第83話 お祭り好きな子供
光さえ届かない閉ざされた空間で、波有たちは確信していた。
精霊の無畏は洞窟そのものであり、どこにでも存在している。
彼は間違いなく、耳をすませて会話を盗み聞きしているはずだ、と。
伊貴はみんなに作戦を提案していた。
「お喋りチビちゃんは、外の世界を知らないんだ。だったら、子供が大好きな話題――『美味しい食べもの』と『楽しい遊び』で、まずは様子を見てみようよ」
というわけで、干し肉を食べる時間になると、監督役の伊貴が、役者Aの波有と、役者Bの小亀に向かって「スタート!」の合図を送った。
いよいよ、お芝居の開幕だ。
「師姉、どうして少ししか食べないの? ちゃんと食べなきゃ体力がもたないよ」
小亀が優しく、いたわるような声で問いかける。
波有はわざとらしく不機嫌そうに口を尖らせた。
「だってぇ、今は、前に南海で食べた『白切鶏』が食べたいんだもん! 胡の伯父もあのお料理が大好きだったよね。魚妖の料理人、本当に腕が神がかってたなぁ」
彼女は目をキラキラと輝かせて上を見つめた。
南海行宮の大広間で、テーブルいっぱいに並んだ香ばしいごちそうの数々を思い出し、まずはゴクリと唾を飲み込んでから、うっとりと語り出す。
「あの鶏肉料理はね、とにかく新鮮で香り高くて、皮はパリッとしてるのに、お肉はびっくりするほど柔らかくてジューシーなの!」
「伯父から聞いたんだけどね、白切鶏の命は『白』という一文字にあるんだって。それは色合いと味付けのことで、余計な調味料を極限まで省いて、素材が持つ本来の美味しさを引き出すって意味なのよ」
「鶏肉の瑞々しさを逃さないために、料理人は鍋で煮る時間を一秒の狂いもなく、完璧にコントロールするんだから」
隣で聞いているサクラの観客たち(伊蘭たち)も、彼女のリアルな説明に、いつの間にか引き込まれてしまっていた。
「だからね、食べる時に鶏の骨の隙間にほんのり赤い筋が見えることがあるの。『一線紅』って呼ぶんだけど、その状態の鶏肉が一番柔らかくて、旨味がギュッと詰まっているのよ!」
波有の表現があまりに美味しそうだったため、盗み聞きしていた無畏も、思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。
―――
精霊である彼は、食事をする必要もなければ、水を飲む必要もない。
病気になることも、老いることもない。
無畏眼の空間が消滅する時こそが、彼が世から消え去る時だ。
もし、主人が言うようにこの洞窟が絶対に壊れないのだとしたら、彼は世が存在する限り、永遠に生き続けることになる。
物欲も食欲もない彼にとって、唯一の不満は、この百年ものあいだ、たった一人ぼっちで過ごしてきたことだ。
喋りたくて仕方がない彼にとって、それはあまりにも過酷な退屈だった。
彼は、人間や妖怪たちが食べものを口にしなければ飢え死にしてしまうことは知っていた。
だから、生きるために食べるのだと思っていた。
しかし、彼らの話を聞いていると、食事はただ命を繋ぐための作業ではなく、口に運ぶこと自体が極上の幸せであるように思えてくる。
(……人間の食べものって、どんな味がするんだろう?)
生まれて初めて、興味がむくむくと湧き上がってきた。
「もちろん、土地や水が変われば、育つ鶏の味も全然違うんだけど……まあ、人それぞれ好みがあるからね! 誰だって『自分の故郷の鶏が一番美味しい』って、頑固に言い張るものだし」
彼女の熱烈なファン(という設定)の役者B・小亀は、隣でパチパチと全力で拍手を送っている。
「でも、私の意見はね」
波有は小亀にコクンと頷いてみせ、言葉を続けた。
「胡の伯父と完全に一致しているの。私たちが激押しするのは、南海のすぐそばにある、美しい山の麓の村々で育てられた『秀麗鶏』!」
「想像してみてよ。その鶏たちは、青々と茂る山林の中で何の縛りもなく、自由に走り回って育つの」
「毎日、大自然のパワーをたっぷり吸収して育つから、肉質ときたら、しっかり引き締まっているのに硬くなくて、ちっとも油っぽくない! まさに鶏界の王者よ!」
―――
話を聞いているだけでよだれが垂れてきそうだった。
伊蘭は水筒を取り出して一口飲むと、それを伊貴に手渡した。
「ほら、師弟。水を飲んで、少し気を紛らわせろよ」
伊貴は水を一口含むと、波有に目配せを送った。
(完璧だ! その調子で続けて!)
合図を受け取った彼女は、さらにテンションを上げて話し続ける。
「はぁ……師兄がお水を飲んでいるのを見たら、今度は通天山の『雪黄花茶』が恋しくなっちゃったな!」
「和白神使の話だと、お花は咲いている期間がすごく短くて、しかも雪山の切り立った崖の上にしか咲かないから、摘み取るのがめちゃくちゃ大変なんだって」
「それに、凄いのは、お茶にするのは一番てっぺんにある、自然に育った一番瑞々しい一芽二葉だけ! もう、どれだけ贅沢か分かるよね」
「ねえ、みんな覚えてる? あのお茶を淹れると、お湯の中で金色の花びらがゆらゆらと揺れて、花の甘い香りと茶葉の爽やかな香りが溶け合うの」
「ふわっと優しい甘さが鼻に抜けて……まず香りを思いきり吸い込んでから、一口すする。もう、言葉にできないくらい幸せな気分になれるんだから」
無畏が盗み聞きしているのを意識して、波有はあえて表現を大げさに盛って話した。
「しかもそこはすごく寒いだろ? でも、あのお茶を飲むと体が芯からポカポカして、一日中温かさが続くんだよな」
伊蘭も深く頷く。
おかげで全員は生唾を飲み込み、懐かしい通天山での穏やかな時間を思い出していた。
「本当に通天山に帰りたいなぁ。寒いけれど、最高の温泉があるもん。浸かりながら遠くの雪景色を眺めるのが、僕の一番の楽しみだったんだ。なのに、ここはどこを見ても砂、砂、砂だもんなぁ……」
小亀も寂しそうに顔を曇らせてため息をついた。
すると波有が鋭い視線を送ったので、彼はハッと我慢比べの最中だったことを思い出し、大慌てでトニに向かって両手を振って弁解した。
「ご、ごめんね、トニちゃん! 砂漠が悪いって意味じゃないんだ。ただ、まだここの気候に慣れてなくて……ほら、僕は水族だから、水がないとちょっとね。あはは」
トニは興味深そうに目を輝かせた。
「甲ちゃんの故郷には、たくさん水があるの? 砂漠からずーっと遠く離れた場所には人間の都があって、そこには大月湖みたいな湖がたくさんあったり、江とか河っていう、ものすごく大きな川が流れているって聞いたことがあるわ」
波有はニコニコしながらトニの手を握りしめた。
「ここから出られたら、海だけじゃなくて、絶対に都へ連れていってあげる!」
「もしちょうどお祭りの日に当たったら、ものすごい人だかりだよ。通りが端から端まで人でぎゅうぎゅうに埋まって、一歩も前に進めないんだから!」
―――
楽しい話題になると、彼女のマシンガントークも止まらなくなる。
「トニ、聞いて! 私はね、大道芸の『胸元大石割り』が一番大好きなの!」
「武術の達人が街頭でやる芸なんだけどね、一人がベンチの上に仰向けに寝て、胸の上にめちゃくちゃ大きな岩を置くの。そこへもう一人が、大きなハンマーを思いきり振り下ろすんだよ」
「すると、バコーン! って岩は粉々に砕け散るのに、下の人はかすり傷一つ負わないの! これぞまさに本物の達人技だよ!」
その時、彼らの会話をじっと聞き耳を立てて盗み聞きしている、小さな影があった。
特に波有が「胸元大石割り」の話を始めたあたりから、無畏は我知らず細い首をろくろ首のように長く伸ばし、耳だけを近くへ伸ばしたい衝動に駆られていた。
「何が達人技だよ! 師父がずっと前に教えてくれただろ。あれは全部サクラを使った手品だって。岩には最初から仕掛けがあって、見えないヒビが入っているんだよ」
伊蘭が思わず突っ込みを入れる。
「分かっているよーだ! でも、お祭りなんだから、場の賑やかな雰囲気を楽しめばいいじゃん。そんな現実的なこと言ったら、つまらないでしょ!」
無畏は、聞けば聞くほど、もう居ても立ってもいられなくなっていた。
美味しそうな「白切鶏」。
温かい「雪黄花茶」。
ハラハラする「胸元大石割り」。
賑やかで楽しい「お祭り」。
極楽気分の「温泉」……。
世の中に、こんなに楽しそうで賑やかなことが嫌いな子供がいるだろうか。
彼は話に聞き入りながら、頭の中でどんどん妄想を膨らませていく。
(……うう、行きたい。体験してみたい……!)
ハッと我に返り、彼は心の中で首を激しく振った。
(いや、ダメだ! あいつら、わざと誘惑しているんだ! 僕を釣ろうとしたって、そうはいかないからね! 絶対に騙されないんだから!)




