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波有伝説~海をゆく虹色の鱗【後編:不老不死の秘薬】  作者: 唯紅蓮真美(いちべにまみ)
第二章 雪嶺の逃避行

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第58話 千年越しの真実



 さっき温泉で藍に諭されたばかりのところへ、仙尊からお叱りを受けてしまい、彼らはすっかり縮こまってしまった。


 これ以上、大師匠様を怒らせるわけにはいかない。




 伊貴が慌てて木製のコップをテーブルに置くと、両膝をついて何度も畳に頭をこすりつけ始めた。


 それを見た他の人も次々と真似をしてひざまずき、部屋中がペコペコと頭を垂れる音でいっぱいになった。




「ゴツン、ゴツン」と必死に頭をぶつける音が響くのを聞いて、さすがの仙尊も少しバツが悪そうに心を和らげた。


「もうよい、もうよい、みんな立ち上がりなさい。老い先短いおじいちゃんが静かにお茶を飲もうというのに、ちっとも落ち着かんわい」



 藍は仙尊の機嫌が少し直ったのを見計らい、すかさずお世辞っぽく笑いかけた。


「師匠、美味しいお茶も飲めましたし、そろそろ昔話の続きを聞かせてくれませんか? 続きが気になって仕方がないんですよ」




 仙尊は藍をギロリと睨みつけた。


「ワシを講談師か何かだと思っておるんか? お前のお茶を一杯飲んだくらいで、どうして話をせにゃならんのだ。それとも何か、ワシから木戸銭でも取るつもりか?」



 藍は真っ赤になって慌てて手を振った。


「とんでもない! めっそうもございません! 弟子がそんな不届きなことを考えるはずがないでしょう!」



 仙尊は気を取り直したように手をひらひらと振った。


「まあよい、お前も座りなさい。……よし、もう一幕だけ話してやろう。これが終わる頃には、鶴ちゃんも戻ってくるじゃろうて」




 みんなはホッと胸をなでおろし、決まり悪そうに椅子へと戻った。




「さて、前回はどこまで話したかのう? ――狼ちゃん」



 藍は、きょとんとして頭をかいた。


「どこまででしたっけ? 弱ったな、僕の脳みそまで温泉の湯が入っちゃったみたいです」



 隣から伊貴が小さな声で助け舟を出した。


「人魚の王女様が、師匠や師兄のことを本当の家族のように思っていた、というところです」



 藍はハッとして頷いた。


「そうです! 王女が、二人を家族のように慕っていたというところまで話されました」




 ―――




 仙尊は「そうじゃ、そうじゃった」と思い出した。


「ボロじじいはな、それを聞いて『素晴らしい結末じゃ』と安心したんじゃよ。ブサメンの和尚も、王女が四不像に特別な感情を持っていないと分かれば、あとは一途に修行に励むだけじゃ。そうすれば心魔だって自然と消えてなくなるはずじゃった」



「だがな、修行というのは西遊記の旅のようなもの。幾多の苦難を乗り越え、あらゆる妖怪変化に立ち向かってこそ、初めて真実の教えに辿り着ける。これもおそらく、天が与えた試練だったのじゃろうな」




 仙尊は温かいお茶を一口すすると、波有の方をちらりと見た。


 ただの昔話をしているのではなく、自分に向かって何かを伝えようとしている――彼女にはそれが痛いほど分かっていた。




 波有はなるべく仙尊と目を合わせないようにして、うつろな瞳でコップの茶水を見つめ、必死に別のことを考えようとした。


(……オレンジ色の小さな花が、まるでお茶の中に咲いているみたい。琥珀色のスープに映えて、なんて綺麗なんだろう)



 その時、横から不意に手が伸びてきて、冷や汗でびっしょりになった彼女の手をぎゅっと握りしめた。


 小亀だった。


 波有は思わず手を引き抜こうとしたけれど、小亀は彼女の手首を強い力で掴んだまま、絶対に離そうとしなかった。




 そんな二人の様子には構わず、仙尊の物語は進んでいく。


「それから数百年が経ち、ボロじじいはずっと雪山で修行をしておったから、和尚の噂は全く耳に入ってこなかった」


「心魔が静まり、きっと修行に打ち込んでいるのだろうと思っておったが、あまりにも音沙汰がないので心配になってな」


「狼ちゃんと鶴ちゃんを連れて、久しぶりに解脱院を訪ねてみたのじゃ。……するとそこには、見る影もなくガリガリの骨と皮だけになった、かつての親友の姿があった」



「それでも和尚の血色は悪くなく、ワシの顔を見るなりこう言ったんじゃ。『いやあ、ちょうど良いところへ来てくれた。これから修行のお籠もりに入るので、しばらくは会えなくなる』とな」


「二人の弟子の姿がなかったものだから、ボロじじいはてっきり、彼たちがめでたく夫婦になって去ったのだと思ったんじゃな」



「ボロじじいが『お前もようやく執着を捨てられたようだな』とからかうと、和尚は『ああ、捨て去ることができた』と静かに笑った」


「そして、自分の足元にいた、一匹のひどく不細工な亀を指さし、それまでに起きた恐ろしい出来事を語り始めたのじゃ」




 ―――




 仙尊は言葉を切り、テーブルをコンコンと叩いた。



 藍が慌ててお茶を差し出す。



 彼は一口すすると、再び語り始めた。



「もともと和尚は、占術の力をさらに高めるため、南方で珍しい『錯甲亀(さっこうき)』を見つけて連れ帰っておった。背中の甲羅が六片しかない草亀で、いつか占いの道具(甲羅)にするために庭で飼っておったのじゃ」




 仙尊はふと目を上げ、小亀の方をじろりと見た。


 その瞳には、どこか物悲しく切ない色が浮かんでいる。



「だが、毎日一緒に経文を聞いて修行していくうちに、弟子たちと草亀の間に情が芽生えてしまった。特に王女は、亀の運命を知って深く同情し、ことあるごとに『亀を逃がしてあげてください』と師匠に願い出た。」


「和尚は前回の心の病が完全に治りきっていなかったため、王女が亀を気にかける姿を見て、再び恐ろしい心魔を呼び覚ましてしまったのじゃ」



「今度の心魔は、前回とは比べものにならないほど凶悪で激しかった。あっという間に和尚の肉体を乗っ取ってしまったのじゃよ。心魔は、王女の存在こそが、羅漢になるのを邪魔する元凶だと激しく憎んだ。そして密かに人魚たちの島へ忍び込み、長老を脅して、一族に伝わる秘術の禁忌を聞き出したのじゃ」


「その後、心魔は王女を騙した。『お前が人魚の涙を流すなら、亀を解放してやろう』とな。一番弟子の四不像は王女を守ろうとしたが、心魔の圧倒的な力によって南海の深淵へと叩き落とされ、永遠の眠りにつく禁錮の呪いをかけられてしまった」



 それを聞いた伊蘭たちは、ハッとして波有に視線を向けた。


(そうか……海底に封印されていた四不像、そんな理由で沈められていたんだ……!)



「哀れな王女は、そうすれば亀を救えると思い込み、悲しみの歌を歌って、人魚の涙を流した。もともと人魚という生き物は、楽しい歌しか歌わず、命が尽きる時でなければ涙を流さない」


「王女は一曲を歌い終え、真珠のような涙を一連残して、そのまま儚く息を引き取ってしまったのじゃ」


「……愛弟子の凄惨な末路を目の当たりにした和尚は、まるで頭を殴られたかのように、突如として深い悟りを開いた。世事の無常を悟り、生と死を超越し、ついに本物の真理へと到達して、正真正銘の羅漢へと成道(じょうどう)したのじゃ」




 仙尊はそこまで話すと、何度も大きなため息をついた。


「ワシの親友は、ついに羅漢の金身という最高の境地に至った。……しかし同時に、心から愛した二人の弟子を、永遠に失ってしまったのじゃよ」




 語り手の切ない嘆きが部屋に響く中、それを聞いていた若者たちは、すでにボロボロと涙を流していた。


 小亀はわんわんと大泣きしながら叫んだ。


「師姉が……師姉がかわいそうすぎるよぉっ!」




 ―――




 いつもなら真っ先に涙を流すはずの波有だったけれど、なぜか今は、驚くほど静かで頑なだった。



 彼女は相変わらず、呆然と手元の木製のコップを見つめたまま、凍りついたような声で仙尊に問いかけた。


「……大師匠様。お聞きしたいのですが、その心魔は、どうして今は四不像の体の中にいるのですか?」




 仙尊は深くため息をついた。


「お前の師匠である光如意は、確かに羅漢の身となった。しかし、彼は心魔を自分の体から追い出すことはできても、完全に消滅させることはできなかったんじゃ。そこで、すでに深淵で眠りについていた四不像の体の中に心魔を封じ込め、二度と目覚めぬよう強い禁錮の呪いをかけたのじゃよ」




 波有は、魂が抜けたように呟いた。


「……そんな。じゃあ、千年の時を経て、私が四不像を呼び覚ましてしまったから……だから、心魔も一緒に復活してしまったのね」



 仙尊はまたしても深くため息をついた。


「まさに宿業(しゅくごう)じゃな。これも、お前が修行の道中で乗り越えねばならん試練の壁なのかもしれん」




 波有は表情を無くしたまま、うなだれていた。


 小さく、ハッキリとした声で言った。


「だから……どうしても都へ行かなきゃいけない。かつて私のせいで、師匠は心魔に落ちた、師兄は深淵に沈められた」


「今また、私のせいで心魔が蘇り、伯父たちが囚われてしまった……」




 そこまで言うと、彼女は言葉を詰まらせた。顔からは完全に血の気が引き、うつろな瞳のまま、ゆっくりと顔を上げた。


 小亀は彼女が立ち上がろうとしたのだと思い、慌てて支えようと手を伸ばした。


 しかし次の瞬間、波有は両目をふっと閉じ、そのまま彼の胸の中へと倒れ込み、ぴくりとも動かなくなってしまった。



「師姉!!!」


「波有!?」


 部屋中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、小亀は必死になって彼女の名前を叫んだ。



 仙尊は何度もため息を漏らしながら、静かに一同をなだめた。


「心配するでない。一時的に、心も体も疲れ果ててしまっただけじゃ。部屋に連れていって、休ませてやりなさい。しばらくすれば、自然と目を覚ますじゃろうて」


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