第84話 星盤仙尊へのお手紙
伊貴は蓋紅沙の上に身体を丸めて横たわり、狸寝入りを決め込んでいた……
鷹王、人面桃、そして無畏の三人、本当の関係がどうなっているのかはよく分からない。
けれど、将軍が、なりふり構わず波有に執着している視線だけは本物だ。
だが、あいつの弱みをどう利用すれば、ここから脱出する手がかりになるのだろうか?
それに、閉じ込められてからずいぶん時間が経ってしまった、師父や伯父たちは無事なのか。
人魚島へ向かった和白と藍、二人の神使は、驕盧と鉢合わせて、衝突したりしていないだろうか。
次から次へと不安が頭に押し寄せてきて、彼は胸が締め付けられるような思いだった。
目を閉じているものの、眉間には深いシワが寄ってしまっている。
するとその時、温かくて柔らかい小さな手が、そっと優しく自分の手を包み込んでくれた。
トニだった。
伊貴の張り詰めていた心が、一気にすうっと軽くなっていく。
同時に、ふとあるおかしな考えが脳裏をよぎり、彼は思わず口元を緩めてしまった。
トニは薄目を開けて、伊貴が難しそうな顔で悩んでいるのを心配そうに見守っていた。
少しでも力になりたくてそっと手を握ったのだが、彼がいきなり嬉しそうに微笑んだので、彼女もつられてほっと胸を撫でおろした。
けれど単純で心優しいトニは、愛しい彼がどうして笑ったのか、本当の理由を知る由もなかった。
なぜなら伊貴は、こう考えていたのだ。
(雲英と大師兄、甲ちゃんと波有、念ちゃんと後四。そして今、俺にもこうして、お互いを想い合える人ができた)
(師父が知ったら、きっと喜びながらも、めちゃくちゃ悔しがるだろうなぁ。)
(彼は、昔よく『ワシは生まれつき皇帝の運命だから、ずっと一人ぼっち(孤家寡人:君主が自分をへりくだって呼んだ自称)』なんて自虐の冗談を言っていたけれど、本当にみんなに先を越されて、一人ぼっちになっちゃったじゃないか)
―――
一方その頃。
人面桃将軍は、宝物庫の中にあまり長居するわけにもいかず、嫉妬まじりの複雑な思いを抱えたまま、後ろ髪を引かれるようにして慌ただしく立ち去っていった。
精霊の無畏は、主人とろくに言葉を交わすこともできず、お喋りを喉の奥に押し込められてしまっていた。
窮屈でたまらず、大きな頭を左右にぶんぶんと振ってみるけれど、退屈さは募るばかり。
ふと見ると、波有と小亀の二人がまだ楽しそうに内緒話をしている。
我慢できなくなった彼は、再び姿を現して島に降り立つと、ゴロンと波有のすぐ隣に寝そべった。
「ねえねえ、お嬢ちゃん、やさ男と何をお喋りしてるのさ? 僕にも聞かせてよ」
波有と小亀は、彼が近づいてきたのを見るや否や、ピタッと口を閉じてしまった。
その瞬間、無畏の心の中でピンと張り詰めていた何かが、ついにぷつりと切れた。
彼は両手をバタバタと宙に振り回し、自暴自棄になって叫んだ。
「もういいよ! 分かった、僕の負け! 負けでいいよ! だからお願い、無視しないでよ! 君たちのこと、助けてあげてもいいからさ……お願いだから、僕とお喋りしてよぅ」
彼は力なく両手をだらりと垂らし、すっかりしょげ返ってしまった。
その姿は、畑の隅っこで忘れ去られた豆もやしのように哀れで、どこか愛らしかった。
伊貴は、思わずフッと笑った。
ゆっくりと目を開けて体を起こすと、優しく声をかける。
「無視していたわけじゃないよ。ただ、師匠様が外で心配しているだろうなと考えたら、ここに閉じ込められたままじゃ、お喋りする心の余裕がなかったんだ」
無畏は、伊貴がようやく返事をしてくれたのが嬉しくて、一気に表情を輝かせた。
「なんだ、そんなこと? 心配しなくて大丈夫だよ!」
「だって僕、主人が大王様と話しているのを聞いたもん。星盤仙尊へ手紙を送って、氷山と君たちを交換するって言ってた。だから君たちの師匠はすごく心配しているだろうけど、命が今すぐどうこうなるわけじゃないよ」
―――
伊貴が突破口を開いたのを見て、他の人もここぞとばかりにモヤシっ子に話しかけ始めた。
まずは波有が、わざと少しキツめの口調で先制パンチを食らわせる。
「ちょっと!『お嬢ちゃん』って呼ばないで。どう見ても私の方が年上でしょ!」
「私は伊波有! で、こっちの子は伊甲って名前があるの。やさ男なんて失礼な呼び方はやめてよ!」
可愛い子から怒り気味に名前を教えてもらえた無畏は、内心ニヤニヤが止まらない。
(もし主人がこの光景を見たら、嫉妬で気絶しちゃうんじゃないかな?)と、嬉しくて仕方がない。
「君の主人って、鷹王の隣にいる蛇の将軍でしょ? さっき『無畏眼』って聞こえたけれど、君はあいつの目なの? でも、将軍の目は両方ちゃんとついているように見えたけどな」
小亀が探るように質問した。
無畏は「ふふん、何も分かってないね」と得意げに胸を張った。
「僕の主人は、すごく珍しい『双頭の蛇』なんだよ。もう一つの頭の目を限界まで修行させて、絶対に壊れない『無畏眼』を作り出したんだ。それが、この僕ちんなのさ!」
波有たちがなるほど、と感心したように頷く。
気を良くした無畏は、調子に乗ってペラペラと喋り続けた。
「主人が僕を大王様に献上したから、僕の空間が大王様の宝物庫になったんだ。大王様は大喜びして、主人を一番の側近にしたんだよ」
彼はチラリと波有を指差した。
「それからね、主人は『あの娘をしっかり見守っててくれ、時期を見て大王様にお願いして逃がしてもらうから』って言ってた。だから伊甲、お前はあんまりお嬢ちゃんに近づきすぎるなよ? 主人が怒っちゃうからね」
それを聞いた小亀はカチンときて、思わず飛び上がった。無畏の鼻先を指差してハハッと笑い飛ばす。
「ヘビ将軍が何様だって言うんだよ! 僕と師姉は最初から一番仲良しなんだ。あいつには1ミリも関係ないだろ!」
伊貴があわてて小亀をなだめる。
「まあまあ、甲ちゃん、落ち着いて、まだ子供なんだから」
―――
「ねえ、無畏くん」
波有は上体をかがめて無畏と視線を合わせ、口を大きく開けて、少し不気味な笑みを浮かべてみせた。
「君は一口おきに『主人』だの『大王様』だの言っているけれど、そんなにあの人たちの言いなりになっていて楽しい?」
無畏は彼女の迫力に少し気圧され、じりじりと後ずさりしながら答えた。
「だ、だって、僕は主人の一部なんだから、言うことを聞くのは当たり前じゃん」
波有はすかさず小亀の腕を引っ張って、無畏の目の前に突き出した。
目を見開いて力説する。
「よく見てごらん! 師弟(小亀)だって、もともとは光の伯父の一部、ただの亀の甲羅だったんだよ。君と同じ境遇だったの」
「でも、今は、自分の考えを持って、自分の意志で動いているでしょ? 師父の弟子になって、師兄や師姉たち、こんなにたくさんの家族から、毎日いっぱい愛されて大切にされているんだよ!」
波有は身振りを交えて大げさに語りかけた。
「えっ……? それって、本当? そんなこと、本当にできるの……?」
無畏は衝撃を受け、目をこれ以上ないほど丸くした。
「もちろん本当だよ!」
小亀が自慢げに口元をニヤリと歪める。
「君の主人なら、きっとこの言葉を知っているはずだよ。『賢い鳥は、住み心地の良い木を選んで巣を作る(良禽択木而栖)』ってね。まさにこのことさ」
無畏はあまりの衝撃に、言葉を失ってしまった。
「でも、でも……」彼は小さな頭を垂れ、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……僕もここから出て、外の世界を見に行けるのかな?」
トニがそっと歩み寄り、彼の小さな肩を優しくポンと叩いた。
「無畏くん、もちろん行けるわよ! 私だってそうだもの。波有ちゃんが、いつか私を海へ連れていってくれるって約束してくれたの」
「海! 知ってる、知ってる! 主人が本で読んだことがあるよ。海の水は、砂漠の砂と同じくらいおっきくて、一面ブルーで地平線まで続いているんだよね!」
無畏は一転して大はしゃぎした。
彼の小さな頭の中は、さっき波有が言っていた「胸元大石割り」のことでいっぱいになっていた。
もし外へ出られるなら、あの岩に本当にヒビが入っているのか、この目で確かめてみたい!
幼い精霊の頭の中は、ワクワクと大混乱でいっぱいになっていた。
―――
その頃、大テントの中では、人面桃が星盤仙尊へ宛てた手紙を鷹王の前で読み上げていた。
『砂漠の王たる鷹王より、通天山の星盤仙尊へ。
前回の別れより、月日が流れるのは早いものです。
先日は貴殿より、砂漠の猛暑を和らげる至宝「氷晶傘」を賜り、深く感謝いたします。
さて本日、本王より貴殿へ、恐れながら一つ折り入ってお願いがございます。
近年、砂漠の水源が枯渇しつつあり、本王は愛する民たちの行く末を深く憂慮しております。
そこで、貴殿が治める通天山の氷山を、この砂漠の乾きを癒すために、少しばかりお貸し願えないでしょうか。
慈悲深き貴殿であれば、過酷な環境に喘ぐ砂漠の民の苦しみを、きっとお救いくださると信じております。
砂漠に豊かなオアシスが完成した暁には、お預かりしている通天山の弟子たちを、傷一つなくそのままお返しすることをお約束いたしましょう』
人面桃は顔にへつらうような笑みを浮かべた。
「大王様、これでよろしいでしょうか?」
鷹王は満足そうに何度も頷いた。
「ふむ、さすがは書物を好むお前だ! 実に格調高く、素晴らしい文面だな!」




