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波有伝説~海をゆく虹色の鱗【前編:人魚涙のブレスレット】  作者: 唯紅蓮真美(いちべにまみ)
第二章 雪嶺の逃避行

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第53話 星盤仙尊



 白鶴と雪狼は彼らを背に乗せると、凄まじいスピードで通天山(つうてんざん)を駆け上がっていった。


 

 上へ進むにつれて風雪は激しさを増し、骨まで凍りつくような寒風がゴオゴオと吹き荒れる。


 あたり一面が真っ白に染まり、前方がまったく見えない。



 ところが、山頂にたどり着いた瞬間、ピタッと風が止み、雪が止んだ。


 目の前には、しんと静まり返った美しい銀世界が広がっている。



 「ふぅ、やっと着いたんだね」


 みんながホッと胸をとなでおろしたのも束の間。


 二人の神使は山頂を通り過ぎると、今度は反対側の斜面をぐんぐんと下り始めたのだ。




 その瞬間、一同は目の前に広がった景色に、思わず言葉を失った。


 

 山の裏側には、まばゆい太陽の光が降り注いでいた。


 雄大で美しい雪山が、青く澄み渡った大空を突き破るかのように、堂々とそびえ立っている。




 白鶴と雪狼は、山の中腹にある開けた崖の上に降り立ち、みんなを背中から下ろした。


 和白が先頭を歩き、藍が最後尾から見守るようにして、一行を長くて狭い石の洞窟へと案内する。



 しばらく進むと、和白がピタッと足を止めた。


 彼は振り返り、全員に厳しく告げた。


 「着いたぞ。仙尊様の前だ、決して失礼のないようにな」



 伊蘭たちは緊張した面持ちでコクコクと頷いたけれど、小亀は心の中でこっそり呟いた。


 (今の、絶対僕に向かって言ったよね……)




 石の洞窟を抜けると、目の前が一気に開けた。



 驚いたことに、そこには隠れ里のような桃源郷が広がっていた。


 桃の花こそ咲いていないけれど、青々と茂る草地が広がり、瑞々しい木々が立ち並んでいる。


 辺りにはうっすらと神秘的な霧が立ち込め、緑豊かな大自然の真ん中に、ポコポコと湯気を立てて沸き返る美しい池がいくつも嵌め込まれていた。




 「すごーい! 温泉だよ!」


 雲英たち三人の女の子は、ここへ来た本来の目的も忘れて、嬉しそうにぴょんぴょん跳ね回った。




 和白がにんまりと笑って言う。


 「あたりは氷天雪地だけどね、師匠(星盤仙尊)の話だと、山の下には火山があるらしい。だから温泉が湧き出ていても不思議じゃないのさ」



 池の周りに並ぶ緑の木々や奇妙な形の岩の間からは、時折ぷくぷくと気泡が湧き上がっており、硫黄の香りが混ざった白い湯気が優しく辺りを包み込んでいる。




 波有は、雲英と伊念に楽しそうに話しかけた。


 「前に温泉の街に行ったときは夜にしか入らなかったけれど、昼間に見る温泉の景色って、こんなに綺麗なんだね」



 藍が少し焦らせるように促した。


 「ほらほら、師匠をあまりお待たせするんじゃないよ」




 向かいの斜面を見上げると、そこにはお世辞にも立派とは言えない、ずいぶん古びた木造の小さなお屋敷がぽつんと建っていた。


 屋根の上には青々とした草がぼうぼうに生い茂っており、建物の周りは、竹を編んだ簡素な垣根でぐるりと囲まれている。



 中からは「ブーブー」という豚の鳴き声や、「コッコッ、コケッコー」という鶏の鳴き声が聞こえてくる。



 こんなに美しい絶景の中に、まさかの豚小屋と鶏小屋である。




 藍がヘラヘラと笑いながら教えてくれた。


 「ははは、これぞセンスってやつさ! 師匠いわく、天の道理において最も重要なのは『バランス』なんだそうだ。」


 「この厳しい雪山の中に、緑豊かで美しい風水最高の宝地をいただいたのだから、徹底的に地味に、目立たないように暮らさなきゃ、天のバランスが崩れちまうんだってさ」




 全員分かったような分からないような顔をしながらも、とりあえずフムフムと頷いた。


 一体どんな仙人がこんな奇妙な暮らしをしているのだろうと、みんなの胸は好奇心でいっぱいになった。




 ―――




 小さなお屋敷の中へ入ると、正面に置かれた竹の椅子に、一人の「ボロじじい」が半ば寝そべるようにして座っていた。




 波有の語彙力では、目の前の仙人を表現するのにこれ以上ぴったりな言葉は見つからなかった。



 髪の毛は寝癖のようにボサボサで、顎には老木の手入れされていない根っこのように、十五センチはあろうかという長い髭がむさ苦しく伸び放題になっている。


 身にまとっているのは、いつ洗濯したのかも分からないような、灰色にくすんだヨレヨレの古い上着だ。


 手にはボロボロの竹の扇子が握られており、パタパタとだらしなく仰いでいる。



 世外の高人なんて雰囲気は微塵もなく、自分たちの師父である伊高屋のあの締まりのない姿の方が、まだ何倍もマシに見えるほどだった。




 「お前たち、ワシをどれだけ待たせる気じゃ! 本当に出来損ないの弟子どもめ!」


 

 仙尊はいきなり口を開くなり、大声で怒鳴りつけてきた。


 けれど、どこか温かみのある怒鳴り声を聴いた瞬間、波有たちは伊高屋の姿を思い出してしまった。


 (師父……! 会いたいです……!)




 和白が嬉しそうに足早に駆け寄った。


 「師匠! 本当に申し訳ありません! 実は昨日、麓の丸子人の集落がどうしても王女様たちの歓迎会をやるってきかなくて。王女様も旅の疲れが溜まっていたところに、強いお酒をたくさん飲まされてしまったものですから、みんな動けなくなっちゃったんですよ」




 それを後ろで聴いていた波有たちは、頭の中に衝撃が走った。


 (この神使、爽やかな顔をして、よくもまあ抜け抜けと大嘘をつきやがったな! 一番たくさん飲んで、泥酔して潰れていたのはあなたでしょう!)



 白鶴の化身である和白は、後ろからの冷ややかな視線などどこ吹く風で、さらに言葉を続けた。


「ですが師匠、ご覧ください。宴会騒ぎの『犯人』から、お詫びの品をしっかりぶんどって参りました。お好きなように処分してください」



 みんなは何のことを言っているのかさっぱり分からず、首を傾げた。


 犯人って誰のことだ?



 すると、和白は懐からお酒がたっぷり入った革のボトルを取り出し、恭しく両手で仙尊に差し出したのだ。


 


 蓋を開けて美酒の香りを嗅いだ瞬間、仙尊は不機嫌そうな顔を一変させ、目尻を下げて満面の笑みを浮かべた。


 「おおっ! 良いではないか、良いではないか! 鶴ちゃんよ、よくやった! 毎日毎日、白粥と薄味の野菜ばかりで、口から鳥が飛び出しそうなほど退屈しておったのじゃ。麓の狼族が造るこの強い酒、もう何年も呑んでおらんかったからなぁ!」



 あまりにも俗っぽいスタートに、世間知らずな一同はすっかり呆気にとられてしまった。




 伊貴が隣にいた藍の耳元で、そっと囁いた。


 「神使様、本当にこの御方が、高名な星盤仙尊なんですか?」


 

 「偽物なわけないだろ」


 

 雪狼の神使の一言に、みんなの期待は完全に打ち砕かれた。




 ―――




 彼らの想像の中では、星盤仙尊といえば光如意羅漢と肩を並べる、この世で最高峰の修行を積んだ大能(たいのう)の御方だった。


 仙気の漂う神々しい姿とまではいかなくても、せめて見る者を圧倒するような威厳を放ち、鋭い眼差しをした厳格な大魔導師のような姿を想像していたのだ。




 後四が眉をひそめて、小さく呟いた。


 「僕が子供の頃のうっすらとした記憶だと、星盤仙尊って、昔はもっと普通のおじいさんだった気がするんだけどなぁ。本当にどこにでもいるような、普通のおじいさん」



 伊貴が不思議そうに尋ねる。


 「何か大きな事件でもあって、仙尊様はこんな風に変わってしまわれたのかな?」



 藍は首を振った。


 「いや、そうじゃない。師匠の変化については、俺と師兄も不思議に思ったことがある。だけど考えてみれば、これは師匠の道法と修行のレベルがさらに果てしない領域に達して、自分の心の赴くままに生きる『無為自然(むいしぜん)』の境地に辿り着いた証拠なんだろうな」




 なるほど、それがあらゆる修行の「最高到達点」というわけだ。



 伊藍たちは思わずクスッと笑ってしまった。


 でも、自分はあくまで若輩者だ。目上の御方に対して不敬な気持ちを抱いてはならないと、みんな大人しく「なるほど、素晴らしいですね」とペコペコ頭を下げた。




 仙尊は革のボトルを抱え込むと、一気に半分以上もグビグビと飲み干し、「くぅーっ、これこれ! たまらんわい!」と声をあげた。


 よっこらしょと立ち上がって彼らの前へと歩み寄る。



 一同はすぐさま場に跪き、声を揃えて礼をした。


 「星盤仙尊様にお目見えいたします」




 仙尊はガハハと笑った。


 「お前たちのような若い世代なら、ワシのことは『大師匠』と呼べばよい。仙尊、仙尊などと大層に呼ばれるが、ワシは神仙でも何でもない、ただのボロじじいじゃからな」




 みんなもう一度深く礼をした。


 「はい、大師匠様」




 波有は心臓がバクバクした。


 (大変、私さっき心の中で『ボロじじい』って思っちゃった! もしかして、このおじいさん、私の心の中の声が聞こえてるんじゃ……!)



 仙尊がボロボロの竹の扇子で自分をヒョイと指したのを見て、波有はますます焦った。


 「王女は、彼らよりも一世代上の立場じゃ。ワシのことは『伯父』と呼びなさい」



 すると、藍が横から口を挟んだ。


 「師匠、まだご報告できていなかったのですが、王女様は前世の記憶を取り戻していらっしゃらないのです」




 仙尊は「ほう」と声を漏らした。


 「それなら、この者たちと同じようにワシを大師匠と呼ぶが良い。そもそも、立場や世代の話というのは本当にややこしくて敵わん。」


 「お互い直接名前で呼び合って、お前だのワシだのと言い合えた方が、よっぽど分かりやすくて便利じゃというのにのう!」



 彼はそう言って周りを見渡したけれど、辺りはしんと静まり返ったまま、誰もその恐れ多い提案に相槌を打てる者はいなかった。




 ―――




 すると、仙尊は本題を切り出した。


 「お前たちがここへ来た目的は、すべて分かっておる。――だが、ワシはお前たちを助けてやらんぞ」




 その一言に、誰もが息をのんだ。


 特に衝撃を受けたのは、一緒にやってきた戦家の一家だった。




 兄の戦勇は、焦って何度も地面に頭を打ち付けた。


 「仙尊様! 昔、私たちにこうおっしゃったではありませんか! もしも王女様の生まれ変わりを通天山までお送りしたならば、体にかけられた呪いを解いてくださると。あの時のお言葉を、どうかお忘れなきよう……!」




 星盤仙尊は、にこにこと楽しそうに笑った。


 「これこれ、そう焦るでない。今ちょうどその話をしようと思っておったのじゃ。そもそもな、あの呪いをかけたのはワシではないのじゃが、まあ、確かにそんな約束をしたし、ワシにはお前たちの呪いを解いてやる力もある。よし、お前たち、ちょっと前へ来い」




 仙尊はみんなの前にどっかと腰を下ろすと、手に持っていたボロボロの扇子を竹の椅子へと放り投げた。


 そして座禅を組み、両手で不思議な印を結ぶ。


 すると、手のひらから清らかな白い光がゆらゆらと立ち上り、仙尊が指先でピッと狙いを定めると、光の輪が戦勇たちの体へと吸い込まれていった。


 光がゆっくりと優しく霧のように散っていくと――次の瞬間、息をのむほど容姿端麗で美しい五人の人魚が、みんなの目の前に現れたのだ。




 戦勇たちは、お互いの姿を見つめ合い、飛び上がって大喜びした。


 ちびっこコンビの戦大と戦小も、大興奮で歓声をあげる。


 「お母ちゃん! 僕たち、こんなに格好良かったんだね! 波有姉ちゃんと同じくらい綺麗だよ!」




 仙尊はしみじみとため息をついた。


 「お前たちも、ようやく苦労が報われたな。だが、これだけは忘れるでないぞ。二度と、波有王女様に対して不敬な真似をしてはならん」



 勇と雄の兄弟、もう一度深く地面に頭を下げた。


 「仙尊様のお教え、深く胸に刻みます。人魚島へ戻りましたら、今回の教訓を決して忘れず、心を入れ替えて正しく生きてまいります」


最後までお読みいただきありがとうございます!


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