第44話 屏風山を越えて
山を下りた一同は、少し外れた場所で古びた破れ寺を見つけた。
ずいぶん長いこと放置されていたようで、中はすっかり荒れ果てている。
ひとまず軽く掃除をしてから、それぞれ藁の上に腰を下ろし、精神を集中させて体を休めることにした。
波有は山ぶどうを口に放り込みながら、ぶすっとした顔で呟いた。
「さっきは私の出番が全然なかったわ。海音鈴がずっと私を呼んでいたのに、応えてあげられなかった」
小亀が優しく慰める。
「師姉、落ち込まないで。この先もきっと一筋縄ではいかないよ。師姉の力が必要なときは、これからいくらでもあるさ」
伊貴も笑いながら言った。
「そうだよ! もし法力のめちゃくちゃ強いやつに出くわしたら、真っ先に師妹に戦ってもらおう。その隙に俺たちは全力で逃げるからさ!」
「もう、二師兄ったら縁起でもないこと言わないで! 出番なんてなくていいから、強い敵には絶対に会いたくないわ!」
波有が怒ると、小亀も慌てて後に続いた。
「師姉、怖がらないで! 何があっても、僕だけは絶対に逃げないから!」
―――
伊蘭がぷっと吹き出し、伊貴に向かってわざと大きな声で言った。
「最近どこかの誰かさんたちが妙に仲良しだと思わないか? 誰のことだか分かる?」
伊貴は楽しそうに波有を見た。
「彼の言うことは気にしなくていいよ。最近の大師兄はちょっとおかしいんだ。いつもお前をからかってばかりだからな」
やり取りを見ていた雲英は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
女の勘が、伊蘭は波有と小亀の仲の良さに嫉妬しているのだと告げていた。
特に伊蘭と波有が一緒にいるときは、どうしても神経を尖らせてしまう。
(いつからだろう。私がこんなに、彼女のことを警戒し始めたのは……)
それもそのはずで、大師兄の伊蘭は波有にとって半分母親代わりのような存在だった。
まだ赤ん坊だった波有を汚い路地裏で見つけ、おぶって、もらい受けたおもゆを一口ずつ含ませて育てたのは、伊蘭と伊貴なのだ。
その後、伊高屋の弟子になり、波有も同じ一門の末っ子になった。
やがて伊蘭と雲英が恋仲になると、彼はあまり波有の面倒を見なくなった。代わりに、いつも変わらず師妹を可愛がっていたのは二師兄の伊貴だった。
けれど、波有が人魚本来の美しい容姿を取り戻してからというもの、伊蘭は事あるごとにトゲのある言葉で彼女をからかうようになった。
無理もない。
今の波有は信じられないほど美しかった。
かつての小さくて不格好なチビの面影はどこにもない。
女である雲英の目から見ても激しく嫉妬してしまうほどなのだから、男ならなおさらだろう。
表向きには、伊蘭は自分に対して昔と変わらず優しく接してくれる。
でも、彼の心はもう変わってしまったのだろうか。
実直で頼れる恋人は、まさか見かけの美しさに目を奪われるような薄情な男だったのか……
雲英はどうしても確かめたかった。
「大師兄、次の目的地は北海なの?」
わざとそう尋ねてみる。
「ああ、そうだ。ただ、ここはまだ南の端だからな。屏風山の辺りを通り抜けないと、北へは向かえない」
伊蘭の答えを聞いて、全員が黙り込んでしまった。
―――
さっきの狐の妖怪も、屏風山の手下だった。
一度は切り抜けたけれど、李御が待ち構える屏風山の一帯には、さらに恐ろしい危機がいくつも潜んでいるはずだ。
雲英が再び口を開いた。
「一つ提案があるの。驕盧と李御がたくさんの関所や罠を仕掛けて待っているなら、私たち、二手に分かれて進まない? そのほうが敵の目をそらせると思うわ」
すると小亀がすぐに反応した。
「分かれて進むにしても、僕は絶対に師姉から離れないよ」
猿妖の後四は少し考えて言った。
「雲英姉さんの言うことも、一理あるかもな」
しかし伊貴は首を振った。
「さっきの戦いを思い出してくれよ。もし俺と大師兄の二人だけだったら、今ごろ確実に捕まっていた。みんなで力を合わせて、お互いの法術を補い合ったからこそ、あの狐の妖怪に勝てたんだ」
雲英は伊蘭をじっと見つめ、彼の答えを待った。
伊蘭は、今日の恋人はどうしてこんなに口数が多いのだろうと不思議に思いながら尋ねた。
「じゃあ、どうやって分かれるんだ? 誰と誰がチームを組む?」
「あなたと私、それと二師兄で一組。甲ちゃんと波有ちゃん、それに後四くんで一組よ」
伊蘭は眉をひそめた。
「さっき伊貴も言っていただろう。今バラバラになったら、すぐに全員捕まるぞ」
雲英の頭に、すぐさま最悪の考えがよぎった。
(やっぱり、あの子と離れたくないんだわ!)
焦った彼女は、思わず口走ってしまった。
「じゃあ、一生見つけられないような深い山奥にでも隠れましょうよ!」
言い終えた瞬間、周りのみんなが目を丸くして自分を見つめていることに気づいた。
伊蘭はついに怒り、声を荒らげた。
「お前、一体何を言っているんだ! 隠れてどうする! 師父や伯父たちのことはどうでもいいって言うのか? 助けに行かないつもりか!」
何年もの付き合いになるけれど、伊蘭はいつも優しく、礼儀正しかった。こんな風に大声で怒鳴られたのは、生まれて初めてだった。
雲英はみんなの視線を浴びて、自分がとんでもない失言をしたことにようやく気づいた。
激しい後悔が押し寄せ、両手で顔を覆う。指の隙間から涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、大師兄。間違ったことを言ったわ、そんなつもりじゃなかったの……」
泣きじゃくる雲英を見て、波有は胸が痛くなり、急いで駆け寄って抱きしめた。
「大師兄、どうしてそんな大声を出すのよ! 雲英姉さんが怖がって泣いちゃったじゃない!」
伊蘭はハッとして心が和らぎ、雲英に声をかけた。
「すまない。少し焦ってしまって……怖がらせるつもりはなかったんだ。それと、波有も雲英を気遣ってくれてありがとうな」
雲英は、伊蘭が波有に呼びかける声がとても優しかったのを感じ取った。
自分にはあんなに怖かったのに。
そう思うと、悲しさはさらに増して、涙が止まらなくなってしまった。
―――
伊貴はどこからか拾ってきた藁のくずを口にくわえ、ゆらゆらと揺らしながら言った。
「まあ、さっきも言った通りバラバラになるのは絶対にダメだ。みんなで固まって動くからこそ、わずかな希望がある。それより今は、どうやって屏風山の関所を避けるかを考えよう。何かいいアイデアはないか?」
後四がのんきに答える。
「方法なんてあるか? さっきと同じように、力ずくで突っ切るしかないだろ」
伊貴は藁を噛みながら頷いた。
「つまり、名案はなし、か。だけど李御の法力は凄まじいぞ。あいつが相手となると、さっきの狐の妖怪みたいに無傷で通り抜けるのは絶対に無理だ」
小亀がもじもじしながら、おずおずと口を開いた。
「……あの、上手くいくか分からないけれど、一つ方法があるよ」
伊貴はぺっと口の藁を吐き出した。
「おい、あるなら早く言ってくれ!」
「光の伯父――僕の主人の仮羅様が、宝物の『光占羅盤』をくれたときね、一緒に自分の本命宝具である『鶴羽扇』の羽を一枚くれたんだ」
「僕たち亀の一族は動きが遅いでしょう? もし危険な目に遭ったらこれに乗りなさいって、命を守るためにくれたんだよ」
伊貴の目がパッと輝いた。
「それって、鶴の背中に乗って屏風山を飛び越えられるってことか?」
小亀は頷いた。
「うん。でも、もし途中で見つかったら、空中で身動きが取れなくなって、一網打尽にされちゃうかもしれない。それなら地上から無理やり突っ切って、一人でも多く逃げ切るほうがマシかなって……」
波有は目をきょろきょろと動かし、彼に尋ねた。
「ねえ、あなた前は屏風山にいたんでしょう? あそこにはどんな妖怪がいるの? 鳥の妖怪は多い?」
小亀は記憶をたどった。
「あそこはほとんどが狐の妖怪か、水の中にいる妖怪だよ。鳥は普通の鳥ならたくさんいるけれど、修行して妖怪になったやつは滅多にいないな。大殿の門の前で威張っている、二羽の大きな太ったガチョウくらいだよ」
波有は嬉しそうに声を弾ませた。
「だったら大丈夫よ! そのガチョウたち、普段は何をしているの?」
小亀は口を尖らせた。
「何にもしてないよ、すっごく怠け者なんだ! 日が暮れる前にはもう、巣に戻ってぐっすり寝ちゃうくらいさ」
波有はさらに嬉しそうに手を叩いた。
「完璧じゃない!」
振り返って雲英の手を握ると、にっこり笑った。
「雲英姉さん、今度は私たち女の子の出番よ!」
少年たちは何が何だか分からず、お互いに顔を見合わせた。
波有から「ちょっと待ってて」と言われ、小亀から鶴の羽を借りる様子をただ見守る。
二人の少女は白い鶴に乗って飛び立っていった。
しばらくすると戻ってきて、大きな黒い布をどっさりと抱えていた。
波有と雲英は、布を使って大きな黒いカバーを作り上げた。
前方を確認できるように、白鶴の小さな頭が出る部分にだけ、ぽつんと一つ穴を開けてある。
ここまで見て、男たちもようやく理解し、なるほどと手を叩いて絶賛した。
―――
一同は寺の中で日が暮れるのをじっと待った。
夜になると、みんなで白鶴の背に乗り、上から大きな黒い布をすっぽりとかぶった。
中は少し息苦しく、四方は真っ暗で何も見えない。
けれど、誰も声を出す者はいなかった。
全員の緊張はピークに達しており、敵に気づかれるのを恐れて、息をするのさえ静かに、そっと行うほどだった。
羽から化けた白鶴は、さすがは仮羅の本命宝具なだけあって、恐ろしいほどのスピードで空を駆けた。
こうして、彼らは白鶴に乗ったまま丸一晩飛び続け、屏風山をはるか後方へと置き去りにした。
朝露が降りる頃、みんなが黒い布を外すと、そこには嬉しい景色が広がっていた。
はるか遠くに、きらきらと光る海が見える。
すでに次の敵、美姫のナワバリである「北海」に到着していたのだ。
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