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波有伝説~海をゆく虹色の鱗【前編:人魚涙のブレスレット】  作者: 唯紅蓮真美(いちべにまみ)
第二章 雪嶺の逃避行

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第40話 羅漢の頭光


 突然、頭皮がジリジリとしびれ、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。


 李御は、きわめて重大なあることを思い出したのだ。




 彼女は顔にどす黒い怨念の色彩を浮かべ、鋭い声で問い詰めた。


 「あの日、都で一緒にいた女は誰だ?」



 仮羅は一目で彼女の考えていることを見抜いた。



 最近、都のほうからこんな噂が流れてきていた。


 大典の場に現れた見知らぬ若い娘の美貌が、天下一の美女と称される不老国の太后(李御)よりも、さらに数段勝っていたというのだ。


 その噂が、李御の耳に入ったのだろうか。



 胡白が答えようとしたのを、彼が先に遮って答えた。


 「あれは人魚島から助っ人に呼んだ修行仲間だ。もう島に帰ったよ」



 言いながら、目配せで師弟を制した。



 胡白に師兄の意図が分からないはずはなかった。


 (師兄、なかなか上手い嘘をつくものだ。波有の美しい歌声と容姿は、普通の人魚をはるかに凌駕しているのだから)




 「人魚ですって? でも、人魚は人間の姿には化けられないはずでしょう」


 李御はなおも厳しい口調で、しつこく追及してきた。




 この件だけは、どうしても白黒つけなければ気が済まなかったのだ。



 仮羅は少し沈黙し、仕方なそうに言った。


 「それには深い訳があるのだ。あの人は普通とは違う。体内に人魚一族の至宝であるブレスレットを宿しており、凄まじい法力で人間の姿を保てるのだ。李御、考えてもみろ。ただの人魚なら、私がわざわざ助っ人に呼ぶはずがないだろう?」



 李御は半信半疑のまま、仮羅の言葉を頭の中で反芻した。


 これが本当だろうが嘘だろうが、あの女の存在が自分の「天下一の美女」という座を脅かしていることだけは許せなかった。


 何としても、座を奪い返さなくては。



 彼女の額に青筋が浮かび、怒りに燃える両目からは火花が散りそうだった。


 全身の血が激しく沸き立つ。


 驕盧に命じられて李順天を殺した時でさえ、これほど興奮することはなかった。




 胡白は、彼女の顔が青くなったり赤くなったり、白くなったりする様子がおかしく、思わず吹き出してしまった。


 「姉さん、俺たちが来たのはさ、師匠が生き返ったからもう俺たちの恩怨は帳消しだって伝えに来ただけだよ。」


 「師匠はお前に、そのまましばらく屏風山を管理しろとおっしゃっている。都の民たちも、怪我の療養が終わったら俺が都へ送り届けるつもりだ。」


 「それから、師匠が後霊師姉に会いたがっておられるから、俺たちは一度、秀麗山へ戻るよ」



 李御は不満げに生返事をしたが、心は相変わらず、人魚のことで頭がいっぱいだった。




 ―――




 屏風山を離れた後、仮羅は袖の中から波有と小亀を出してやった。




 波有は長い間袖の中にうずくまっていたため、体がすっかり強張っていた。



 腕を伸ばしたり、首を回したりして体をほぐす。


 それを見た小亀が、腕を揉んであげようと近づいてきた。


 彼女はひらりと身をかわして仮羅の背後に隠れ、両手を振って拒絶した。



 「触らないで! 私、ものすごく乗り物に弱いの……じゃなくて、体中がくすぐったがり屋なのよ!」



 小亀は進むことも退くこともできず、きまり悪そうに場に立ち尽くし、ひどく慌てて困り果てた顔をした。



 波有は少し気の毒になり、手招きをして言った。


 「師弟、本当に私のために何かしたいなら、この前行った竹林の辺りで、コケコッコーって鳴いていたヤマドリを捕まえてきてよ。結構太っていたから、私と胡の伯父様のお酒のつまみにしたいわ」


 小亀はパッと顔を輝かせ、嬉しそうに頷いて駆け出していった。




 ここへ来て、ようやく于のデブがまともに口を開いた。


 「まさかこんなに、何事もなく無事に帰ってこられるなんて。俺の小さな心臓も、ようやく落ち着きましたよ。ご師祖様(光如意)が戻られたのですね! 山主、胡仙人、本当におめでとうございます!」



 胡白は頷いた。


 「俺たちは大师兄(驕盧)のことを誤解していたのかもしれないな。彼が皇帝の心臓を薬の材料にしたのは、確かに残忍だけれど、それも師匠を生き返らせるためだったんだ。」


 「師匠の顔に免じて、彼のしたことはもう水に流そうじゃないか」



 仮羅は含み笑いをしながら胡白を見た。


 「それなら、なぜ自分自身で残忍な手を下さず、李御にやらせたのだ? 小皇帝がどれほど操り人形だったとはいえ、一国の主だ。体には帝王の血が流れている。」


 「李御はいいように利用されただけさ。彼女の行いは、いずれ必ず天道からの罰を受けることになるだろう」




 波有は星や月のように大きな目を瞬かせ、仮羅に尋ねた。


 「光の伯父、つまり、驕盧はわざとそういうことをしたってこと? 李御を利用して、悪いことをさせたの?」


 仮羅は微笑みながら真っ白な小顔を見つめ、人差し指を唇に当てた。


 「外では絶対に口にしてはいけないよ」



 そして胡白に向き直った。

 

 「師弟!さっきの李御の言葉と表情を見ただろう。これから波有は秀麗山に留まらせる。絶対に、二度と屏風山へ近づけてはならないぞ」



 胡白は呆れたように頷き、ため息をついた。


 「美を愛する心は誰にでもあるし、俺にも理解はできるけれど。姉さんの執着心は、いくら何でも強すぎる。完全に泥沼にはまっているよ。」


 「たかが肉体の皮一枚じゃないか。修仙の端くれのくせに、あんなものに固執していては、到底大いなる大道など極められやしないさ」




 ―――




 仮羅は「ふむ」と生返事をし、ふっと何気なく話題を変えた。


 「……しかし、三百年ぶりに会ったというのに、師匠はどこか、どうにも奇妙な違和感があるな」



 胡白は綺麗な狐の目をくるりと動かした。


 「言われてみれば、確かに。どこかおかしい気がする」



 そう言って、すぐに笑った。


 「分かった、師匠が若返ったからだ! 俺が門下に入った頃、師匠はもう歯が抜け落ちそうなくらいヨボヨボの老人だったもの。でもよかった、また俺たちに昔話をして聞かせてもらえるね」



 仮羅は愛おしそうに師弟の頭をコツンと叩いた。

 

 「お前の頭の中は、今いくつだ? まだ昔話を聞きたがるのか。お前はもう、何も知らなかった小さな狐じゃないんだぞ」



 

 一行はわいわいと笑い合いながら、急ぐこともなく、のんびりと秀麗山へと戻っていった。


 


 山では、伊高屋が弟子たちを連れ、後霊が三匹の子猿たちを引き連れて、まるで熱湯の中の蟻のように、今かと焦りながら待っていた。


 

 皆が傷一つなく無事に戻ってきたのを見て、不安な顔が一気に笑顔へと変わった。



 仮羅は、屏風山でどのようにして復活した光如意に会ったのか、そして師匠の命に従って李御と和解した経緯を、細部まで丁寧に皆に説明した。




 後一は驕盧のせいで命を落としたのだ。


 本来、倶に天を戴かぬほどの深い恨みのはずだった。それなのに、師匠があっさりと驕盧を許してしまい、今後は四不像への復讐も許されないだろう。



 後霊は、激しい憎しみの行き場を失い、どうしても納得がいかなかった。




 光如意羅漢の三人の弟子のうち、後霊は最も長く師匠に仕えていた。


 彼女は当時のことを今でも鮮明に覚えている。




 ―――




 当時、秀麗山の裏手に、徳の高い禅師が住んでいると聞いた。ほんの少しの好奇心から、彼女はそこへ様子を見に行ったのだ。




 緑豊かな山々に囲まれた中庭で、彼女が見たのは、ひどく大柄で粗野な大男だった。


 顔中が髭に覆われており、頭の後ろには、白く輝く円形の「頭光(ずこう)」が浮かんでいた。


 袈裟をだらしなく半分だけ羽織り、はだけた胸元からは黒々とした胸毛が覗いていた。




 彼は庭の中央にある大きな青石の台座に端座しており、少し離れた場所では、一羽の野生の鶴が寂しげに、片方の足で立ったまま微動だにせず佇んでいた。



 後霊の向かいの木には、二匹の青蛇が絡みついており、木の下には一匹の巨大な草亀が、頭も足もすべて甲羅の中に引っ込めていた。一見すると、ただの大きな岩にしか見えなかった。



 光如意羅漢は、彼らの存在など気にも留めない様子で、独り言のように、仏法や経典の起源とその奥深さを静かに語り続けていた。




 翌日、後霊が再び経を聴きに行くと、聞き手は自分だけではなかったことに気づいた。


 

 よく見ると、庭の隅にある鼠の穴から、数匹の鼠が小さな頭を覗かせて真剣に耳を傾けていた。


 木々の間に巣を張る黒蜘蛛も、じっと動かずにいた。


 草むらの中からは、一匹の山猫が緑色の目をギラギラと輝かせ、禅師をじっと見つめていた。


 すぐ隣に咲く一輪の野菊さえも、風に優しく揺れながら、まるで羅漢の語る知恵の言葉にうっとりと酔いしれているようだった。



 

 それからというもの、毎日の説法の時間になると、ありとあらゆる動物や植物が集まってきた。


 説法が終わるたび、聞き手たちは皆、歓喜して賛嘆し、念仏の唱え声が林や谷の奥深くまで響き渡ったものだ。



 後霊は当時、お腹に四匹の子を宿しており、どうしても心が落ち着かず焦燥感に駆られていた。


 しかし、毎日ここで説法を聴くようになってからは、心が嘘のように静まり返り、安らかになっていった。


 それが仏法の加護によるものだと、彼女は身をもって知ったのだ。




 無事に四匹の子猿を産み落とした後、彼女は毎日、子供たちを連れて山で採れた霊芝や蜜桃を羅漢に捧げ、弟子にしてほしいと必死に懇願した。


 ようやく、光如意は彼女を弟子として受け入れたのだった。




 その後、彼女は人間の姿を修得した。


 師匠は当時一緒に説法を聴いていた大きな草亀、つまり今の仮羅を弟子にとり、さらに後年、頭のてっぺんに一房の黄色い毛が生えた小さな白狐が説法を聴きにやってくると、師父はあまりの愛らしさに、彼を最後の直弟子として迎え入れた。それが胡白だった。




 ある年、天下を大旱魃が襲った。


 羅漢は衆生の苦しみを哀れみ、老い衰えた身体を顧みることなく各地を巡行した。


 如意錫杖で岩を叩くと、そこから清らかな泉が湧き出し、ついに大旱魃を解決した。


 また、疫病が猛威を振るったときには、彼は弟子たちを連れて貧しい病人に薬を配り歩き、あちこちに無料の診療所を開いて救済活動を行い、無数の人間の民の命を救ったのだ。




 「本当に、古い思い出だわ……」後霊はぽつりと呟いた。


 

 さらに記憶を呼び起こした。


 「今でもはっきり覚えているわ。初めて師匠の頭の後ろにある『羅漢の頭光』を見たとき、私はてっきり、師匠が頭に大きな麦わら帽子でも括り付けているのかと思ったの。」


 「真っ白で綺麗だから、どこで売っているのかしら、私も一つ買いに行こうって本気で考えたのよ」



 そう言って、彼女は「ふふっ」と一人で笑い出した。



 しかし、それを聞いた二人の師弟の顔が、一瞬にして凍りついた。




 胡白が、隣にいた仮羅の手をぎゅっと掴んだ。


 「師兄……さっき言っていた違和感って、これだ!」



 仮羅が飛び起き、大声を出した。


 「その通りだ!」




 後霊は何が起きたのか分からず、怪訝そうな顔をした。


 「二人とも、一体どうしたの?」




 仮羅は後霊をまっすぐに見つめ、震える声で、一文字ずつ噛み締めるように言った。



 「……生き返った師匠の頭の後ろには、頭光が、無かったんだ」


<あと書き>


作中に登場した「羅漢の頭光ずこう」について、少しだけ補足の解説です。


仏教の世界観において、仏様や羅漢、菩薩などの頭の後ろに描かれる円輪の光は、一般的に「後光ごこう」や「頭光ずこう」と呼ばれます。


これは単なる飾りではなく、修行によって高い境界に達し、聖なる「果位(位・資格)」を得た存在であるという「神聖な身分の象徴」です。

つまり、羅漢であるならば、絶対に消えるはずのない光なのです。


ラストシーンで、復活したはずの光如意の頭にその光が無かったということは……?

仮羅と胡白が「あの中にいるのは、本当に本物の師父なのだろうか……」と気づき、鳥肌が立つような恐怖を覚えたのはそのためです。


いったい屏風山で何が起きているのか、ぜひ次話も楽しみにしていてください!

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