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波有伝説~海をゆく虹色の鱗【前編:人魚涙のブレスレット】  作者: 唯紅蓮真美(いちべにまみ)
第一章 邂逅

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第9話 天下一の美人

<前書き>


皆様、覚えているでしょうか?


小亀が波有に語った、逃げ出したあの理由を……


そう、「主人の婚約者へ贈るかんざしにされそうになったから」でしたね。


今回、ついにその元凶である「主人」が登場します。


千年老亀・光仮羅こうから、そして赤毛の狐妖怪・李御りぎょ



 さて、ここで波有と伊家の一行の話は一旦置いておこう。


 場面を切り替えて、もう一人の重要な登場人物――小亀の主人であり、屏風山(びょうぶざん)の山主である光仮羅(こうから)の元へ。




 温泉街の近くに、屏風山という名高い大山がある。


 ナマズの精であり、宿屋の旦那をしていた太っちょの于は、元々はこの山から下りてきた者だった。


 今、彼は屏風山へ戻っていたが、片付けるべき仕事が山積みで、目が回るほどの忙しさだった。


 主である光仮羅、彼の「千五百歳」の誕生祝いのため。




 于が温泉街で商売をしていたのには理由があった。


 

 一つは人間界との良好な関係を保つため。


 もう一つは、近年の屏風山の収入が限られていたため、運営資金を稼ぐためだった。


 だが今は寿宴の直前。人手が足りず、やむなく于を呼び戻して手伝わせているのである。



 そして、第一陣且つ、唯一の客人が到着しようとしていた。


 屋敷の内外を飾り立て、客をもてなす酒宴の席を整えなければならない。


 巨体を揺らし、汗だくで息を切らしながら立ち働く于の姿は、見るに忍びないほどだった。


 しかし、主である光仮羅の顔には、彼を労う色は微塵もなかった。




 光仮羅は淡泊な性格で、常に低姿勢を崩さず、他人に干渉することを嫌う。そして、潔癖なまでに静寂を好んだ。


 自分が許した者以外に邪魔をされることを何より嫌う。


 そのため、屏風山の主であり、南海の一方の覇者、さらには高名な「光如意羅漢(こうにょいらかん)」の弟子という驚異的な法力と修行階梯を持つ大妖として名は轟いていても、その素顔を知る者は極めて少なかった。




 そこへ、同門の師姉である「光後霊(こうごれい)」が、四匹の小猿を連れてやってきた。



 久々の再会だったが、後霊師姉は昔と変わらず若々しく、強気なオーラを纏っていた。


 対照的に、彼女の四人の息子たちは立派に成長していた。皆、意気軒昂な若武者といった風情で、一見すると母子というより、姉が四人の弟を連れているようだった。



 光仮羅は彼らを山頂の大殿へと迎え入れ、ナマズの精・于を呼びつけた。


 「于くん! 茶菓子を持ってきて、師甥(しせい)たちをもてなせ。わしは師姉と奥の殿へ行く。もし胡白(こはく)が来たら、奥へ通すように」




 ―――




 光仮羅と師姉・光後霊は内殿の最奥へと足を踏み入れた。



 高い石壇の上には、一体の彫像が安置されている。


 材は硬質な檀木。


 古雅で落ち着いた色合いに、流麗で力強い木目が走り、表面の美しい漆の光沢が、今にも動き出しそうなほどの生命感を像に与えていた。



 この像こそ、彼らの師である「光如意羅漢」であった。



 顔中に髭を蓄え、胸の肋骨は浮き出し、両手は胸の前で合掌の印を結んでいる。




 師姉弟の二人は、像の前に跪いた。


 「師匠が亡くなられて三百年余り……ここへ来るたび、師匠に教えを請うた日々が思い出されます」


 光仮羅が、感慨深く溜息をついた。



 後霊も言葉を添える。


 「ええ。思い返せば、私がまだ四匹の子供を産んだばかりの頃……この子たちは本当に果報者でした。師匠は私たち母子が共に経を聴くことを許してくださった。」


 「普段は手に負えないほどやんちゃな子たちでしたが、師匠の講経となれば、森から霊芝を探してきては師匠に捧げていたものですわ」


 

 「その光景、不肖の弟めも覚えておりますぞ」


 声と共に、黄ばんだ髪に白い衣を纏った、風雅な美男子が入ってきた。



 光仮羅は歓喜の声を上げた。


 「胡白師弟! また十年ぶりか! 相変わらずの風采だな、早くこちらへ。師匠にご挨拶を」



 胡白は進み出て像の前に跪いた。


 「師匠! 今日は師兄の長寿の祝いで参りました。親不孝な弟子が久方ぶりに御前で拝礼いたします!」

 


 光仮羅が嘆息する。


 「時が経つのは早いものだ。やはり、以前師匠の傍らで読経し修行していた頃が、一番幸せだった気がする」



 後霊は少し口を尖らせた。


 「仮羅師弟、あなたこそ今や一番の出世頭じゃない。屏風山の名は遠くまで響き渡っているわ。……そういえば、胡白師弟の義理の姉君と、ようやく婚礼を挙げるんですって? もう長い付き合いでしょうに、何を待っているの? あの李御(りぎょ)といえば、『天下一の美人』と謳われる御方なのに」


 

 「おお! 私も近々おめでたい席があると聞きましたぞ! 今から祝言の酒が楽しみでなりません」


 胡白もからかうように続けた。



 光仮羅はそれを聞いて、顔を赤らめた。


 「……外で囁かれている虚言ですよ。本来なら、彼女を呼んで師姉や師弟に茶を献じさせるべきなのですが、彼女は一年の大半を後山で籠って修行して過ごしておりまして。『修行こそが全て』というのが彼女の口癖でしてね。……困ったことに、今回の宴にも顔を出せないと言うのです」



 胡白が感嘆する。


 「義姉さんの修行への一途さには、恐れ入りますな。婚礼を挙げ、夫婦で手を取り合えば、もはや敵なしですな!」



 後霊が笑う。


 「末の師弟は相変わらず口が上手いわね。昔から師匠の前でもゴマすり名人だったもの!」



 光仮羅も笑い声を上げた。


 「全くだ! 世間では、師弟が師匠の目に留まったのは額の黄色い毛のせいだと言われているが、わしたちだけは知っている。師弟が取り立てられたのは、口八丁のおかげだということをな」



 胡白は慌てて弁解した。


 「そんな! ご存知でしょう、私が入門した時、師匠はすでに天人五衰(てんにんごすい)の時期で、お傍にいられた時間は短かったのです。私は師兄に育てられたようなものなんですから!」




 ―――




 未来の夫である光仮羅と師弟たちが、その未婚妻を称賛していた頃。


 正真正銘、光仮羅の未来夫人となるはずの李御は、屏風山から千里も離れた都の皇宮、御花園(ぎょかんえん)で盛大な宴を催していた。



 不老(ふろう)国の幼き皇帝は、しばし歌舞を眺めていたが、やがて飽きと眠気に襲われた。


 無理もない、彼はまだ十一歳。


 大人たちの嗜みは、彼にはまだ早すぎた。



母后(ははうえ)、少し眠くなりました。先に宮へ戻って休んでもよろしいでしょうか」


 幼い皇帝は、正直に願い出た。



 すぐさま、太后の機嫌を取ろうとする大臣が口を挟む。


 「陛下、もう少々のご辛抱を! せっかく太后様が楽しまれているのに、お帰りになっては興を削ぐというものでしょう」



 別の大臣も奏上する。


 「陛下、なりませぬ! 今や都の民は豊かに暮らし、天下は太平。この『花宴』は、太后様が百官と共に楽しもうと開かれたもの。中途で席を立ち、太后様の御心を無下にされてはなりませぬ!」



 「拙僧も尚書と同意見です」


 「陛下、どうか再考を!」


 

 大臣たちは次々と皇帝を引き止めにかかった。


 彼らにとってこれは、太后の麗しいお顔を堂々と拝む絶好の機会なのだ。



 「天下一の美人」と謳われる李御。


 太后と呼ばれてはいるが、姿は二十歳にも満たない絶世の佳人そのものであった。


 彼女は自分に注がれる、星が月を囲むような羨望の眼差しが大好きだった。


 この、全てを見下ろす高揚感がたまらなかった。


 

 彼女は上機嫌で、柔らかな声を響かせた。


 「順天(じゅんてん)皇帝はまだ子供なのです。そう責めてやるものではありません」

 

 

 そして傍らの麗人に命じた。


 「葉妃(ようひ)、皇帝を宮へ連れて帰りなさい。席ではあまり食べていなかったようですから、粥でも飲ませてから寝かせるように」




 ―――




 葉妃と、李御の傍に仕える腹心の(けい)は、共に屏風山から連れてこられた妖であった。葉妃は皇帝の側室兼、乳母のような役割を担わされていた。



 葉妃が皇帝の手を引いて下がっていくのを見送ると、大臣たちはこぞって太后の慈愛を称え始めた。



 「太后様の慈愛は海より深い。我ら、このような御方の元で仕えられる幸せを噛み締めております」


 「実の母子ではなくとも、実子以上の深い情愛を感じますな!」



 中には両手を広げ、天を仰いで叫ぶ者までいた。「太后様の仁徳、これぞ天が我が国に与えし福よ!」

 

 さらにある大臣が杯を掲げた。


 「仁義こそ徳の礎。この無双の盛世と、太后様の仁徳に乾杯いたしましょう!」


 

 李御はその官吏を遠くから見つめ、杯を掲げて一気に飲み干した。酒が美人の桜色の唇に吸い込まれ、両頬がほんのりと桃色に染まる。


 潤んだ瞳が細められる様は、居並ぶ大臣たちを陶酔させた。



 彼女はふと後ろを向き、腹心の慧に艶然と微笑みかけて囁いた。


 「ねえ、見て。どうして私が、あんな山に戻らなきゃいけないの? 山主の寿宴なんて、来る客はみんな彼を祝う人たちばかり。彼が主役で、私は横で愛想笑いをして頭を下げるだけ。今の威風堂々とした暮らしに比べたら、話にならないわ」



 彼女は目を細め、言葉を続けた。


 「ここでは、私が『天』なのよ。『順天』……順天とは、全てのことが私の意のままに運ぶということよ!」



 慧も深く同意した。


 「太后様のおっしゃる通りです! 山主様が結納品として贈られた、ご自身の体の一部である『亀甲(きっこう)』。あれが山を下りて逃げ出して以来、未だに見つかっておりません。妙なことに、山主様も必死に探そうとはなさっていないとか。温泉街の近くを適当に探させただけだと聞いております。山主様だって、太后様との婚礼をそれほど急いでいらっしゃらない証拠ですよ」



 李御は仕方なさそうに頷いた。


 「分かっているわ。あの人はそういう人よ。何事にも急がず、のろまなの」



 そして、また不敵に微笑んだ。


 「ちょうどいいわ! 私はまだ遊び足りないの。彼がのんびり探している間に、こちらは都で『祭天大典』の準備を進めましょう。慧、考えてもみて。その時、都中の民が私の『天下一』の姿を仰ぎ見ることになるのよ!」



 「ヒヒヒ! さすが太后様!」


 慧も声を弾ませた。



 この皇宮の金銀財宝、絹織物、山海の珍味。


 望むものは何でも手に入るこの暮らしは、あの屏風山での生活より、何百倍も素晴らしいのだから。



<あと書き>


読んでいただきありがとうございます。


実はこの小説、3年前(2023・夏)に書き上げたもので、前編・後編合わせて約50万文字のボリュームがあります。


完結まではまだまだ長い道のりになりますが……最後までお付き合いいただければ幸いです^^


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