第64話 沙の谷
伊貴たちも心の中で「よし、準備完了だ!」と身構えた。
すると次の瞬間、先ほどの美しい皇后から、容姿からは想像もつかないような甲高い鳴き声が響き渡った。
「グァーッ! グァーッ! グァーッ!」
(ええっ、これがラクダの鳴き声!?)
あまりの激しさに度肝を抜かれる。
小亀が小さな声で尋ねた。
「ねえ、師姉。今のって、何かを呼び出しているのかな?」
波有が夜空の一角を指さす。
「……たぶん、あのことじゃないかな」
指さす先を見ると、遠くの砂漠から凄まじい旋風が巻き起こっていた。
黄色い砂を激しく巻き上げ、まるで巨大な砂煙の竜巻のように、猛スピードでこちらへ突進してくる。
旋風の速度は尋常ではなく、またたく間に湖畔へと到達した。
五人の大柄な美女たちを容赦なく巻き込んでいく。
ラクダの妖怪たちは、激しい風の渦に飲み込まれると同時に、一瞬で姿を消してしまった。
絶好のチャンスを逃すまいと、伊貴が叫ぶ。
「甲ちゃん! 早く追うんだ! 突っ込め、突っ込め!」
実は彼に言われるよりも早く、小亀はすでに白鶴を操って旋風のド真ん中へと突撃していた。
強風に煽られ、体が宙に浮きそうになるのを、必死に白鶴の羽を掴んで耐える。
視界がぐわんぐわんと激しく回転し始めた。
波有はあまりの激しい揺れに頭がクラクラしてしまい、ついに白鶴の羽から手を離してしまった。
けれど、身体が吹き飛ばされる寸前、何かが自分の体をぎゅっと抱きしめてくれた。
(……きっと、師弟だ)
不意に、激しい回転がピタッと止まった。
それと同時に、身体がフワリと重力を失って真っ逆さまに落下していく。
すると、下から「スッ」と何かが滑り込んできて、彼女の体を優しく受け止めた。
波有が恐る恐る目を開けると、そこには元の巨大なカメの姿に戻った小亀がいた。
甲羅の上に彼女を乗せ、ゆっくりと地上へ降りていくところだった。
「 師兄たちは!? 伊念師姉は?」
波有が慌てて周囲を見回す。
小亀は困ったように小さな目をパチパチさせた。
「見当たらないんだ。さっきの風が凄すぎて、師姉を絶対に離さないようにしがみつくので精一杯だったから……。それに、和白神使の鶴の羽も風に吹き飛ばされちゃった。みんな、無事だといいんだけど」
―――
二人はまず、眼下に広がる景色を見下ろした。
そこは、大砂漠の真ん中にある、とてつもなく広大なオアシスだった。
さっきの小さな湖と雰囲気は似ているけれど、目の前は規模が十倍以上も大きい。
湖のほとりには柳やポプラの木が青々と真っ直ぐにそびえ立ち、足元には緑の絨毯のような美しい草地が広がっている。
草むらには小さな白い花がいくつも固まって咲いており、美しい場所だった。
何より目を引いたのは、湖のほとりに佇む、山のように巨大なテントだった。
出入り口では、人間の姿に化けた小さな妖怪たちが、あの五人の美女たちと同じ白いフード付きのローブを着て、忙しそうに行き来していた。
周囲に、小さなテントがいくつも点々と並んでいる。
大天幕の前では、数匹の巨大なトカゲの妖怪が不気味に這い回って警備をしていた。
さらに、近くに立てられた太い木柱には、人間の頭にヘビの体を持った「人面蛇身」の妖怪がとぐろを巻いて睨みを利かせている。
小亀はテントから一番遠い、湖の静かな片隅に着陸した。
二人は地上に降りると、深い草むらの中に身を隠し、目の前にある柳の並木を利用して、完全に気配を消した。
波有がずっと黙り込んでいるのを見て、小亀がたまらず声をかける。
「ここがきっと『沙の谷』だよね。これからどうしよう? 自分から進み出て、挨拶した方がいいのかな? さっきのラクダの妖怪、大王様がお客様を待ってるって言ってたじゃない。それって、僕たちのことだよね?」
波有は静かに首を振った。
「ダメだよ、まずは師兄たちを見つけないと! 私たちだけじゃ危険すぎるわ。それに、鷹王への贈り物の『氷晶傘』は二師兄が持っているのよ。手ぶらで飛び出していったら、証拠も何もないし、スパイだと勘違いされて捕まっちゃうかもしれない」
「そっか……じゃあ、不用意に入り込んだら危ないってことだね」
波有は頷き、ひらめいたように言った。
「あんたも師父から『神識術』を教わったでしょう? ちょうどいいわ、法術を使って、まずは敵の様子を探りましょう」
「あのテントの方からどんな声が聞こえるか、一緒に耳を澄ましてみて。もしかしたら、師兄たちの情報が掴めるかもしれない」
小亀は決まり悪そうに頭をかいた。
「それがさ……師父に教わりはしたんだけど、まだ日が浅くて全然修行できてないんだ。術の射程が短すぎて、湖の向こうの声までは全然届かないよ」
波有は思わず呆れたように息を吐いた。
「もう、本当に手がかかるんだから。……だったら、あんたの体を思い切り小さく変身させて、あっちまで泳いで聞きに行って。もし途中で師兄たちに会えたら、連れてきてほしいの。ここはテントからも遠いし、木も草もたくさんあるから、隠れるにはうってつけの場所だからね」
小亀は「分かった!」と元気に頷くと、彼女に「絶対にここで待っていてね」と念を押し、虫ほどの小さなカメに変身した。
ふわりと宙に浮かび上がると、湖の向こうへと飛んでいった。
―――
波有は自身の神識を極限まで広げ、テント側の動向を探り始めた。
しばらく待っても有益な情報は引っかからず、彼女は意識の焦点を小亀へと切り替え、鏡のような水面を静かに進む彼の様子を見守ることにした。
意識が小亀のすぐ傍に寄り添い、静かな湖面をゆっくりと進んでいた、その時だった。
突如として、大天幕の中から、地を揺るがすような老人の咆哮が響き渡った。
その衝撃波は凄まじく、まるで耳元で強烈な雷が落ちたかのようだった。
這い回っていたトカゲの妖怪たちは、恐怖のあまり石像のように硬直して動きを止め、柱に巻き付いていたヘビの妖怪は、驚きで真っ逆さまに地面へと転げ落ちた。
広大な湖畔が一瞬にして、不気味なほどの静寂に包まれる。
小亀もあまりの爆音に心臓を打ち抜かれ、制御を失ってポチャンと湖に沈んでしまった。
慌てて小さな四肢をバタつかせ、必死に水面へと泳ぎ上がる。
一方、神識を最大出力にして耳を澄ませていた波有は、まともに衝撃を食らってしまい、場で脳を揺らされて気絶しかけていた。
男の怒鳴り声が止んでしばらく経っても、彼女の頭の中では「キーン」という不快な耳鳴りが鳴り響き、思考がちっともまとまらない。
ようやく意識がハッキリしてきて、先ほどの男の言葉を頭の中で反芻した。
(……確か、こう叫んでいたわ。『この役立たずどもめ! 一体何をやっているんだ!』って)
凄まじい怒りようだった。
大天幕の中にいて、あんな態度で妖怪たちを怯えさせられる存在。
十中八九、彼こそがこの砂漠の支配者、鷹王に違いない。
しばらく時間が経ち、波有の頭は完全にクリアになった。
彼女は再び神識を小亀へと飛ばし、湖の向こうの様子を窺った。確認すると、先ほどのトカゲやヘビの妖怪たちの姿は綺麗さっぱり消え失せていた。
小亀は体を小さくしたまま、草むらに紛れて大天幕の中へと静かに這い進んだ。
中は、床一面にひれ伏した妖怪たちで埋め尽くされていた。
しかし、ただの一声も聞こえず、不気味なほど静まり返っている。
トカゲの警備兵もヘビの妖怪も、先ほど湖で髪を洗っていた美女たちも全員が跪き、誰もが恐怖で息を殺していた。
―――
部屋の正面に据えられた高い台座には、一人の老者が背筋を伸ばしてドカリと腰掛けている。痩せ型で背が高く、鋭い眼光に尖ったワシ鼻。
その瞳には残虐な光が宿っており、「一筋縄ではいかない危険な大物」だと分かった。
隣には正妻である皇后――最も体格の良いラクダの妖怪が、これまた神妙な顔で寄り添っている。
皇后はハラハラした様子で、鷹王の機嫌をとるように優しい声で宥め始めた。
「大王様、どうかお怒りを静めてくださいませ。お体に障りますわ。この愚か者どもめ、普段は大王様の恩恵にあずかっていながら、感謝するどころか、大切な湖の水を盗むだなんて。本当に命が惜しくないと見えますね」
鷹王はそんな言葉に耳も貸さず、容赦ない怒声を浴びせる。
「側室の分際でありながら、お前たち四人は、下賎な民どもが泉の水を盗んでいることに気づかなかったとでも言うのか!」
床に突き伏せていた四人のラクダ美女たちは、顔を紙のように真っ白にしてガタガタと震えながら答えた。
「わ、私たちが湖畔へ身だしなみを整えに行きました時は、他には誰も見当たりませんでした……。ねえ、皇后お姉様もあの時、ご一緒でしたよね?」




