第69話 騙されたフリ作戦
波有の温かい言葉に、トニの心はぽかぽかと満たされていった。
目の前にいるこの少女になら、ずっと胸の奥に閉じ込めていた苦しみをすべて打ち明けられる――本気でそう思えたのだ。
「波有ちゃんには、私の辛さは分からないわよ。……四人のお姉様がいるけれど、みんなすごく強気で、時には私をいじめたりするの。普段から顔色を窺って、大人しく従うのはまだ我慢できた」
「……でもね、今回は絶対にやっちゃいけない悪いことをしろって言うの。もし両親が生きていたら、こんな仕打ちをさせたりしなかったはずなのに……」
「ここから逃げ出したい……お家に帰りたいよぉ……」
トニは再び机に突っ伏して、シクシクと声を殺して泣き始めてしまった。
波有は胸がキュッと締め付けられるような痛みを覚え、自分も机に寄り添うように身をかがめて、優しい声で慰めた。
「トニの気持ち、すごくよく分かるわ。いくら血の繋がったお姉さんだからって、嫌がる妹に悪いことを無理やりやらせるなんて絶対に間違ってる!」
トニは涙で濡れた瞳を上げた。
「……大王様がね、人面桃将軍の口車に乗せられてしまったの。それでお姉様たちは、私の体が一番小柄で男の人の目を引きやすいからって、お客さんの物陰に忍び寄ってお茶の中に『海市花』のエキスを混ぜろって命じるのよ。彼らの心を狂わせて、ずっとここに縛り付けて帰れなくするために……」
波有の顔に疑問の色の浮かぶのを見て、トニは言葉を重ねた。
「天幕に入る前、草むらに白くて小さな花が咲いているのを見なかった? あれが海市花よ。外の人たちが砂漠で行き倒れそうになったとき、幻のオアシス(蜃気楼)を見ることがあるでしょう? あれは全部、海市花が放つ香りのせいなの」
波有はハッと納得したように頷いた。
「砂漠で遭難した人が死ぬ間際に幻を見るっていう伝説、この花が原因だったんだね!」
トニは声を潜めて説明を続ける。
「この花はすごく小さくて、香りも上品でほのかなの。だからお茶に混ぜたとしても、飲んだ人は全く違和感を覚えないわ。でも、口から摂取すると、鼻で嗅ぐよりもずっと強力な毒になるのよ」
「長期に飲み続けると、心が完全に狂ってしまうだけじゃなくて、体中の経絡が麻痺していって、最終的には法力を練ることすらできなくなって、まるで抜け殻のようになってしまうの……」
そこまで言うと、彼女は真っ直ぐに波有を見つめた。
「あなただって、わざわざ親切に贈り物を届けにきてくれるお客さんを、こんな卑劣な方法でハメるなんて絶対に許せないわよね?」
トニという女の子は、やっぱり他の意地悪なラクダの妖怪たちとは全然違う。
本当に心根の優しい、素晴らしい人だ。
自分の直感は完全に正しかったのだと、波有は確信した。
―――
波有はちいさな拳でドンと机を叩くと、きっぱりとした表情で言った。
「その通りよ! 人が必死に修行して積み上げてきた力を奪うなんて、作戦を考えた奴はサイテーだわ! 絶対に引き受けちゃダメ!」
「トニもこんな汚いやり方は大嫌いでしょう? もしかして、もう何か良いアイデアがあるの?」
彼女は深く息を吸い込むと、波有の耳元に口を寄せて、そっと囁いた。
「さっきまではどうしたらいいか分からなくて、ずっと一人で悩んでいたの。でもね、波有ちゃんの言葉を聞いていたら、不思議と少しだけ勇気が湧いてきたわ」
彼女は警戒するように周囲を見回したが、辺りは静まり返っている。
波有のほうは、小亀が完璧な結界を張ってくれていると知っているので、外に会話が漏れる心配など微塵もしていない。
トニは声を落とし、波有の耳に顔を近づけて、ぽつりと呟いた。
「私……こっそり彼らを助けてあげようと思うの。そのあと、一緒に沙の谷から脱出するわ」
波有は心の中で(やったぁ!)と大喜びした。
けれど、表面上はわざと目を丸くして、驚いた表情を作ってみせる。
「トニ、なんて勇敢なの……!」
いつも姉たちからバカにされ、冷たい言葉ばかり浴びせられてきたトニにとって、誰かからこんな風に真っ直ぐ褒められたのは生まれて初めてのことだった。
「波有ちゃん、この秘密、絶対に他の人には内緒にしてくれるわよね?」
波有はもう彼女のことが愛おしくてたまらなくなり、思わずぎゅっと抱きついた。
「もちろん! トニは優しくて、おまけに世界一カッコいいわ!一目見たときからあなたのことが大好きだったんだから!」
トニも胸がいっぱいの喜びで満たされ、笑顔を咲かせる。
「私もよ! 波有ちゃんが大好き!」
そのとき、外で見張りをしていた小亀が、二人の仲睦まじい様子を邪魔するのは心苦しいと思いつつも、結界の中に声を送ってきた。
「師姉、そろそろ時間だよ。戻らないと」
突然響いた見知らぬ声に、トニはビクッと体を強張らせた。波有は慌てて彼女の手を握り、優しく説明する。
「怖がらないで。今の声は私の師弟よ。偶然この場所に迷い込んでトニと出会ったの」
「さっきの話を聞いてね、ちょっと考えたんだけど……。もし本当にトニがここから逃げ出したいなら、力になれるかもしれないわ」
悪戯っぽくニカッと笑った。
「だって、私たちもここから出たいのは同じなんだもの!」
「えっ、あなたたちも……? あぁ、私ったら自分のことばかり話しちゃって、波有ちゃんの事情を聞くのをすっかり忘れていたわ」
トニが申し訳なさそうに言うと、波有は彼女の手を強く握りしめて勇気づけた。
「大丈夫! 私たちなら絶対に上手くやれるわ!」
「さあ、本当にもう行かなきゃ。私と師弟は向こうの湖畔の茂みに隠れているからね。トニがこっちを探しにくる必要はないわ。またチャンスを見つけて、必ず会いにくるから」
トニは名残惜しそうにしながらも、健気に微笑んで頷いた。
「分かったわ、波有ちゃん! くれぐれも気をつけてね」
―――
小亀と波有は再び気配を完全に消し、来た道を戻って師兄たちの元へと帰還した。
伊蘭と伊貴は今かと待ち侘びていたため、二人の無事な姿を見て一安心した。
波有はトニと交わした会話のすべてを詳しく報告した。
伊蘭は感心したように声をあげた。
「へえ! 泥だらけの環境にいても、心は一切汚れていないなんて……確か、泥の中に咲くハスの花みたいな言葉、何て言ったっけ?」
伊貴がクスッと笑う。
「――泥より出でて泥に染まらず』ですね。大師兄、そんな風流な言葉を知っていたんですか?」
「そうそう、それだ! 念ちゃんが毎日本を抱えて読んでいただろう? この前、気になって聞いてみたら、ハスの花を称える詩だって教えてくれたんだよ。あんなに美味しいレンコンが実はドロドロの泥の中で育つって知って、なるほどなと思って印象に残っていたんだ」
伊蘭が照れくさそうに頭を掻いた。
波有は口元を押さえてクスクスと笑った。
「大師兄だからこそ、伊念師姉も機嫌よく教えてくれたのよ! もし私たちが読書の邪魔なんかしたら、一言も喋らずに『はあ?』って顔で睨みつけられて、そのままツンッとどこかへ行っちゃうもの」
「この前なんて、師父に呼ばれたのに『今忙しいので、ちょっと待ってください』って冷たく一蹴して、師父をガーンと落ち込ませていたんだから。あのときの彼の何とも言えない切ない顔、最高に傑作だったわ!」
伊貴はお腹を抱えて笑いながら、伊蘭を指さした。
「波有のモノマネは本当にそっくりだな! いやあ、念ちゃんがずっと大師兄に片想いしているっていう噂は、あながち間違いじゃなさそうだ」
「えっ、そうなの!? 僕、初耳なんだけど!」
今度は小亀が目を丸くして驚いた。
「師弟が知らないのも無理ないわよ! 大師兄が雲英姉さんと結婚してからは、伊念師姉もすっぱり諦めたみたいだし。あんたが入門する前はね、それはもう二人の女性が一人の男を巡って、キャーキャーワイワイと激しい女のバトルを繰り広げていたんだから……」
波有は小亀の耳元で、当時の特大のゴシップを嬉々として囁いた。
「おいおいおい! そんなドロドロした泥仕合みたいな言い方をするなよ!」
伊蘭は顔を真っ赤にして必死に弁解する。
伊貴は小亀に向かって微笑んだ。
「甲ちゃん、波有の言うことを真に受けちゃダメだよ、そこまで大袈裟じゃなかったからね。念ちゃんは口にこそ出さなかったけれど、きっと大師兄のことが好きだったんだと思う」
「でも、師兄と雲英は最初から相思相愛だったし、君が入門する前に師父の取り計らいで無事に結婚したから、念ちゃんも完全に気持ちに区切りをつけたんだよ」
すると小亀は、どこか真剣な表情になって胸を張った。
「僕なら、もし好きな人ができたら絶対に隠したりしないな。堂々と大声で気持ちを伝えるよ!」
そう言うと、彼は両手で顔を覆い、まるで決死の覚悟を決めたような顔で波有に向き直った。
「師姉、僕、君のことが大好きです!」
パコッ、パコッ!
次の瞬間、伊蘭と波有の手が左右から綺麗に飛び、小亀の頭に見事なツッコミの拳が落とされた。
「お前なぁ、少しは男としてのプライドを見せろよ! ほら、伊貴を見習え。あいつは昔から女性関係には一切なびかない硬派だぞ」
伊蘭がそう言って伊貴を持ち上げると、一同の視線が自然と彼に集まった。言われてみれば確かにそうだ。みんなの目に好奇心の光が宿る。
伊貴は途端に大慌てになり、顔を引きつらせた。
「おい、変な目で見るなよ! 最初に言っておくけど、俺は男の人が好きなわけじゃないからな! 変な勘違いは絶対にするなよ!」
波有はわざと怪しげに目を細めてみせた。
「へえー? 私たちの二師兄といえば、頭脳明晰で、ルックスも抜群で、おまけに圧倒的なリーダーシップの塊じゃない? なのに、どうして未だにお嫁さんが見つからないのかしらねぇ?」
「はいはい、そこまでだ。そろそろ本題に戻るよ」
伊貴は苦笑いしながら、強引に話を切り替えた。
他の三人ものおふざけモードを終了し、真剣な表情で彼の周りに集まって耳を傾ける。
―――
「波有の話から、あのトニさんが味方であり、一緒に鷹王に立ち向かってくれることが分かった。それなら作戦は立てやすい」
伊貴は伊蘭を指さした。
「明日、俺と大師兄はわざと湖に落ちる。そして鷹王に発見され、捕まったフリをして対面する。そこで、自分たちは通天山の星盤仙尊の使いの者だと名乗り、手土産として『冰晶傘』を献上するんだ」
「鷹王の目的は、俺達を人質にして、星盤仙尊に『通天山の氷山』を要求することだ。あの強欲で傲慢な性格からして、砂漠の法宝である『蓋紅沙』を素直に貸してくれるはずがない。だから、その件について切り出すのはやめよう」
伊蘭が焦ったように尋ねる。
「じゃあ、どう動けばいいんだ?」
伊貴は不敵に笑った。
「焦らなくても大丈夫だよ。俺たちには強力な味方がいる。トニさんが心を一つにしてくれている以上、ここは『――相手の罠にあえてハマる』作戦で行こう」
「海市花の幻覚にまんまと引っかかったフリをして、この砂漠の楽園が楽しすぎて家に帰りたくなくなっちゃった、という大芝居を鷹王や部下たちの前で演じるんだ」
「彼らが完全に油断した隙を見計らって、さっきみたいに波有が姿を消すか、甲ちゃんが小さな虫に化けて天幕を捜索し、法宝を盗み出す。ここへ来るときは皇后が砂の竜巻を起こしたけれど、脱出するときはトニさんに同じように術を使ってもらえばいい。そのときは、彼女も一緒に連れ出すんだ」




