后と妹たちは立場や暮らしをそのまま維持する。
つまり日用品からお世話係の小妖怪に至るまで、今までと何一つ変わらないという条件だ。
誰にとっても文句のつけようがない決定で、まさに万々歳だった。
今の人面桃が望むのは、一番大切な人とこの喜びを分かち合うことだけ。
ウキウキしながら自分のテントへ入ると、中にいた小妖怪たちはすでに報せを受けており、一斉にひれ伏して「大王様!」と声を揃えた。
伊蘭たちの驚いた顔を見ると、彼は誇らしげにニヤリと笑った。
勇気を振り絞って口を開く。
「……本王は、お前たちの師妹波有と二人だけで話がしたいのだが、構わないか?」
愛しい人をなだめるため、ずいぶん腰を低くした態度だ。
伊貴たちは一斉に波有へ視線を向けた。
小亀の氷のように冷たい瞳だけが、人面桃を死んだ目で見つめている。
彼が口を開くより早く、波有が声をかけた。
「みんな、少し席を外してくれる? 私も新しい大王様にいくつか話したいことがあるの」
―――
全員がテントを出て行き、人面桃は彼女と二人きりになると、胸の中で心臓がドックンドックンと高鳴るのが分かった。
用意していたセリフは綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。
頭のてっぺんから流れた汗が、首筋を通り、背骨をつたって腰まで垂れ落ちていくのがハッキリと分かる。
数百年の一人ぼっちを経て、初めてできた想い人だ。
前回のような胸を締め付ける痛みとは違うが、どう接していいかさっぱり分からない。
ただただ間抜けに場に立ち尽くし、ピクリとも動けずにいた。
幸いにも、氷の美人が先に口を開いてくれた。
単刀直入に切り出す。
「大王様、あなたと一つ取引がしたいの」
思いがけない言葉に、人面桃は面食らった。
きっぱり断られるか、あるいは「自分は水族だから水のない砂漠には暮らせない」と言い訳されると思い込んでいたのだ。
もしそう言われたら、「君のために砂漠の門を開き、交易を盛んにして沙の谷をもっと大きなオアシスにするよ。君が望むならいつでも通天山へ帰っていいし、どこへ行ってもいい。君が喜ぶことなら何だって試してみせる!」と答えるつもりだったのに。
準備していた満腹のセリフは、たった一言に化けてしまった。
「……何の取引だ?」
心の動揺を隠すため、硬い手つきで尾ヒレをしならせ、椅子の上に蛇の体をトグロ状に巻いた。
座ってはみたものの、やっぱり頭を下げたまま彼女の瞳を見つめる勇気が出ない。
「大王様が欲しいのは、師弟と相思相愛の波有かしら? それとも、大王様に情と感謝を抱いている波有かしら?」
問いかけではあるけれど、ささやくような優しい声は耳に心地よく響いた。
彼が答える間もなく、彼女は続ける。
「もちろん後者よね?」
蛇男は顔を真っ赤にしてうなずいた。
―――
「じゃあ、『あなたを慕う波有』と引き換えに、無畏を譲ってほしいの」
蛇男はハッとして顔を上げた。
水も滴るような優しく澄んだ瞳とバッチリ目が合ってしまう。
目の前にいる少女の唇は桜のように小さく、肌は雪のように白い。
指先一つひとつに呼吸を忘れるほどの魅力が宿り、まるで天から降りてきた仙女のようだ。
「無畏を……?」
(君と無畏にどんな関係があるんだ?)と言いたかったのだが、波有はにっこりと微笑んだ。
「トニと同じよ。外の世界を見せてあげるって、私があの子と約束したから」
ただそれだけのことだったのか。
蛇男は跳ね上がっていた心臓を静かに撫で下ろした。
主人として、小さな無畏には幸せになってほしいと心から願っている。
かつては仕方がなく鷹王の宝物庫の器霊にさせたが、ずっと後悔していたのだ。
お喋りなチビちゃんを、百年以上も寂しく空間に閉じ込めておくのは残酷すぎた。
今や鷹王は逝き、自分が砂漠の主となった。彼に自由を与える時が来たのかもしれない。
「無畏自身がそう望むなら、邪魔はしないよ。それに僕も、沙の谷の門を開いて外の世界と行き来できるようにするつもりだったんだ」
蛇男は頷いた。
「でも、無畏がいなくなったら、中に溜め込まれた黄金や宝物はどうするんだい?」
「トニから聞いたわ。砂漠の地下には遺跡がたくさん眠っているのでしょう? 元々そこにあったものを鷹王が宝物庫に集めたのだから、また地下宮殿に戻して、護衛の隊を配置すればいいんじゃないかしら?」
人面桃は少し考えた。
彼には鷹王ほどの強い物欲はない。
すでに砂漠の頂点に立った今、宝物などあってもなくても同じだ。それよりも大切な、喉から手が出るほど欲しい存在が目の前にいる。
「……分かった、約束する」
依然として下を向いたまま、顔を赤くしてつぶやいた。
「無畏を自由にしてあげる。だから……君も言った言葉を撤回しないでくれよ。僕の皇后になってくれること、それに……僕を慕ってくれることを」
―――
だが、波有の手の上に浮かぶキラキラとしたウロコを見た瞬間、人面桃の顔に怒りが走った。
「僕をからかっているのか!?」
歯を食いしばって叫ぶ。
波有は答えなかった。
右手でウロコを覆い、霊力をじわじわと注ぎ込む。
まもなくして手のひらから柔らかな七色の光が放たれ、光輪は皿ほどの大きさに広がっていった。
彼女は光を、愛おしそうにベッドの上へと降ろす。
蛇男が覗き込むと、そこには小さくて可愛らしい女の子が、身を丸めてすやすやと眠っていた。
「私と師弟が心で繋がっているのは知っているでしょう? だから無理に引き留めても、最後は誰も幸せになれないわ」
「『身は曹営に在れども心は漢にあり』ということわざを、物知りなあなたなら知っているはずよ。お互い嫌な思いをする必要はないわ」
波有は静かに語りかけた。
「私は南海の人魚姫。大月湖の底で水を呼んだ時、尾ヒレのウロコがいくつか剥がれ落ちたの。師弟に拾い集めてもらい、その中で一番大きいものを選んだわ」
「無畏はあなたの一部から生まれた宝物庫の器霊。師弟だって、元々は伯父の甲羅から一人の存在になった」
彼女は蛇男に向かって可憐に微笑んだ。
「このウロコを胸に抱き、霊力を注ぎ続けたことで、ようやく人の形に化けさせることができたの。今はまだ小さく儚いけれど、年月を重ねて修行を積めば、土台がしっかりして『二代目の波有』になるわ」
―――
人面桃はポカンと立ち尽くし、ぽっかりと胸に穴が開いたような寂しさを感じた。
(……言われてみれば、その通りだ)
あの日、波有と小亀が仲良く過ごしているのを見た時の胸の痛みが蘇る。
無理やり皇后にしたところで、毎日あの拷問のような苦しみを味わうことになるのではないか?
ベッドの上に視線を落とすと、そこには本当にかわいい子が横たわっていた。
目を閉じているけれど、将来は誰もが振り返るような美少女になることが一目で分かる。
二代目の波有か。
今はまだちっぽけだが、この子が少しずつ大きくなっていくのを側で見守っていけばいい。
そばにいれば、きっと自分を好きになって慕ってくれるはずだ。
気づけば、彼の心は波有からベッドの小さな女の子へと移っていた。
元々しつこい性格ではない蛇男は尋ねた。
「この子に名前をつけてもいいかい? 『波悦』にしたいな。僕を好きになってくれる(心悦する)ようにって」
波有はニコニコと答えた。
「もちろん! あなたにこの子を託すわね。出発するまでの二日間で、もう少し霊力を注いでおくわ。大きくなれば自然と私の力も引き継ぐはずよ」
「まだ水源の心配をしているのでしょう? 約束するわ。絶対に砂漠へ戻って新しい水源を探すって」
「嫌なことを言うようだが……もし戻って来られなかったら?」
「その時は必ず誰かに託して、私の『海音鈴』をここへ届けさせるわ! 誓ってもいいわ」
「あの鈴には一番硬いダイヤモンドが嵌め込まれているの。波悦が大きくなったらそれを身につけさせて、魚尾で砂地を叩かせれば水が湧き出ますから」
―――
人面桃が去ると、外で待っていたみんなが一雪崩のように押し寄せてきた。
波有から取引の内容を聞くと、全員でベッドの上の可愛らしいちびっ子を覗き込んだ。
夕方頃、小妖怪が「通天山からまた神使が来た」と報せにやってきた。
テントへ案内されて入ってきた人物を見て、みんなは驚きと喜びに声を上げた。
伊念と後四だ!
事情は予想していた通りだった。
伊念たちはつむじ風に吹き飛ばされて砂漠に落ち、合流した後に白鶴を見つけ、その背に乗って通天山へ舞い戻ったのだという。
星盤仙尊に事の顛末を報告したものの、「焦らず待ちなさい」と言われ、ようやく沙の谷へ向かう許可が出たのだそうだ。
まさかこんなに順調に中へ入れるとは思っていなかったらしい。
伊貴は深く感心して呟いた。
「仙尊は占いの大家で、見立てに狂いがないと聞く。私たちが砂漠に入ってから人面桃が大王になり、沙の谷が開かれるまで、仙尊はすべてお見通しだったのかもしれないね」
それから数日、波有の怪我はみるみる良くなり、人面桃も宝物庫の品々を地下宮殿へと移し終えた。
お喋りな無畏はようやく自由の身となった。
鷹王がいなくなり、彼をこき使う者はいなくなったのだ。
ただ、今の彼がこき使っているのは伊蘭たちだった。
あまりにうるさすぎて、毎日誰かしらにまとわりついては「外の世界の話をしてくれ」とねだるため、伊蘭から『お手上げ無畏』というあだ名をつけられてしまう。




