第54話 ブサメンとボロじじいの物語
仙尊は手招きして和白を呼んだ。
「鶴ちゃんよ、この者たちを海辺まで送ってやりなさい。もし疲れておらぬと言うなら、そのまま人魚島まで送り届けてやってもよいぞ。まあ、あそこはかなり遠いそうじゃがな」
和白はにっこりと微笑んだ。
「師匠は本当に人情に厚い御方ですね。そこまで気が回るなんて素晴らしいです。もちろん、人魚島までちゃんとお送りしますよ。せっかく人助けをするなら、最後までやり遂げないと」
最後までやり遂げる、か。実に良い響きだ。
「おお、鶴ちゃんよ! お前は本当に良い子じゃな。ではな、良い子ついでに、帰りに狼族の集落の近くを通るじゃろう?」
仙尊は懐から空っぽの革のボトルを取り出すと、和白に向かってフリフリと振ってみせた。
和白はその意図を察して、にやりと笑った。
「お任せください、師匠。ちょっと行って、すぐに戻って参ります」
言うが早いか、彼はとてつもなく巨大な白鶴へと姿を変えた。戦勇たち一家をその背中に乗せると、大きく羽ばたき、あっという間に大空の彼方へと消え去ってしまった。
波有は、ずっと一緒に旅をしてきた戦家の人たちとの別れに、少し寂しさを感じていた。
それに、人魚のことについてもっと詳しく聞いておきたかったとも思っていた。
戦家の人たちも、王女様との別れが本当に名残惜しそうだった。
別れ際、戦勇は彼女に向かって、「もし俺たちの力が必要になったときは、いつでも海音鈴で呼んでください」と言い残していった。
和白が飛び去るのを見送ると、仙尊は残された人を振り返って言った。
「ワシも疲れた、お前たちも疲れた。みんなが疲れておる。……なら、どうするべきかのう?」
隣にいた藍に顎をツンと向けた。
「どう思う、狼ちゃんよ?」
普段から三人きりの時に呼ばれ慣れている名前なら、どうということはない。けれど、今はこんなに大勢の若者たちの前なのだ。
(師匠……! 頼むから、俺のメンツってやつを少しは考えてくれよ!)
白狼の化身である藍は、耳まで真っ赤にしながら尋ねた。
「……師匠、僕に聞いてるんですか? ええと、そうですね。みんな疲れていることですし、お話はまた明日にして」
藍は、あからさまにガッカリした顔をしているみんなから、気まずそうに目をそらした。
「波有王女、さっき温泉を見て喜んでおられたな? みんなで温泉に入ってくるとよい! 僕はその間に特製の鶏鍋でも煮込んでおいてやる。お腹いっぱい食べて、まずはゆっくり休みましょう」
―――
ここの温泉は広々としていて素晴らしいけれど、困ったことに湯船が一つしかなかった。
通天山にはいつも男三人しか住んでいないのだから当然だ。けれど、今は若い女の子たちが何人も来ている。これでは一緒に入るわけにはいかない。
しかし、そこはさすが仙尊というべきか。
「そんなの簡単じゃ」と手を一振りした。
すると、温泉の真ん中に真っ白な結界の壁が立ち上がったのだ。
一瞬にして完璧な男湯と女湯に仕切られてしまった。
全員がそれぞれ湯船に浸かり、ふぅーっと極楽気分で体を伸ばしていた、その時だった。
温泉の湯気の向こうから、仙尊のだみ声がゆっくりと響いてきた。
「お前たち、昔話でも聞きたいか?」
突然の提案に、男湯も女湯も、みんなお互いに顔を見合わせた。しばらくの沈黙の後、後四がぽつりと言った。
「……聞きたいです!」
男湯の方では、仙尊が湯船の縁の岩に頭を預け、目を閉じてとても気持ち良さそうにしながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「むかしむかし、ある山に、お寺があった。そこには一人の坊主が住んでおった」
「いや、正確に言うと、お寺ではなく解脱院(という名の庵じゃった。そこに住んでいたのも普通の坊主ではなく、一心不乱に仏に仕え、いつか本物の羅漢になろうと修行に励む、一人の『ブサメン』じゃった」
仙尊のどこかおどけた語り口とは裏腹に、誰も声をあげて笑う者は落とさなかった。
これが、光如意羅漢の物語だと分かったからだ。
仙尊はみんなの沈黙を気にすることなく、そのまま話を続けた。
「ブサメンの和尚には、一人のボロじじいの友達がおった。ある日、ボロじじいのもとに、和尚から手紙が届いたのじゃ。『世にも美しい人魚の王女を弟子に迎えたから、お祝いに来い』とな」
「綺麗な娘が見られるというのでな、ボロじじいは弟子の鶴ちゃんと狼ちゃんを連れて、若者たちにも世間を見せてやろうと出かけていった。」
「ところが、現地に着いて見てみたら、おやおや! こいつは驚いた! その女弟子がまぁ、目も眩むほど美しかったのじゃ。ボロじじいは、国を傾けるほどの美人というのは、こういうのを言うんじゃなと知った。長居をすればそこから離れられなくなると思い、それに若い弟子もおった。だから用が済むと、大急ぎで自分の山へと帰っていったのじゃ」
「その時、ボロじじいは密かに心配しておった。和尚がこんなに美しい女弟子を囲っていて、修行の妨げにならないわけがない、とな。そして案の定、しばらく経った頃、和尚がボロじじいのもとへ泣きついてきた。『心魔』が生まれてしまった、とな」
「――つまり、自分の心の弱さが生み出した、もう一つの邪悪な人格の」
「理由はこうじゃ。和尚の乗り物は『四不像』という獣じゃったが、その化身である少年は、若く、英俊で、王女と年齢も近かった。時間が経つにつれて、二人は兄妹のように親しくなっていったのじゃ。」
「和尚はそれをずっと間近で見ておった。見てはならん、考えてはならんと思い詰めれば詰め込むほど、心は乱れていった。見まいとするほどに嫉妬が膨らみ、妄想が頭を駆け巡る。その執着が、最終的に和尚の禅の心を狂わせ、修行の進歩を完全に止めてしまったのじゃ」
あたりは、水を打ったように静まり返った。
ぽかぽかと温かいはずの温泉の中に、まるで氷水を一バケツ流し込まれたかのような錯覚を覚える。
みんな、物語の衝撃に頭皮がピリピリとしびれ、全身の毛穴が逆立つような恐怖を感じていた。
「そして、ついに心魔が姿を現した。要するに、心の闇が生み出したもう一人のドス黒い自分じゃな。そいつが和尚を激しく責め立てたのじゃ。修行の身でありながらまだ俗世の欲望に囚われ、外見の華やかさに惑わされているから、真の悟りにたどり着けないのだ、とな」
「考えてもみよ。一つの体に二つの魂が同居し、毎日激しく殺し合っているのじゃ。水と油のようにな。一方は、慈悲深く善良でありながらも、どうしても王女のことが忘れられない本物の和尚。もう一方は、冷酷無慈悲で、何が何でも彼女をこの世から抹殺しようと企む心魔。どちらも、紛れもない本物なのじゃ」
―――
ここまで話を聴いたみんなは、あまりの衝撃に自分の耳を疑った。
波有は光如意の弟子だった。
それだけでなく、伯父たちの「師姉」だったのだ。
何より、ご師祖さまである光如意羅漢が、かつて自分の弟子に「届かぬ恋」をしていたなんて。
女湯の方では、雲英と伊念が、まるで得体の知れない怪物を見るかのような目で波有をじっと見つめていた。
少し前までは、小さくて痩せっぽちの冴えない女の子だと思っていたのに、まさかそんな、とんでもない過去を持っていたなんて。
波有は慌てて両手を振った。
「雲英姉さん、そんな目で見ないで! 私、そんなこと全然覚えてないの! 前世の記憶なんて、本当に何もないんだから!」
男湯の方では、あまりに重くなった空気を和らげようと、藍が無理に笑い声を作って尋ねた。
「……師匠、それで、続きはどうなったんですか? みんな、その後が気になって仕方がないんですよ」
すると仙尊は、けだるそうな声で聞き返してきた。
「まだ続きが聞きたいんか?」
一同は声を揃えて答えた。
「聞きたいです!」
けれど、仙尊はあっさりと告げた。
「……お前たちの大師匠は、もう湯に浸かりすぎてのぼせてしまったわい! それに腹も空いた!」
何か言う暇も与えず、仙尊は湯船からザパーッと立ち上がると、ボロボロの上着を引っ掛け、破れた竹の扇子をパタパタと仰ぎながら、のそのそとお屋敷の方へ戻っていってしまった。




