第89話 型破りなアイデア
波有が目を覚ましてからというもの、小亀はまるで魂が抜けてしまったかのようだった。
目には彼女のことしか見えていない。
デレデレとメロメロになっている間抜けな顔は、誰が見ても思わず吹き出してしまう。
伊蘭が薬のお椀を持って部屋に入るたび、彼は忠実な番犬のように波有のベッド脇にどっかりと座り込み、目を潤ませてじっと見つめていた。
まるで動かない置物。
(情けない奴だな!)
伊蘭は心の中で呆れ返っていた。
彼があまりに愚直で見ていられなくなった伊蘭は、時折チクリとからかってみるのだった。
「師妹が起きたからって、そんなに尻尾を振って喜ぶもんじゃないよ。それともなに? あの将軍を警戒してるのかい? まあ、今の波有ちゃんはこんなに美しくなっちゃったからねぇ。いつ強力な恋のライバルが飛び出してくるか分かったもんじゃないさ」
小亀は図星を突かれて焦った。
ただ、彼の顔はすでに真っ赤に腫れ上がっていたため、照れて顔が赤くなっているのかどうかさえ見分けがつかない。
その時、ベッドに体を預けていた波有が、ふとさっき見た夢の破片を思い出した。
美しい柳眉を少しひそめ、澄んだ瞳に迷いと困惑を浮かべながら、心に浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「実はね……人面桃将軍も、なんだか少し可哀想な気がするの」
「私が彼に対してこれっぽっちも気がないって分かっているのに、それでも必死になって引き留めようとしているでしょう?」
「前に無畏がこっそり教えてくれたの。私を遠くから一目を見たいがために、鷹王に内緒で宝物庫に忍び込んだんだって。でも、苦労して辿り着いた先で目にしたのは、師弟と仲良くおしゃべりして戯れている姿だった。無畏が言うには、その瞬間に彼の心は粉々に砕け散ったらしいわ」
「あの時は二師兄に頼まれて、相手を引っかけるために演技をしてただけだから、何とも思わなかった」
「でも後からよく考えてみたら、彼も惨めよね。私を逃がすために、鷹王の前でどれほど苦心したことか……」
小亀は慌てて口を挟んだ。
「師姉! 世の中には可哀想な人なんて数え切れないほどいるんだから、全員に同情してたらキリがないよ!」
「甲ちゃんの言う通りだよ、師妹。こういう時はハッキリ断らないと後々ややこしくなる! そんな甘い考えは自分も相手もダメにするだけさ。まさか、可哀想だからってこの砂漠に残るつもりかい?」
伊蘭も唇を尖らせて反論した。
―――
部屋の中に重苦しい沈黙が流れる。
しばらくして、波有は顔を上げ、ベッドの脇で丸くなっている小亀を優しく見つめながら、探るように尋ねた。
「そういえば、あんたは元々、光伯父の体の一枚甲羅だったわよね? それに無畏だって、人面桃将軍のもう一つの頭に生えた目玉だった。でも二人とも、今ではこうして知恵をつけ、自分という存在を持っているでしょう? だったら……私についているこのウロコも、時間をかけてしっかり修行させれば、一人前の小さな人魚として化けられるんじゃないかしら?」
あまりにも奇想天外な発想に、周りの空気は一瞬で凍りついた。
誰もが場に立ち尽くし、彼女の思いもよらない考えに開いた口が塞がらない。
かなりの時間が経ってから、最初に正気に戻ったのは伊蘭だった。
彼は目を丸くし、怪物を見るような視線で彼女をジロジロ見つめると、呆れと可笑しさが混ざった声で呟いた。
「おいおい……一体どういう思いつきだよ? ……自分のウロコを小さな人魚にさせて、身代わりとしてあの蛇男にプレゼントするつもりかい?」
まさかと思ったが、傍らで深く考え込んでいた伊貴が、ゆっくりとうなずいて見せたのだ。
瞳には感心したような光が宿っている。
「……案外、悪くない手かもしれないな。傷つけてきた相手の心配まで本気でしてあげるなんて、世の中を探しても師妹くらい純粋で優しい心の持ち主しか思いつかないよ」
小亀もぽつりと呟いた。
「師姉がそう言うなら、僕は命令に従うよ。あの日、大月湖の底に落ちていた師姉のウロコなら、一枚残らず拾い集めてあるんだ。ちょうど手渡そうと思ってたところだよ」
伊貴は表情を引き締め、真面目な顔つきで尋ねた。
「じゃあ、無畏の件はどう解決するんだい? 何か良い考えはあるかい、師妹?」
波有はかすかにうなずいた。瞳には聡明な光が宿っている。
「無畏を救い出すのは、そこまで難しくないはずよ。一番厄介なのは、鷹王が無理やり集め込んできた大量の財宝や法具が、彼の体内に保管されていること。どこか適切な場所を見つけて、荷物を全部外に移してあげれば、無畏は自由に身動きが取れるようになるわ」
暗い宝物庫にいた時から、トニは愛らしくて健気な無畏のことが大好きだった。話が彼のことに及ぶと、居ても立ってもいられず身を乗り出し、一生懸命知恵を絞り始めた。
「あっ! 私、思い出しました!」
トニはぱっと目を輝かせ、手を叩いた。
「覚えていらっしゃいますか? 前に苦労して通り抜けた地下の宮殿のことを! 砂漠の地下には、あのような遺跡や廃墟がたくさん眠っているんです! 広さや容量で言えば、大王様の宝物を収めるには十分すぎるはずです!」
伊貴は部屋にいる面々を見渡し、力強くうなずいて意思を固めた。
「善は急げだ! 重大な話だから、まずは頭の中を整理して、将軍に話しに行こう。今の状況で立てられる最高の作戦は、これしかない」
―――
人面桃が大帳を出て行ったすぐ後、皇后は使いの妖怪を呼び寄せた。
「妹たち三人をお呼び。話したいことがあるのです」
鷹王の昏睡と、大月湖の干上がり。
次々と起こる異常事態は、お妃たちが享受してきた平穏な日々に不穏な影を落としていた。
三人の妹たちはビクビクと緊張しながら、一番上の姉の前に腰を下ろした。
「君たち、最近の状況は耳に入っているでしょう。大王様は眠りこけたままで、将軍の話ではいつ目を覚ますかも分からないそうよ。起きてこられたら、また凄まじい大怒りを爆発させるに違いないわ」
二妹は、普段から口が悪い。
「ふん、そのまま目覚めなきゃいいのよ! 今みたいに、私たち姉妹で優雅に過ごせる方がずっと良いわ。あのクソじじいが起きている時は、毎日ビクビクさせられて溜まったもんじゃなかったもの」
「大姉様もそう思わない? もうすぐお墓に入るような年なのに、どうしてあんなに怒りっぽくて執念深いのかしらねぇ」
「二妹、愚痴をお言いなさんな。あなたたちはまだマシよ! めったにお召しがかからないでしょう? 私は毎日おそばに仕えなきゃいけないのよ、うんざりだわ」
誰も聞いていないのをいいことに、皇后も日頃の憂さ晴らしとばかりに不満をぶちまけた。
「大姉様もそう思っていらしたのね! てっきり私たちだけが嫌がっているのかと思っていましたわ」
「年齢だって、私たちからすればひいおじいちゃんレベルじゃない。ねえ、五妹が羨ましいわ。若い神使に連れられて、砂漠の外へ出ていくんですって?」
二妹は鼻で笑ってみせた。
三妹が慌てて口を挟む。
「私は外なんて行きたくないわ、砂漠より良い場所なんてあるわけないもの! 五妹を羨ましがる必要なんてないわよ。それより、新しく就任した二人の副隊長さんだって、若くてなかなかの男前じゃない? ねえ、大姉様?」
皇后も口元をほころばせて笑った。
「前の隊長さんはまだベッドで寝たきりだものねぇ。新しく来た副隊長が挨拶に来た時、じっくり観察してみたけれど、二妹の言う通りなかなかの男前だったわ」
彼女たちがこうして何一つ遠慮することなく悪口を言い合っているとは、誰も夢にも思っていなかった。
当の「クソじじい」が、すでに目を覚ましていたことなど。
―――
鷹王は全身に力が入らず、手足がバラバラに砕けたかのように微動だにできなかった。
しかし、彼女たちのくすくす笑う声や悪口は、一語一語くっきりと耳に届いていたのだ。
「副隊長が男前だ」という皇后の発言まで残らず耳に入り、腹の中は煮えくり返り、激怒のあまり狂いそうになっていた!
口を開けてこの女どもを怒鳴り散らしてやりたかったが、目に見えない何かに喉を強く絞めつけられているかのように、まったく声が出ない。
必死で両目を開けようとあがき続けるが、瞼は重くなる一方だった。
意識がどんどん遠のき、白く霞んでいく……。
そして、そのまま、彼は本当に「永眠」についたのだった。
こちで皇后たちがなおもお喋りに花を咲かせていると、お医者様が入ってきた。
恭しく挨拶を済ませると、鷹王の病状を確かめるためにベッド脇へ向かう。
皇后はわざとらしく心配そうな声をかけた。
「どうですか? 大王様はあと何日でお目覚めになりそうかしら。本当に心配でたまらないわ! 一刻も早く起きてくだされば良いのだけれど」
お医者様が手首に触れて脈を診た瞬間、全身が跳ね上がるように強張った。
顔に凄まじい恐怖を浮かべ、慌てて脈を診直し、身体の状態をくまなく確かめる。
間違いがないと確信すると、お医者様はガタガタと全身を震わせながら、床に頭を激しくこすりつけた。
「こ、皇后様……お妃様がた、どうかご動揺なさらないでくださいませ! 大王様は……大王様は眠られたまま、息を引き取られました……!」




