第48話 氷海の楽園
もちろん、師父たちのことはずっと心配だった。
けれど、驕盧に対抗するには星盤仙尊を連れてくるしかない。
今は焦っても仕方のない時期なのだ。
幸い、伯父たちが少なくともまだ生きていることだけは、小亀が気配で感じ取ってくれていた。
時間が長くなるにつれて、彼らの張り詰めていた心の糸も、少しずつほぐれていった。
海の上での日々は、とてもおだやかで、のんびりしたものだった。
師父がいないのをいいことに、雲英と伊蘭夫婦は以前よりも甘えちゃって、べったり寄り添っている。
普段はおとなしくて口数の少ない伊念だけど、なぜか後家の四男坊(後四)とはすっかり気が合うようだった。
二人は部屋の隅っこで、お互いに本を抱えながら何やらヒソヒソと楽しそうにお喋りをしている。
そして小亀はといえば、相変わらず一日中、波有の後ろを一生懸命について回っていた。
船の各階には、小さな窓が二つずつついていた。
人魚やカンナの花の模様が、まるで生きているかのように美しく彫られている。
前に南海の墨墨から聞いた話では、この二枚貝の船は山主が人魚島へ行った後に作ったものらしい。
波有と小亀は、一番上の階の小さな窓を開けて、海を眺めるのがお気に入りだった。
でも、外はあまりにも寒いから、二、三回チラッと景色を見ては、すぐに窓をパタンと閉めてしまう。
「水族」である小亀は、氷の上にいるペンギンたちの言葉がわかる。
波有はちょっと悔しかった。自分だって人魚だし、同じ水族なのに、どうしてペンギンの言葉がわからないんだろう。
ほかにも、頭が真っ白で背中がグレーの毛をしたカモメの群れが、よく頭上を飛び去っていった。
波有は「あの子たち、なんて言ってるの?」と小亀に尋ねた。
彼は優しく師姉に教えてあげるのだ。
「『変な船だなあ。いろんな海岸を飛んできたけれど、大きな貝殻でできた船なんて初めて見たぞ』って言ってるよ」
波有が一番好きなのは、真っ白な小さなクジラだった。
よく船の左右に姿を現しては、「きゅーきゅー」と鳴き声をあげる。
まるで「一緒に遊ぼうよ!」と誘ってくれているみたいだった。
ある時は、ものすごく大きな氷の板の上で、二匹の真っ白なキツネが、血のしたたるような大きな肉の塊を奪い合ってケンカしていた。
波有は、これを見て「胡の伯父さまがここにいたらよかったのに」と思った。
そうすれば、きっと同じキツネ族の仲間として「ケンカはやめなよ」って仲裁してくれたはずだから。
そんな六人の楽しそうな日常を、二師兄の伊貴は温かい目で見守り、心に刻んでいた。
最近の彼は、すっかり師父になったような気分で、思春期真っ盛りの師弟や師妹たちを年長者の目線で眺めている。
(あーあ、俺のあごにも立派な長いヒゲが生えていればいいのになぁ。みんなを見守りながら、自慢のヒゲをさっと撫でて、『うむ、みんな仲が良くて何よりだ』なんてセリフを言ってみたいもんだぜ)
彼は密かに心に誓った。
いつか年老いた時には、伝説の青龍偃月刀を持つ英雄と同じような、お腹まで届く立派な長ヒゲを絶対に蓄えてやろう、と。
―――
そんなある日、彼らはまた一階に集まり、伊貴から旅程についての報告を聞いていた。
「北海を出発してから、もう一ヶ月以上が経った。後師弟が教えてくれたルート通りに進んでいるから、今のところ大きなズレはないはずだぞ」
波有が尋ねる。
「ねえ、二師兄、私たちはいつ到着するの?」
小亀は、この先の道のりの方が気になるようだった。
「後師兄、そのなんとかっていう部族の名前、なんだかちょっと変な響きだね。部族ってことは、もしかしてすごく野蛮な人が住んでいるのかな?」
後四が答えた。
「丸子人の部族だよ」
「心配しなくて大丈夫。都の人たちに比べたら、確かに行儀作法はおおざっぱかもしれない。だけど、本当に芯が優しくて良い人ばかりなんだ。行けばすぐにわかるよ。」
「それに、彼らは通天山の星盤仙尊を信仰していて、仙尊が自分たちの部族を守ってくれていると本気で信じている。だから怖がらなくていいよ、きっと大歓迎してもらえるからさ」
「後師兄、もっと話を聞かせてよ!」
波有が声を弾ませた。
みんなの熱い視線を浴びて、後四は記憶をたどりながら話し始めた。
「もう、ずいぶん昔のことだけどね。僕がまだ小さかったから、あまりはっきりとは覚えていないんだ。」
「ある時、星盤仙尊が僕たちの解脱院に遊びに来てね、帰る時におじいちゃん(光如意羅漢)を一緒に通天山へ招待してくれたんだ。その頃、おじいちゃんはもう手足が思うように動かせなくなっていた。だから、光の伯父と母ちゃんが僕たち四人の兄弟を連れて通天山へ行くことになったんだよ」
波有が不思議そうに聞いた。
「胡の伯父はどうして行かなかったの?」
後四は頭をかいた。
「確か、その時彼はまだ一門に入っていなかったんだと思う」
それを聞いた伊貴たちは、お互いに顔を見合わせた。
(やっぱり、妖怪っていいなあ。そんなに長生きできるなんて……)
後四は話を続けた。
「往復の道中は、すべて光の伯父が術を使ってくれたんだ。本来の姿――ものすごく大きな亀に変身してね」
波有が口を挟んだ。
「伯父の元の姿なら、都で見たわ! 本当に、とんでもなく大きかった。都が丸ごと乗っかるんじゃないかっていうくらい大きかったよね!」
後四が頷く。
「あの頃はまだそこまで大きくなかったかもしれないけれど、それでも術のスピードはめちゃくちゃ速かったんだ。だから僕たちは、彼の背中に乗って空を飛んで往復したんだよ」
それを聞いた全員の視線が、一斉に小亀の顔に集まった。
彼は慌てて両手を振った。
「無理だよ! ちょっとの間ならまだしも、あんな長距離をみんなを乗せて飛ぶなんて、僕の力じゃ絶対に無理! そんな目で見つめないでよ。もし僕が主人(仮羅)くらいすごかったら、北海を渡る時にわざわざ驕盧の姿に化けて美姫を騙す必要なんてなかったでしょ!?」
伊貴が気合を入れるように言った。
「大丈夫さ! みんなの心が一つになっていれば、必ず通天山にたどり着ける。考えてみろよ、俺たちは秀麗山を逃げ出し、屏風山を越え、あの北海の美姫まで騙しきったんだ。ここまで来られたんだから、次だってやれるさ!」
こんなに賢くて、前向きに引っ張ってくれるリーダーがいるのは本当に心強い。
全員は親指を立てて、伊貴に盛大な「いいね!」を送った。
―――
伊貴は、後四が描いてくれたルートマップを手に、毎日船の甲板に上がっては進む方向を確認していた。
そしてある日。彼が楼閣から外へ出て少し経った頃、大声で呼ぶ声が響き渡った。
「みんな、早く出てきてくれ! 陸地が見えたぞ!」
一同は寒さにガタガタ震えながら、急いでドアを開けた。
目の前には相変わらず果てしない吹雪が広がっていたけれど、確かにその向こうに、うっすらと陸の影が見えていた。
遥か遠く、そびえ立つ雪山のてっぺんを、黄金色の朝の光が貫いている。
光は雪山の下にある黒い岩肌や、こんもりと雪をかぶった森を美しく照らし出していた。
目を凝らすと、真っ白な雪原の上に、小さな肉まんのような形をした大小さまざまなテントが並んでいるのが見えた。
いくつかのテントからは、ぽっぽと白い炊飯の煙が立ち上っている。
二枚貝の船はすでに、灰色に霞む海岸のすぐ近くまで迫っていた。
上陸さえしてしまえば、目の前にある小さな丘や凍りついた水域を通り抜けるだけで、丸子人の集落にたどり着ける。
(やっと、人がいる場所に帰ってこられたんだ……)
そこには、後四が言っていた優しくて温かい部族の人が待っている。
ぬくぬくと燃える焚き火の前に座って、体を温めながら、熱々のスープを飲む。
もしかしたら、温かいお風呂にだって入れるかもしれない。
想像するだけで胸が躍り、一刻も早く集落へ飛び込んでいきたくてたまらなくなった。
伊貴が指示を出す。
「お前たちは先に部屋へ戻って、荷物をまとめるんだ。この一ヶ月でコツコツ集めたアシカや白熊の毛皮も全部持っていけよ。集落の人たちと物々交換して、旅に必要な道具を手に入れられるかもしれないからな」
それから伊蘭に向き直った。
「大師兄、俺と二人で、どこか船をうまく停められる場所を探そう」
波有たちは大喜びで、集めた毛皮を一枚ずつ丸めていった。それぞれのリュックには、気づけば三、四枚もの毛皮がパンパンに詰め込まれている。
彼女は自分の荷物をしっかり背負い、次は「師兄たちの荷物も持ってあげよう」と手を伸ばした、その時だった。
――ズガガガガッ!!!
突然、船が激しく揺れ動いた。
船体全体から「ミシミシ、ギチギチ」ときしむ悲鳴のような音が上がったかと思うと、一気に船底が沈み込み、冷たい海水がもの凄い勢いで中へと流れ込んできたのだ。
「危ないっ!!!」
一番早く反応したのは小亀だった。彼は思いきり窓を蹴破った。
「早く! 早く! 師姉、こっちだ!」
彼たちは必死にお互いを押し、引っ張り合いながら、割れた窓から外へと飛び出した。
どうにか甲板の上に立ったものの、すでに海水はふくらはぎの辺りまで迫ってきている。
周囲を必死に見渡したけれど、先に外へ出ていたはずの伊蘭と伊貴の姿が、どこにも見当たらない。
「大師兄! どこにいるのーー!?」
雲英が声を上げて泣き叫んだ。
後四が叫ぶ。
「甲ちゃん、お前はまず師姉たちを背に乗せて上陸させてくれ! その後、僕ともう一度海に潜って、師兄たちを探しに行こう!」
「わかった!」
小亀はすぐに本来の亀の姿に変わると、女の子たちを大きな背中に乗せて、一気に海岸へと飛び移った。
波有と伊念も「一緒に海に潜る!」と言ってきかなかったけれど、後四がそれを止めた。
「雲英姉さんは法術が使えないから、誰かがそばにいてあげなきゃダメだ。伊念ちゃんはここに残ってくれ。それから、避水珠を僕に貸してほしい!」
かつて南海にいたとき、光の伯父がみんなに一つずつ『避水珠』をくれたのだ。
雲英がそれを、全員の服の襟の裏にしっかりと縫い付けておいてくれていた。
伊念は、雲英が裁縫用に使っていた小さなハサミを取り出すと、自分の服の襟をためらわずに切り開き、中の避水珠を取り出して後四の手へと握らせた。
みんなが岸に上がったほんのわずかな時間の間に、大きかった二枚貝の船は、みるみるうちに海の中へと沈んでいった。
波有の目には、持ち出す暇のなかった師兄のリュックが、他の道具と一緒に冷たい海面をぐるぐると渦巻きながら、ぷかぷかと漂っているのが見えていた。
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