第85話 誰も逃れられない天人五衰
皇后も隣で優しく微笑みながら言葉を添えた。
「大王様、私も素晴らしい文面だと思いますわ。ただ、だれに手紙を届けさせましょう?」
鷹王は深く考えもせず、すぐに口走った。
「おい、すぐに衛隊長を呼べ!」
言葉を聞いた瞬間、皇后と人面桃は思わず顔を見合わせた。
二人とも完全に固まっている。
(……大王様、もしかしてボケちゃったの?)
つい最近、あんな大事件があったばかりなのに、もう忘れてしまったのだろうか。
鷹王も自分で言ってからすぐにハッと気づいたようで、眉間に深いシワを刻み、ひどく不機嫌そうな顔になった。
本来なら、砂漠の支配者である鷹王の部下たちの中で、鷹衛隊を率いる衛隊長が一番強い。
こういう大役はあいつの右に出る者はいなかった。
しかし、前回波有たちを追いかけた際、傲慢で鼻持ちならなかった衛隊長は、伊甲(小亀)が放った『三味真火』によって、見る影もない黒焦げのカラスにされてしまったのだ。
今はかろうじて命だけは助かったものの、心身ともにボロボロになり、以前のような術を使うことなんて到底できなくなっていた。
思い至った人面桃は、内心ニヤニヤが止まらず、ケケケッと笑い声を漏らした。
「手紙を届けるだけでございますから。大王様、他の者を何人か向かわせれば済む話ですぞ」
鷹王はガックリと肩を落とし、顔を青ざめさせた。
表情には、隠しきれない疲労が滲んでいる。
水源の問題はちっとも解決しないし、甥っ子(衛隊長)はあんな無残な姿にされてしまった。
その上、手紙を届けるために人手を割くとなれば、働く者がさらに減ってしまうではないか。
(ああっ、本当に面倒くさい! 頭が痛いぞ!)
すっかり気落ちした鷹王は、急に激しいめまいに襲われた。
それだけでは終わらなかった。
突然、首の後ろに焼け付くような激痛が走り、背中へと引き裂くように広がっていった。
まるで身体を真っ二つに叩き割られるかのような衝撃に、鷹王はその場に崩れ落ちそうになる。
まさにその時、大テントの外から地鳴りのような騒がしい声が響いてきた。
一匹の妖怪が慌てで飛び込んできて、床に膝をついた。
「大王様、大王様! 大変です! 大月湖の水位が、いきなり半分くらいに下がってしまいました! それを聞きつけた住民たちが、我先にと水を奪い合ってパニックになっています! 今もどんどん人が集まっていて、もう止められません!」
テントの中にいた全員に、衝撃が走った。
皇后は鷹王の異変にまだ気づいておらず、怒りのあまり声を荒らげた。
「下等な民どもめ、いい気になりおって! 大王様の水を横取りしようだなんて、命が惜しくないのですか!」
すぐに鷹王を振り返り、まくしたてる。
「大王様、絶対に容赦してはなりませんわ! あいつらを全員捕まえて、前みたいに広場の木柱へ吊るし上げておやりなさい!」
彼女がどれだけ怒鳴り散らしても、隣からの返事はなかった。
不審に思った皇后が、「大王様?」とそっと触れた瞬間、鷹王の身体は力なく、ずるりと彼女の腕の中へ倒れ込んできた。
―――
お抱えの医師がガタガタと震えながらテントを出て行った後、皇后はベッドの上で目を閉じ、意識を失ったままの鷹王を見つめていた。
心の中は、不安と焦燥で押しつぶされそうだった。
彼女は、床にぼうぜんと膝をついている蛇の将軍をキッと睨みつけた。
「この谷の脳は人面桃将軍、お前です。何が起きているのか、お前なら分かるはずでしょう!」
「医師ですら、大王様がなぜ突然倒れたのか、どうして眠り続けて起きないのか分からないと言うのです。将軍がそんな風にボケッとしていたら、沙の谷で誰が命令を下すというのですか!」
人面桃は慌てて頭を床にこすりつけた。
「皇后様、どうかご安心を! 大王様の御身体に今すぐ命の別状はございません。数日もすれば自然とお目覚めになるかと存じます」
「しかし……大王様はおそらく、このように突然倒れて深く眠ってしまうことが増えるでしょう。さらに、眠る時間はだんだんと長くなっていき、最終的には……」
彼はそこで言葉を濁した。
「最終的には……目覚めなくなる、と言うのですか?」
皇后が息を呑む。
人面桃は、どうしようもないという風に小さく頷いた。
「……少し前から大王様ご自身も気づいていたはずです。ただ、大王様はほら、その、少々プライドが高く自信家なところがおありですから、ご自身の衰えを認めたくなかったのでしょう」
「世に並ぶ三大強者のうち、砂漠の外にいる南方の光如意羅漢は、すでに世を去りました。通天山のあの御仁も、『天人五衰』の時期に入ったと噂されています。大王様の症状を見るに、まさにそれと同じ状況かと」
(そんな……!)
(大王様も、ついに寿命を迎える天人五衰のときを迎えてしまったなんて!)
皇后は衝撃のあまり、さっきまでぼうぜんとしていた蛇の将軍と同じように、一歩も動けなくなってしまった。
テントの中には、張り詰めた重苦しい静寂が満ちていた。
しかし、外の騒ぎは大きくなる一方だった。
皇后は深く、重いため息をついた。まるで自分自身に言い聞かせるように、ぽつりと呟く。
「大王様はいいですわね! 眠ってしまえば、こんな頭の痛い問題に関わらずに済むのですから。でも、目の前で干上がっていく湖や、暴徒と化した民たちの始末は、一体どうすればいいというの……?」
彼女は必死に頭を働かせ、この重すぎる重荷を、目の前にいるヘビの将軍に丸投げすることに決めた。
「大王様は眠っているだけとはいえ、私が付きっきりで看病しなければなりません。衛隊長もあんな姿になってしまいましたし……外の厄介事はすべて、将軍、お前に託すしかありませんわね!」
皇后はそう言い切ると、人面桃が断る隙を与えないよう、すぐに親衛隊の二人の副衛隊長をテントに呼び寄せた。
そして、大王が深い眠りについたこと、とすべての権限を将軍に一任することを、その場でテキパキと告げた。
ひょんなことから最高権力を手に入れてしまい、人面桃は頭が真っ白になるほど興奮していた。
心の中では(皇后の奴、面倒なトラブルを全部僕に押し付けやがったな)と分かっていながらも、どこかニヤニヤしてしまう自分を止められない。
(これはきっと、お天道様が僕を哀れんで、一生独り身のまま終わらせないために、美少女に近づくチャンスをくれたに違いない! まさに、書物に書かれていた『天与の好機』ってやつだ!)
―――
鷹王が突然深い眠りに落ちたこと。そして、大月湖が干上がり始めていること。
二つのあまりにも恐ろしい大ニュースは、まるでカラカラに乾いた草原に放たれた火の粉のようだった。
一度火がつくと一瞬で燃え広がり、あっという間に沙の谷の隅々にまで届き、すべてを呑み込んでいった。
今や、谷に暮らす誰もが、自分たちの世界が滅びかけているという現実を知ってしまったのだ。
しかし、生きるか死ぬかの大ピンチを前に、これまで崇め奉られていた大王がどうなろうが、もはや気にかける暇のある者など一人もいなかった。
「早く行け! 遅れたらマジで終わりだぞ!」
「急げ! 家にある木桶も革袋も、全部持ってこい!」
「出遅れたら、水なんか一滴も残ってねぇぞ。泥しか掴めなくなる!」
ほぼ同時に、谷中の住人が家中のありとあらゆる水入れを引っ掴み、血眼になって、狂ったように大月湖のほとりへと駆け出した。
誰もが恐怖で顔を引きつらせ、足をもつれさせながら走っている。
人面桃と二人の副衛隊長が険しい顔で大テントから出てきたとき、目の前に広がっていたのは、地鳴りのような怒号が飛び交い、完全に秩序の崩壊した凄まじい光景だった。
かつては、荒涼とした砂漠の中に埋め込まれた巨大なエメラルドのように美しく輝いていた大月湖。しかし今は、病的にどんよりとした死の気配を漂わせていた。
湖水は、照りつける烈日の下、見る見るうちに内側へ向かって縮んでいく。
見渡す限り広大な水面は、今やドロドロと濁って粘り気を帯び、湖岸には干からびてひび割れた暗灰色の泥沼が、広範囲にわたってむき出しになっていた。
そよ風が吹いても、かつてのような瑞々しく涼しい水気は一切届かない。
代わりに漂ってくるのは、湖底のヘドロの腐敗臭と生臭くて不快な熱風だけだった。
人々で埋め尽くされた湖畔は、地面に落ちて血の匂いを放つ生肉に、真っ黒なアリの群れがびっしりと群がっているかのようだった。
―――
異変が始まったばかりの頃は、鷹衛隊が剣を構えて馬を走らせ、なんとか最低限の秩序を保とうとしていた。
しかし今では、彼らの姿などどこにも見当たらない。
怒涛のように押し寄せる人の波にもみくちゃにされ、どこか知らない隅っこへ押し流されてしまったのだろう。
水を奪い合う人々は、他人に押し退けられないよう、多くが家族や一族ごとにぎゅっと固まって行動していた。
人面桃は高い場所から、冷徹な縦長の瞳でその様子を見下ろした。
ふと、複雑な自嘲のいろが浮かぶ。
鋭い視線で騒ぐ群衆をスキャンしていくと、その中には見知った顔がいくつもあった。
ご覧の通りだ。
あれほど偉そうにふんぞり返っていた皇后の実の兄の一家が、昔の威張り散らしていた貴族の面影など微塵もなく、無様に泥まみれになりながら、重い銅のタライを必死に抱えてぬかるみの中を突進している。
少し離れたゴツゴツした岩場の近くでは、あのカラスの衛隊長の年老いた両親が、震える身体に鞭を打ち、大勢の親戚たちに背中を押されながら、ドロドロの湖岸に命がけでしがみついていた。
「水を盗み合う」という言葉だけを聞けば、ひどく品がなくて、みっともないように思える。
けれど、少し見方を変えてみるなら、この光景はなんとも皮肉で、前代未聞の「大パーティー」のようにも見えた。
何しろ、これは沙の谷が始まって以来、一番多くの住民が集まり、最も熱気と興奮に満ちあふれた、最大にして最後のイベントなのだから。
身分も、地位もすべて投げ捨て、消えゆく湖の前に集まった人々は、平等に「世の終わり」という最後の審判を迎えていた。
ずっと独り身で、寂しい生活に慣れきっていた人面桃、冷え切ったヘビの心の中に、お互いに手を取り合って必死に生き抜こうとする家族たちの姿を見て、ほんの少しだけ、淡い羨ましさが芽生えていた。
一方、彼の後ろに控えていた二人の副衛隊長は、それどころではなかった。
焦りのあまり頭を掻きむしり、大慌てでパニックになっている。
上司が目の前にいることすら忘れて、目の前に沸騰したような人々の中から、家族の顔を必死になって探し求めていた。




