第67話 小鳥のようなお妃様
波有から天幕の中のやり取りを聞かされた伊貴と伊蘭も、怒りで顔を真っ赤にさせていた。
「まさか事態が最悪になっているとはな。仙尊じいちゃんだって、自分の友人がこんなに卑劣な奴だとは予想もしていなかったはずだ。三大能の一人だなんて名ばかりじゃないか。暑さをしのいでもらおうと親切に氷の結晶(氷晶)を届けにくる相手を、ハメようとするなんて!」
四人は口々に、鷹王と部下の破廉恥な悪巧みをボロクソにこき下ろした。
しばらく文句を言い続けていると、波有は喉がカラカラになり、お腹もグーグーと鳴り始めた。
彼女が荷物から干し肉を取り出すと、伊貴も水筒を差し出し、隣の小亀に回した。
「念ちゃんの荷物にも半分残っているはずだけど、手元にあるのはこれだけだ。少しずつ分け合って大切に食べよう」
二口、三口と簡単に食事を済ませると、伊貴は真剣な表情で二人に告げた。
「明日も今日と同じように、湖の向こうの天幕へ行って様子を探ってきてほしい。俺と大師兄は、甲ちゃんみたいに姿を変える特技がないから、ここで波有の護衛役に徹するよ」
「絶対に無理はしないで、細心の注意を払うんだ! 何か異変があったら、すぐにここへ引き返してくること!」
気づけばすっかり日が暮れて、みんなの顔にはドッと疲れがにじみ出ていた。
前日の夜からラクダの妖怪を追いかけて砂の竜巻に飛び込み、沙の谷へ辿り着き、そこから歩き回ってようやく師兄たちと合流できたのだ。
波有はこの二、三日、まともに体を休めていなかった。
ここは大木の陰に隠れた死角で、ひとまずは安全な場所だ。
ふっと緊張の糸が切れた彼女は、そのまま木の幹に体を預け、深い眠りへと落ちていった。
―――
翌朝、まだ夜も明けないうちから、湖のほうでガヤガヤと騒がしい声が響き、波有はパチッと目を覚ました。
見ると、師兄たちが草むらの隙間から湖の向こうの様子をじっと窺っている。
気配に気づいた伊貴が振り返った。
目の周りには、ものすごく大きなくまが浮かび上がっている。
「起きたかい? ちょうどいい、あいつらが向こうで水を汲み始めているんだ。君の『神識』を使って、何を話しているか探ってくれないか」
伊蘭もひょいと首を巡らせた。
「お、波有、目が覚めたか? 甲ちゃんはさっき一足先に情報収集へ向かったから、援護してやってくれ。俺と二師兄がしっかりお前の肉体を守ってやるから、安心して行ってこい!」
伊蘭までどこか眠そうな顔をしているのを見て、波有は(ああ、二人は一晩中、交代で寝ずの番をしてくれていたんだな)と察した。
(よし、私も気合を入れなきゃ! 少しでも役に立つ情報を早く掴むんだ!)
心の中でそう意気込むと、波有は彼たちに向かって力強く頷いた。
木の下で静かにあぐらをかいて座り、体内の霊力を高めながら指先でパパッと印を結ぶ、自身の神識を外へと解き放った。
大きな天幕と湖の間には、水を汲む妖怪たちの長い列ができており、警備の鷹衛兵たちが目を光らせて監視していた。
昨日偉そうに指図していた小隊長の姿もあった。
やはり鷹王と血が繋がっているのか、顔立ちはよく似ている。
ただ、王よりもずいぶん若い。
水汲みに集められた下っ端の妖怪たちは、ほとんどが獣の姿のままだった。
中には半分人間で半分獣という、なんともユーモラスで奇妙な姿の者も混じっている。
一方で、木の柱に縛り付けられたままの「水を盗んだ罪人」たちは、丸一日じりじりと太陽に灼かれたせいで、昨日よりもさらに息も絶え絶えになっていた。
しばらく周囲の声を拾ってみたものの、これといって新しい収穫はなさそうだった。
そこで波有は、スーッと神識を大きな天幕の内部へと潜り込ませた。
今日の中にはほとんど人がおらず、ガランとした空間が広がっていたため、構造がはっきりと見渡せる。
外から見れば単なる巨大なテントに過ぎないが、実際に入ってみると、想像を遥かに超える広さだった。
昨日みんながひざまずいていた大広間の周囲は、砂や石で作られた頑丈な仕切り壁によって、いくつもの小さな小部屋に区切られている。
―――
うちの一室から、ひそひそと女性たちの話し声が聞こえてきた。
波有の神識は、引き寄せられるようにその部屋へと泳いでいく。
壁をすり抜けて中を覗くと、華やかな女性の寝室だった。
中では皇后と、妹である四人の側室たちが何やら密談を交わしている。
一人のお妃が、不安そうに皇后へ尋ねた。
「お姉様、大王様はいつお客様が到着するとおっしゃっていましたの? なんだか胸騒ぎがして……。本当に私たちの『美人計』なんて作戦、上手くいきますのかしら?」
すると、もう一人の妃がクスクスと意地悪そうに笑った。
「あら、あなたってば、本当は若い男の人が恋しいだけじゃないの?」
「な、なんですって!? あなただって同じでしょう? 私たち、せっかくお妃になれたっていうのに、大王様からは全然お声がかからないじゃない。毎日毎日、歌って踊らされて、お茶や料理を運ぶだけ。これじゃ、ただの下働きのお手伝いさんと変わらないわ!」
それを聞いた皇后は、柳の葉のような細い眉をピキッと吊り上げた。
「お黙りなさい! 昨日、あなたたちにあれほど注意したのを忘れたのですか!? そんな命知らずな愚痴をこぼして、もし大王様の耳にでも入ったら、私まで巻き添えを食らうのですよ!」
別の妃がふんわりと笑いながら宥める。
「お姉様、怒らないで。大王様なら今朝早くに人面桃将軍と一緒に小月湖へお出かけになりましたわ。ここで何を話そうと、絶対に聞こえやしませんもの」
皇后はハァと大きなため息をつき、呆れたように肩を落とした。
「大王様が留守だからって、すぐに調子に乗るのだから……」
もう一度重いため息を漏らす。
「けれど、あなたたちの気持ちも分からないではないわ。私も似たようなものだもの」
先ほど笑っていた妃が不思議そうに言った。
「でもお姉様は皇后ですし、大王様のそばに一番長くおられるのですから、私たちと同じ扱いは酷うございますわ」
「ふん、何が皇后よ」
皇后はペッと吐き捨てるように愚痴をこぼした。
「ここ数年、大王様は昔のような覇気がすっかりなくなって、四六時中ヘビの妖怪とべったり。あんな奴の言うことばかり聞いて……」
鷹王から直々に下された任務を思い出したのか、皇后は再び眉をひそめて頭を抱えた。
「あぁ、もう、くだらない話はやめにしましょう。それより、大王様に命じられた『美人計』をどうやって成功させるか、みんなで知恵を絞りなさい」
―――
すると、一人の妃が含み笑いをしながら提案した。
「それなら、まずお姉様を煩わせるわけにはいきませんわね。五女の五妹が、私たちのなかで一番小柄で、肌もとびきりピチピチしていますわ。外の世界の言葉で言うなら、確か『小鳥が人間に懐くような可愛らしさ』ってやつかしら? きっと男の人が一番放っておけないタイプですわ」
「もし五妹だけで落とせなかったら、残りの私たち三人で一斉に攻め立てるというのはいかがかしら?」
皇后の顔にぱっと笑みが浮かんだ。
「さすがは二妹、相変わらず頭の回転が早いわね! よし、その作戦で行きましょう。五妹、すべてはあんたの双肩にかかっているわよ」
しかし、「五妹」と呼ばれた一番年下の女性は、蚊の鳴くような、ひどく小さな声で何かを呟いた。
それが何を言ったのか、二妹の妃の逆鱗に触れたらしい。
彼女は急に声を荒らげた。
「お姉様、聞いてくださいな、この子の言い草を! 『人を騙すような真似は嫌だ』なんて言っていますわよ!」
皇后も容赦なく叱り飛ばした。
「私たちだって、好き好んで人を騙そうとしているわけではないのです! これは絶対の命令なのですよ? まさか、大王様に逆らうつもりですか!?」
一番年下の妃は、怯えたようにシクシクと泣き出してしまった。
「ちょっと、また泣き出したわ。この子の弱虫な性格、一体誰に似たのかしら? 泣き声を聞いているだけでイライラするわ。もう行きましょう。ここで頭を冷やしてよーく考えなさい!」
皇后がバッと立ち上がると、他の妃たちもそれに続いた。
「そうですわね、お姉様。五妹を一人にして静かにさせておけば、そのうち頭も切り替わるでしょう」
―――
バタバタと足音が遠のき、部屋の中には、うつむいて声を殺して泣き続ける若い妃と、波有の神識だけが取り残された。
小さなラクダの妖怪は、ウウッと涙をこぼしながら、ぽつりと独り言をつぶやいた。
「みんなして、いつも嫌なことばかり押し付けるなんて、ひどすぎるよ……。お天道様は見ているんだから、いくら大王様だからって、人を騙して良いわけがないのに……」
この一番年下の妃は、四人の姉たちに比べて格段に小柄で、守ってあげたくなるような愛らしさに満ちていた。
少しうつむいた、色白でふっくらとした綺麗な顔立ち。
大きくて丸い瞳には、大粒の涙がキラキラと溜まっていて、見ているだけで胸が締め付けられるような、儚い美しさがあった。
「悪いことだって分かっているのに、どうして無理やりやらせようとするの?」
「私、妃になんてなりたくなかった。人を騙すのも嫌。……ただ、おうちに帰りたいよぉ……」
波有は、一瞬でこの若い妃のことが大好きになってしまった。
まっすぐな性格は、どこか自分に似ているような気がしたのだ。
もし今、自分が神識の精神体でなければ、今すぐにでも実体化して、駆け寄って抱きしめて慰めてあげたいくらいだった。
そのとき、波有の頭の中に、ある名案がピコーンとひらめいた。




