第87話 砕け、湖底の岩盤
小亀はそれを見ると大喜びし、慌てて亀裂の入ったスキマへと近寄った。
スルスルと中に潜り込んで中を詳しく調べ始めた。
しばらくして、彼が再びひょっこり頭を出して泳ぎ戻ってきた、表情は大きな驚きと喜びに満ちている。
「師姉、まさか人魚の姫様としての霊力がここまで戻っていたなんて! すごいよ!」
波有は七色の大きな尾ヒレをゆらゆらと揺らしながら笑った。
「でしょー! 正直、自分でもびっくりしちゃった。私ってば、いつのまにこんなに強くなってたんだろう!」
「ねえ、もう何回か叩けないかな? あのヒビがもう少し深く、広くなれば、本当に地下の水脈に届きそうなんだ!」
「よし、任せて!」
けれど――六回目の撃突を見舞った瞬間、刺すような激痛が波有を襲った。
あまりの痛みに、しなやかな体が激しく震える。
息を呑んでうつむき、尾ヒレを確かめてみると……。
ダイヤモンドの衝撃で地面を叩き割った勢いがあまりにも凄まじかったため、砕け散った尖った砂利が、彼女の柔らかい皮膚を無残に切り裂いていたのだ。
中でも酷い場所は、激しい衝撃でウロコが何枚も剥がれ落ちてしまっていた。
鋭い石の破片が柔らかい肉に深く突き刺さり、冷たい水中へひと筋、またひと筋と鮮血が漂っていく。
さっきまでは細い洞窟の一本分くらいの長さだったヒビも、波有が全力を叩きつけたことで、今や暗く大きいな亀裂へと広がっていた。
小亀はまだ深淵の底で状況を探っているようで、遠く遠くの水底から焦った声が響いてくる。
「師姉! まだ足りないよ! あと何回かお願い! もっと口を開けて!」
波有は激痛で体がガタガタと震えていた。
ナイフのように鋭い砕石が尾ヒレ全体に突き刺さり、一番傷の酷い場所は、周りのウロコまで今にも全部剥がれ落ちてしまいそうだった。
(……これ、あと何回かやったら、私の尾ヒレ、完全にツルツルになっちゃうんじゃないの?)
広がる血の筋を見つめながら、波有は痛みのあまり涙を目に浮かべた。
けれど、自分にしか聞こえない声で苦笑いを浮かべ、自虐気味に呟く。
(まあ、ツルツルならツルツルでいいや! ハゲたってどうってことないでしょ!)
一度彼女の負けん気と男勝りな意地が顔を出すと、もう後先なんて考えていられなかった。
波有は奥歯をギリッと噛み締め、血まみれになった尾ヒレを強引にしならせる。
全身の力を振り絞り、漆黒の湖底に向かって容赦なく叩きつけた!
バシッ! バシッ! バシッ!
ドカンッ! ドカンッ! ドカンッ!
肉がちぎれるような痛みが脳みそを直撃し、それがかえって彼女の怒りと不屈の闘志に火をつけた。
「来なさいよ! 出てきなさいってば――!!」
彼女は目を真っ赤にし、やけくそ気味に叫び声を上げながら、冷たい湖底へ何度も何度も尾ヒレを叩きつけ続けた!
狂暴な衝撃を受けるたび、水中を走る亀裂はどんどん遠くへ伸び、広く、深く裂けていく。
―――
やがて――地底の果てから、巨大な龍が目を覚ましたかのような、地響きのような「ゴゴゴゴ……」という大音響が轟いた!
重く低い音は、まるで大月湖全体が悲鳴を上げて震えているかのようだった。
湖畔で固唾をのんで見守っていた人々にも、地底からの重苦しい鳴動がはっきりと届いた。
誰もが事態を呑み込めずにいた、ほんの数秒のことだった。干上がりかけていた湖水が、目に見えるほどの勢いで、一気に湧き上がり始めたのだ!
全員が心臓を口から吐き出しそうな心地で、瞬きすら忘れて水面を見つめる。
みるみるうちに、奇跡のように水位が元通りになっていく。
キラキラと光を反射し、清らかな泉が勢いよく溢れ出す。
大月湖は一瞬にして、昔のような雄大な姿を取り戻したのだった。
岸の上からは、耳をつんざくような歓声と狂喜の叫びが沸き起こった!
トニは男女の遠慮も忘れ、伊貴にギュッと抱きつき、泣き笑いしながら叫んだ。
「私たちが救われたわ!」
伊蘭と伊貴も、周りの人々といっしょに飛び上がって大喜びしていた。
しかし――小亀がウキウキしながら深淵の上へ泳ぎ戻ってきたとき、彼は恐怖に顔を強張らせた。
波有の姿がないのだ。
彼は生きた心地がしないまま、乱れ生い茂る水草の中をがむしゃらに探し回った。
暗い水底の隅で、全身傷だらけになり、血を流して丸まっている彼女をやっと見つけた。
無事なウロコがほとんど残っておらず、血を流し続ける波有の尾ヒレを見て、小亀の胸いっぱいに広が生えていた喜びは、一瞬にして底なしの痛心と後悔へと変わっていった……。
―――
沙の谷のお医者さんは波有の尾ヒレに薬を塗り、分厚い包帯でまるで半身ミイラのようにグルグル巻きにした。
そして、みんなに説明した。
見た目は凄惨だが、さいわい上半身の大事な部分には怪我がないこと。
下半身は皮が破れてボロボロだが、運良く骨や筋までは痛んでいないこと。
しばらく静養すれば元通りになるけれど、剥がれ落ちたウロコがもう一度生え揃うには、かなり時間がかかるだろう、と。
波有が大怪我を負ったことで、小亀は落ち込めるだけ落ち込んでいた。
なぜ自分はすぐに泳ぎ上がらなかったのか、気づけなかったのか。
師姉はどれほどの激痛に耐えて、尾ヒレで地面を叩きつけていたのだろう。
それも知らずに、能天気に「もっとやれ」なんて煽ってしまった。
一方、薬を飲んだ波有は深い眠りに落ち、とても不思議な夢を見ていた。
夢の中で、彼女はまた師父のそばにいた。
伊高屋は相変わらず不機嫌そうで、自分をブスだの不孝者だの、他の弟子に比べて言うことを聞かないだのと言いたい放題言ってくる。
おかしなことに、夢の中の日常はいつも通りなのに、あの人面桃の蛇男が自分の師弟になっていたのだ。
しかも、人間のような二本の足を生やした姿で。
四角い大きな顔に太い眉毛、高い鼻に大きな口。
けれど、どこか抜け目ない笑顔を浮かべ、がっしりした体格を揺らしながら、一口おきに「師姉」と呼びかけてくる。
まるで金魚のフンのように、一歩も彼女のそばを離れようとしない。
伊貴以外のみんなは、そのことを冷やかしてくる。
師父に至っては「お似合いのブサメンカップルだな」なんてからかってくる始末で、彼女は余計にあいつの存在が嫌でたまらなくなった。
ある時、また蛇男が無言で自分の後ろをついてきた。
師父たちがそれを見てヒソヒソと噂話をしている。
恥ずかしさで顔を真っ赤にした波有は「あっちへ行ってよ!」と怒鳴り散らした。
すると彼は目に涙を浮かべ、「じゃあ僕はどこへ行けばいいの?」と尋ねてくる。
イライラがピークに達した波有は、思わず口走ってしまった。
「死んじゃえばいいでしょ!」
――その瞬間、彼の顔がガラリと変わった。後一の顔になったのだ。
あの祭天大典の日の光景が、再び目の前に広がっていく。
後一は巨大な大猿の姿に変わり、雲の上へと躍り出た。
その先では、驕盧が錫杖(を手に待ち構えている。
真っ赤な目を光らせ、冷酷な笑みを浮かべながら。
驕盧は後一に向かって言った。
「彼女が『死ね』と言っているぞ」
波有は全身の血液が凍りつくのを感じながら、後一が錫杖の底にある底なしの黒い穴へ落ちていくのを、ただ目を見開いて見つめることしかできなかった。
「やめて――!!」
彼女は胸が張り裂けんばかりの悲鳴を上げて、ガバッと目を覚ました。




