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波有伝説~海をゆく虹色の鱗【前編:人魚涙のブレスレット】  作者: 唯紅蓮真美(いちべにまみ)
第二章 雪嶺の逃避行

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第56話 月と温泉と少年




 もともとあった部屋は三つだけで、どれも狭くて古びていたため、これだけ大勢の人数はとても泊まりきれなかった。



 そこで藍が法術を使い、庭の豚小屋と鶏小屋の間に、大きな部屋を二つもパパッと建ててくれたのだ。


 中は綺麗で居心地も良かったけれど、いかんせん周りが賑やかすぎた。




 隣からは雲英と伊念のスースーという規則正しい寝息が聞こえてきて、二人はすっかり熟睡している。


 けれど、すぐ近くの豚小屋から聞こえてくる「ブーブー」という鳴き声がうるさくて、波有はどうしても眠れなかった。



 上着を着てそっと扉を開け、温泉の池のほとりにある岩まで歩いていく。


 靴と靴下を脱いで、足を湯に浸した。




 夜空には丸い月がぽっかりと浮かび、あたりを明るく照らしている。


 池の周りの緑の木々や奇妙な形の岩が月光に映え、目の前の美しい景色と足元の心地よさに、波有は深くため息をついた。


 胸が締め付けられるような激動の一日だったけれど、ようやくホッと一息つくことができた。




 波有はぼんやりとした目で、静かに考え込んでいた。


(もし二師兄の伊貴だったら、きっと私を誰もいない場所に呼んで、もっと優しい言葉で教えてくれただろうな。大師匠様みたいに、全員の前であんな風に堂々と話したりしないで……)



 でも、星盤仙尊はどう見ても大雑把な性格だ。


 いくらなんでも、あのおじいちゃんに二師兄のような細やかで優しい気配りを求めるのは間違っている。


 人にはそれぞれ性格があるのだから、無理に押し付けるわけにはいかない。




 そう思うと、また自然とため息がこぼれた。



 その時、斜面の上にある部屋の方から、ギィ、と扉の開く音が聞こえた。


 続いて、おぼろげな人影がこちに向かって歩いてくる。


 小亀だった。




 彼はすぐ隣の岩に、ちょこんと腰を下ろした。



 「あんたも足を入れなよ。すっごく気持ちいいから」


 波有は少し横にずらして、小亀のために場所を空けてあげた。



 「ううん、師姉が浸かってて」



 小亀は夜空の満月を見上げた。


 「僕、師姉に初めて会った日のことを思い出してたんだ。あの時も今みたいに、すぐそばに温泉があって、空には月が出てたよね。」


 「あの日、もし師姉が助けてくれなかったら、僕は今頃ただの髪飾りにされて、狐妖の頭に刺さってた。毎日、嫌な匂いに耐え続ける羽目になってたんだ」



 波有も前のことを思い出し、懐かしさに目を細めた。


 「そういえば、あの日の夜も眠れなかったっけ。あんたっていう、とんでもないお宝を拾っちゃったから、嬉しくて目が冴えちゃったんだよね」


 クスッと悪戯っぽく笑ったものの、すぐに眉がキュッと曇った。

 

 「……でも、今夜眠れないのは、あの時とは全然違うの」




 小亀は波有をじっと見つめた。


 「元気ないね。大師匠様が話した、あの昔話のせい?」



 波有は隠すつもりもなかったので、小さく頷いた。


 

 彼は言葉を続ける。


 「恥ずかしかったの? 自分の前世の話を、みんなに聞かれちゃったから?」




 波有は首を振った。


 「恥ずかしいわけでも、怒っているわけでもないような気がするんだよね」


 「ただ、なんだかすごくモヤモヤして、ちっとも嬉しくないの」


 「どうしてか自分でもよく分からない。……少しは恥ずかしいし、少しは怒ってるのかもしれない。大師匠様が悪気があってやったわけじゃないことも、私をバカにしようとしたわけじゃないことも分かってる。分かってるんだけど……どうしても悲しくなっちゃうんだ」



 話しているうちに、白玉のように白い頬を、ぽろぽろと涙が伝い落ちた。



 一日の緊張や抑えていた気持ちが一気に溢れ出したかのように、涙はどんどん勢いを増し、雨の雫のようにトトトッと温泉の湯面を叩く。




 彼女はうつむいて両手で顔を覆ったけれど、涙は一向に止まる気配がない。




 ―――




 小亀は隣で泣きじゃくる姿を見て、胸を締め付けられるように焦った。けれど、どう声をかけていいのか全く分からない。



 「師姉! 師姉!泣かないでよ! どうしたら泣き止んでくれる?」



 頭に血が上り、顔を真っ赤にした小亀は、波有の顔を覆っていた両手を力任せに引き剥がした。なりふり構わず、彼女を自分の胸の中へと強く抱きしめたのだ。




 波有の涙が、ピタッと止まった。あまりの衝撃に、頭の中が真っ白になる。


 (……えっ!?)



 いつも頼りない師弟が、まるで別人のようだった。もの凄い力で抱きしめられて、息が詰まりそうになる。




 波有はあわてて小亀の胸をぐっと押し返した。


 「いきなりどうしちゃったのよ!?」




 押し戻された瞬間、小亀の頭にパッと冷や水が浴びせられたようになり、急に正気に戻った。


 

 (……あ。僕、大師匠様の話に出てきた羅漢みたいに、心魔(しんま)が生まれちゃったのかな?)





 小亀が呆然と固まっているのを見て、波有は急に心配になってきた。


 

 まだ赤みが引かない彼の顔を覗き込み、おでこにそっと手を当てる。



 「顔が真っ赤だけど、熱でもあるの? のぼせちゃった? 部屋に戻って休んだ方がいいんじゃ……」





 (師姉が、僕のことをこんなに心配してくれてる……!)


 その瞬間、少年の胸にはちきれんばかりの幸福感が押し寄せた。



 (だったら、心魔が生まれたって別にいいや! 僕は、どうしても師姉のことが大好きなんだから)


 

 そう開き直ると、不思議と心がすっきりと落ち着いた。




 彼はいつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべた。


 

 「師姉、泣き止んだね? 良かった! さっきはびっくりさせちゃったけど、おかげで悲しいの、どこかへ行っちゃったでしょ?」




 波有は柳のような眉をハの字に寄せた。


 「もう、調子のいいこと言わないで! 体の具合が悪いなら、さっさと部屋に戻りなさいよ。どうしてわざわざ出てきたの? 早く戻って寝る!」



 「もうすっかり平気だよ。嘘だと思うなら、ほら、もう一回触ってみて」


 小亀はそう言うと、彼女の手をきゅっと掴み、自分の頬へと引き寄せた。


 


 柔らかな月光の下、少年の瑞々しさを残した整った顔立ちが間近に迫る。


 彼はそのまま波有の手のひらにすり寄るように顔を預け、純真で愛らしい笑みを浮かべた。



 朝露のように澄み切った瞳とまっすぐ視線が合ってしまい、波有はドキンと胸が高鳴るのを感じた。心臓のバクバクが止まらなくなり、慌てて目をそらす。



 パッと手を引き剥がすと、照れ隠しに小亀のおでこをペシッと軽く叩いた。


 「……うん、確かに熱くないね。あんたの体、一体どうなってるのよ。さっきまであんなに熱かったのに、急に冷たくなるなんて。そういえば伊念師姉が『蛇族は冷血動物だからね』って言ってたっけ。もしかして、こういうこと?」


 最後は意地悪そうにプッと吹き出した。




 小亀は波有のからかいなんて全く気にしていなかった。


 それよりも、明日の昔話で大師匠がまた何を言い出すかが心配だった。


 けれど、彼女がこれ以上傷つくような話は、何が何でも阻止しなければならない。




 「師姉、夜も更けてきたし、そろそろ部屋に戻ろう。風邪をひいたら大変だからね」



 しばらく温泉に足を浸していたし、さっき大泣きして胸のモヤモヤを吐き出したせいか、言われてみれば急にドッと眠気が襲ってきた。



 波有は「そうだね」と頷き、靴と靴下を履いて、小亀と一緒に部屋へと戻っていった。


 

 布団に潜り込むとすぐに意識が遠のき、一晩中、夢も見ずにぐっすりと眠ることができた。




 ―――




 翌朝、目が覚めた面々は、昨日と同じように「ご飯を食べたら、また大師匠の昔話の時間が始まるんだろうな」と身構えていた。



 通天山には、南方の主食であるお米がなかった。


 鶏小屋から少し離れた場所には、広大な家庭菜園が広がっている。




 波有たちが藍の手伝いをしようと畑へ向かうと、そこには白菜、大根、玉ねぎ、長ネギ、ジャガイモ、キャベツが植えられていた。


 緑に溢れていて一見とても豊かだけれど、あちこちに乱雑に、適当に植え散らかされており、お世辞にも綺麗とは言えない状態だった。



 お米の代わりに用意されたのは、ジャガイモの粉で作った自家製の麺だった。


 香ばしく焼かれた目玉焼きと、刻んだ青ネギが綺麗に添えられている。


 その一杯は、まるで都の高級料亭の料理人が作ったのではないかと思うほど絶品だった。



 藍が長年培ってきた料理の腕前は、伊達ではない。




 誰もが夢中で箸を動かし、大満足で平らげていく。


 伊蘭と伊貴にいたっては、あまりの美味しさに三、四杯もおかわりをして、ようやく箸を置いたほどだ。




 伊念が不思議そうに尋ねた。


 「藍神使は、うちの師兄たちより背が高くてがっしりしているのに、どうして一皿だけでお腹がいっぱいになっちゃうんですか?」



 白狼の化身である神使は、穏やかに微笑んだ。


 「僕たち修行者は、あまり食い道楽には興味がないんだよ。今回は君たちのような若いお客さんが来てくれたからね。普段、僕と師匠の食事は、もっとずーっとシンプルなんだ」

 



 伊貴が、すかさず伊念に向かって「シーッ」と人差し指を立ててみせた。彼女もすぐに察し、それ以上は何も言わなかった。


 全員が静かに行儀よく座り、仙尊からいつものあのセリフが飛び出すのをじっと待った。


 (「お前たち、昔話の続きを聞きたいか?」って、そろそろ言うよね……?)



 ところが。仙尊はご飯を食べ終えると、よっこらしょと腰を浮かせ、ボロボロの竹の扇子をパタパタと仰ぎながら、のそのそと内股の八字歩きで奥の部屋へ戻っていってしまったのだ。




 残された若者たちのガッカリした顔を見て、藍は食器を片付けながらクスリと笑った。


 「師匠には昼寝の習慣があるんだよ。目が覚めたら、みんなが続きを楽しみに待ってますよ、って僕から声をかけておくからね」


 

 ……昼寝の習慣、だと?




 仙気の漂う、道法の極みに達した伝説の仙人じゃなかったの!?


 これではまるで、城下町の路地裏にでも住んでいる、毎日ただ美味いものを食べて呑んで、のんきに暮らしている近所のご隠居そのものではないか。

最後までお読みいただきありがとうございます!


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