第76話 海に消えた溶岩(おもい)
近くにいたチビ妖怪は、彼らの様子をずっと観察していた。
一人はブツブツと狂ったように詩を吟じ、もう一人はトニにすっかり骨抜きにされている。
(ふふん、あんなに有名だっていう通天山のお弟子さんも、お妃様にかかれば一発でメロメロね)
妖怪たちは心の中でクスクス笑っていた。
伊貴が「お腹が痛い!」と叫んだものだから、一匹の妖怪が慌てて頭を下げた。
「神使様、どうぞこちらへ!」
そう言って案内されたのは、近くにある小さなテントだった。
中に入ると、なんとそこにはキラキラと輝く純金製の便座が鎮座していた。
そもそも、砂漠の野良妖怪にトイレなんて上等なものは必要ない。その辺の砂地か灌木の下で適当に済ませるのが普通だ。
けれど、砂漠の主である鷹王はとにかく見栄っ張り。
しかも国が買えるほどの富豪で、純金の海まで作ってしまう男だ。
金なんて安売りするほど余っているため、見せびらかすようにすべてのテントに金ピカのトイレを設置していた。
伊貴が中に入り、すぐに手で合図をして妖怪を下がらせると、そいつはニヤニヤと察したような笑みを浮かべて出て行った。
一緒に気配を消して入ってきていた波有は、妖怪がいなくなったのを見計らってパッと姿を現した。
さっき鷹王の寝室で盗み聞きした会話を、一から十まで一気に伝えた。
話を聞いた伊貴は、金ピカのトイレを見つめたまま唖然と固まってしまった。
波有は焦って地団駄を踏んだ。
「二師兄、こうしちゃいられないよ! すぐここを出よう! 夜まで待っていたら、絶対に間に合わなくなっちゃう!」
しかし、彼の顔には一瞬、ためらいの影が差した。
「……今すぐ逃げ出すとなると、かえって藪蛇になるかもしれない。鷹王たちに速攻で気づかれて、すぐに追っ手が迫ってくるはずだ。計画通り夜に行動を起こせば、翌朝にバレたときにはもう相当な距離を稼げている。そのほうが逃げ切れる確率は高いと思うんだ」
波有は「本当に大丈夫かな……」と胸騒ぎを覚えたけれど、いつも伊貴の判断に従ってきたため、渋々「分かった」と頷いた。
再び姿を消して天幕を出ようとした、そのとき。
伊貴がガシッと波有の腕を掴んだ。
「待て! やっぱりさっきの俺の判断は間違っているかもしれない!」
「もう一度よく考えたんだ。お前の言う通りだ、迷っている場合じゃない! もうすぐお宝の件がバレる。そうなれば蓋紅沙を取り上げられるだけじゃ済まない、トニちゃんまで巻き添えにしてしまう!」
その言葉を聞いて、波有は心の中でしみじみと感動していた。
(さすがは二師兄……!)
頭が良いだけでなく、何よりも真っ直ぐで誠実なのだ。
間違っていると気づけばすぐに改める。
常に自分の良心に従って行動する人。
メンツが潰れるとか、周りからどう思われるかといった、つまらないプライドで物事を判断したりは絶対にしない。
「うん!」と波有は元気に頷いた。
「今から師弟を呼びに行ってくる。そしたら、湖のほとりの隠れ場所で合流しよう!」
「よし、頼んだぞ! 二人とも、くれぐれも気をつけて!」
―――
一方、小亀の任務は下っ端妖怪たちの噂話を盗み聞きすることだったため、波有は何個もの小さなテントをひっくり返して探し回る羽目になった。
ようやく見つけると、波有は彼を自分の足の上にそっと乗せた。
遠目から見ると、まるで一匹の小さな虫が草の上を低空飛行しているかのように見える。
波有は早歩きで移動しながら、ことの顛末を小亀に伝えた。
「間違いないよ、あの無畏って精霊が、蓋紅沙が二粒足りないことに気づいちゃったんだ」
「でもさ、師姉」
小亀は不思議でたまらないという風に首を傾げた。
「島は赤い砂で埋め尽くされていたんだよ? 僕が盗み出したのは、ほんのちょっぴりなのに……あいつ、まさか毎日一粒ずつ砂を数えているの? そもそも、数え切れるわけないじゃない」
波有は首を振った。
「実は私もそこがよく分からないんだけど、無畏は宝物庫の精霊でしょう? 自分の中に保管されているものだから、感覚で『あ、何かが減ったな』って分かっちゃうのかも……うん、きっとそうだよ! いちいち数えてるわけじゃないよ、絶対に!」
二人は「島の砂粒を数え切れるか否か」という、ちょっとズレた疑問についてあーだこーだと言い合っているうちに、身を隠し秘密の場所に到着した。
元の姿に戻ると、持っていた水袋を満タンに詰め込んだ。
「師兄たちは妖怪をうまく撒けるかな。きっと水や食料を準備する時間なんてなかったよね。せめてこっちに、水袋が二つあってよかった」波有が心配そうに呟く。
小亀は、細い眉を少し曇らせている彼女の横顔を見つめながら、心の中で静かに誓った。
(師姉、心配しないで。僕の分の食料も水も、全部君にあげるからね)
波有は彼の熱い決意を知る由もない。自分をじっと見つめてくるものだから、てっきり同じように不安がっているのだと勘違いしてしまった。
安心させるように優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ。あんたは可愛い師弟なんだから、絶対に守ってあげる! もし最後に一人分の食料と水しか残らなくなっても、全部あんたに譲ってあげるからね」
「師姉は本当に優しいなぁ! 僕は絶対に君のことを一生大切にするよ。後一師兄みたいに、何があっても師姉のために命を懸けて戦うから!」
それを聞いた瞬間、波有は両手をでんでん太鼓のように激しくブンブンと振った。
「ダメダメ! それだけは絶対にダメ! 後一師兄のことは、今でも本当に申し訳なくて後悔してもしきれないんだから。あのとき、もし彼が、私が驕盧に殺されたって勘違いしなかったら、あんなに無茶な戦い方はしなかったはずだもの」
「あんたを大切にするのは、師姉として当たり前でしょ? 小さい頃から親がいないから、師父やみんなが唯一の家族なんだよ。あんたたちじゃなくて、誰を大切にするっていうの?」
小亀の胸に湧き上がっていた燃えるような恋心は、まるで冷たい海に流れ込んだ火山の溶岩のように、ブツブツと煙を上げながら一瞬で鎮火されてしまった。
火種すら残らないほど、見事なまでに。
(……どうやら、生まれ変わっても師姉の本質はちっとも変わっていないみたいだ)
彼女は誰に対しても平等に優しく、誰のことも守ろうとする。
心にあるのは、「大きな愛」だけであって、特定の誰かを独占したいという個人的な恋愛感情はこれっぽっちもないのだ。
何と言えばいいのだろう。
それは一種の超越した境地であり、すべてを包み込む慈悲の心そのものだった。
(これぞ、本物の博愛ってやつなのかな……)
(まあ、いいや。どっちにしろ師姉は僕を守ってくれる、大切にしてくれるって言ってくれたんだし)
(うん、贅沢を言っちゃダメだ! このまま自分の気持ちを真っ直ぐに捧げ続けて、彼女の隣にいられるだけで、僕は十分に幸せなんだから)
小亀は自分に言い聞かせるように、心の中で気合を入れ直した。
―――
正午が近づいた頃、伊貴たちが息を切らせてようやく到着した。
今回は、以前ここへ来るときに竜巻に巻かれてみんながバラバラになってしまった悲劇を繰り返さないため、トニがあらかじめ用意しておいた太い白布を取り出した。
彼女は布を使って、全員の身体をぐるぐると頑丈に縛り合わせ、一つの塊にした。
準備が整うと、トニはあの日、皇后がやっていたのと同じ不気味な声を真似て呪文を唱えた。
すると、どこからともなく激しい黄砂の竜巻が巻き起こった。
湖のほとりにいた妖怪たちが「えっ!? 何事!?」と驚いて叫ぶ声を置き去りにしながら、伊貴たちは一瞬にして砂嵐に巻き上げられ、影も形もなく消え去ってしまった。
その頃、大天幕の中。
人面桃将軍は、鷹王の機嫌を損ねないよう、持てるすべての語彙力を駆使して大王をヨイショし続けていた。
おべっか攻撃のおかげで、鷹王はすっかりご機嫌になり、顔を赤らめて満足そうに笑っていた。
ようやく天幕の外に出ると、一陣の心地よいそよ風が吹いてきた。
将軍はそこで初めて、自分が冷や汗でびっしょりになっていることに気づいた。
(ふぅ、危ない危ない。これ以上大王様の地雷を踏むわけにはいかないな……)
彼はそう考えると、再び自分のテントの屋根に這い登り、ひと眠りしようとした。
けれど、どうしても眠れない!
体の中に隠しているはずの「もう一つの頭」が、さっきからますます騒がしくなり、声のボリュームを上げて叫び続けているのだ。
そのせいで、表に出ているの頭までガンガンと痛くなってきた。
(おかしい!)
将軍はだんだん焦りを感じ始めた。
もし本当に何事もないのであれば、無畏がこんなにしつこく喋り続けるわけがない。
けれど、もう一度天幕に戻って直訴すれば、せっかく機嫌の直った鷹王をさらに怒らせてしまうかもしれない。
彼が「行くべきか、残るべきか」と頭を抱えて苦悩していると、突然、湖のほとりの方から何やらドタバタと騒がしい声が聞こえてきた。
(チッ、どいつもこいつも!何があったんだ?)
彼が天幕からずるりと滑り降りると、一匹の妖怪が血相を変えて走ってきた。
「将軍! 皇后様が、湖の近くから何者かが竜巻を呼び出して出発するのを目撃されました! ですが、今日は大王様も将軍も外出される予定はなかったはず……。ですので皇后様が、『将軍が誰かに秘密の任務でも命じて外出させたのですか?』とお尋ねです!」
人面桃はハッとして叫んだ。
「誰も外出させてなどいない! 今すぐ例の二人の神使がどこにいるか確かめてこい! もし姿がなかったら、ただちに鷹衛隊に報告しろ!」
「は、はいっ!」
妖怪は生返事をすると、すぐに風のように走り去った。
―――
人面桃はもうじっとしていられなかった。
彼は、本来のド派手な「双頭の蛇」の姿へと変化した。
その巨体は瞬時に何倍にも膨れ上がり、隠されていたもう一つの頭もニュッと外へ飛び出す。
そっちの頭は目は閉じたままであったが、長い毒舌をちろちろと突き出し、空気中の匂いを必死に嗅ぎ取ろうとした。
大蛇の身体は電光石火の勢いで草の上を激しくうねり、一瞬にして湖のほとりにいた皇后たちの前に現れた。
皇后は将軍の姿を見るなり、救いを求めるように声を上げた。
「あら、 ちょうどよかったわ、今あなたに人をやろうとしていたのよ。今日、誰かに急ぎの用事でも頼んだのかしら? あそこに大きな竜巻が起きて、人を乗せて谷の外へ飛び去っていくのが見えたの。だからてっきり……」
皇后が言い終わるより早く、先ほどの妖怪が息を切らせて戻ってきた。
「ほ、報告します! 二人の神使、姿が……どこを探しても見当たりません!」
それを聞いた人面桃は、すべてを察した。
彼は怒り狂い、戻ってきた妖怪に強烈な蹴りを見舞った。
「見当たらないだと!? 逃げ出したに決まっているだろうが! バカ者が、早く鷹衛隊に伝えて谷の外へ追っ手を放て!」
そして、大慌てで皇后に向かって頭を下げた。
「失礼いたします! すぐに大王様へこの件を報告してまいります!」




