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波有伝説~海をゆく虹色の鱗【前編:人魚涙のブレスレット】  作者: 唯紅蓮真美(いちべにまみ)
第二章 雪嶺の逃避行

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第35話 恐れず、ただ前へ


 伊蘭と伊貴も胸を焦がすほど心配していたが、この状況でどうすればいいのか分からずにいた。



 小亀は伊高屋を慰めた。


 「師父、焦らないでください! 師姉は一時的に気を失っているだけです」



 彼は波有の手首を優しく握り、海音鈴をシャランと響かせた。


 清らかで澄んだ鈴の音を聞くと、波有はゆっくりと目を開けた。


 周囲の者たちは一瞬で驚きから喜びに変わり、沸き立つように歓喜した。




 目を覚ました波有は、すぐに先ほどの戦いを思い出した。仮羅と胡白の身を案じ、伊高屋に尋ねた。


「師父、伯父たちはどうなりましたか? お二人は無事なのですか?」



 伊高屋は曇りきった顔で天を指さした。


 いまや、仮羅の巨大な甲羅は、まるであたりを覆い尽くす暗い茶色の巨大な傘のように、都の上空を覆っていた。


 「光の伯父は、自らの身体を張って都を守っている。だが、いつまで持ち堪えられるか分からない。胡の伯父は、都の民のほとんどを安全な場所へと避難させたところだ」



 伊蘭が尋ねた。


 「師父、胡の伯父はいつ戻られますか? 私たちはこれからどうすればいいのでしょう?」



 伊高屋は少し考え込んでから言った。

 

「まだ城内の医館に、怪我をして動けない人たちが残されている。その人たちを救い出して城門まで運び、胡の伯父が戻られるのを待とう」



 波有は焦って言った。


 「光の伯父はどうなるのですか!?」



 伊高屋は弟子の目をまっすぐに見つめ、一言一言、言い聞かせるように答えた。


 「波有、師父の無力さを責めないでおくれ。わしだって、胸が張り裂けそうなのだ」



 伊貴も辛さに胸を締め付けられながら言った。

 

 「師妹、今の私たちにはできることをやるしかないんだ。光の伯父が自らを犠牲にされたのは、私たちの命を救うためなのだから!」



 波有はその場にしゃがみ込み、膝を抱えて顔を埋めた。涙がとめどなく溢れ落ちる。

 

 枯れた声で呟いた。


 「こんなにも無力なんて、本当に悔しい……!」



 伊高屋は波有の頭を優しく撫で、穏やかな声で言った。


 「お前はまだ怪我を負っている。甲ちゃん、波有に付き添ってここで少し休ませてやりなさい。落ち着いたら城門で合流しよう」


 そう言い残し、伊高屋は他の弟子たちを連れて医館へと急ぎ足で向かった。




 小亀は波有の傍らで声をかけた。


 「師姉! 話を聞いて。今の僕たちの力では、まるで『卵を石にぶつける』ようなものです。二人の悪党には到底敵いません!」



 波有はすすり泣きながら、小さな声で返した。

 

 「分かっているわ。ただ、光の伯父が私たちのためにあんな目に遭うなんて、耐えられないの……」



 小亀はため息をついて言った。


 「師姉、聞いてショックを受けないでね。さっき君が気絶している間、後一師兄が師姉の仇を討とうとしたんだ。でも、驕盧に返り討ちに遭って、頭上の黒い穴の中に放り込まれてしまったんだよ」


 

 猿の妖である後一が、これまでどれほど良くしてくれたか、今度は自分のために命を落としてしまったことを知り、波有はますます頭を抱えて激しく泣き崩れた。




 ―――




 小亀は、波有が深く傷ついている姿を見て、自分の胸もナイフで抉られるように痛んだ。



 彼は何度も考えを巡らせ、うつむきながらぽつりと呟いた。


 「実は……どうしても光の伯父を助けたいと言うなら、方法がないわけでもないんだ」



 言葉を聞いた波有は、ハッと顔を上げた。


 「やり方を知っているのね!?」


 「さっき僕たちが上空へ向かった時、師姉が歌を歌いながら海音鈴を鳴らしたでしょう? あれは確かに効果があったんだ。ただ、長くは保たなかったけれど」



 波有はさきほど起きた出来事を必死に思い返した。


 「そういえば……あの光驕盧は、最初は南海の奈落の底で出会った時と同じように、とても穏やかな様子だったわ。でも、どうして急に別人のようになってしまったの?」


 「力がものすごく強くて乱暴で、首を絞められた瞬間に息ができなくなって、その後の記憶がないの」



 「師姉、あの男は、四不像の光驕盧が化けた人間の姿なんだ。本来なら四不像の姿であれ人間の姿であれ、同一人物のはずなんだけど……あんな風に顔が変わると、本当に恐ろしい」


 

 波有は小亀の言葉を遮って急かした。


 「早く教えて! どうすれば光の伯父を救えるの?」



 「師姉、焦らないで。もう少しだけ待つんだ。胡の伯父が医館の怪我人たちを安全な場所へ送り届けたら、もう一度さっきと同じように上空へ行こう。」


 「君が歌を歌いながら鈴を鳴らせば、もしかしたら光驕盧はまた、心優しい四不像の姿に戻ってくれるかもしれない」



 波有は言葉を繋いだ。「その隙を突いて、光の伯父を引っ張って一緒に逃げるのね!」


 小亀はにっこりと笑った。「その通りだよ」



 しかし、すぐに心配そうな顔を浮かべた。


 「でも、さっきは運良く光驕盧がとどめを刺さなかったけれど、今度は確実に激怒するはずだ。もし僕たちの逃げ足が間に合わなかったら、どうなってしまうだろう?」




 ―――




 波有は、以前に後一が「いつか英雄になって美少女(波有)を救うんだ」などと冗談を言っていたこと、今、本当に自分の仇を討つために光驕盧の毒牙にかかってしまったことを想った。


 小亀に言った。


 「師弟、あなたは妖族だから、人族に伝わる有名な言葉を教えてあげるわ。『たとえ千万人、百万人もの人間が目の前に立ち塞がり反対しようとも、私は己の信じる道のために突き進む(虽千万人吾往也)』という言葉よ」



 小亀はふっと笑った。

 

 「師姉だって妖族じゃないか。まさか自分の正体を忘れちゃったの?」



 波有はハッとして驚いた。

 

 「あ、そうだったわ! なんで忘れちゃっていたのかしら」



 彼女は小亀に向かってペロッと舌を出した。


 「また私をからかったわね」




 小亀は、波有の赤らんだ顔に笑顔と涙が入り混じっている様子を見つめた。


 まるで、雨に濡れながら咲き誇る梨の花のようで、彼の心は激しく揺さぶられた。


 愛おしさと切なさが混ざり合った感情が、彼の全身の血を駆け巡る。



 小亀は呆然としながらも、熱を帯びた眼差しで波有を見つめて言った。


 「師姉、僕は命を懸けてでも、後一兄のように君を絶対に守り抜いてみせるよ!」



 波有もまた、彼の真剣な眼差しに心を打たれた。

 

 「何としても、光の伯父を救い出しましょう。後一兄の二の舞にさせては絶対にだめよ!」




 その頃、医館の中にはあまりにも多くの病人が溢れ、伊高屋と弟子たちだけでは手が回らなくなっていた。


 比較的軽傷の患者であっても、医館から城門までの長い距離を歩くのは過酷な苦行であり、重傷者となれば尚更だった。



 彼らが混乱し、なす術を失っていたその時、胡白が戻ってきた。



 胡白は頭上を見上げ、未だに激しく拮抗している黒い穴と大亀の甲羅を目に焼き付けた。


 (師兄は都の民のために、己の命を投げ打って救おうとしている。師兄の犠牲を絶対に無駄にはしない!)



 彼は首を激しく振り、目に溜まった涙を堪えた。二度と上空を見上げることなく、一言も発さずに猛然と人々の救助に加わった。



 胡白が最後の患者を送り届けると、伊高屋と弟子たちは急いで城門へと向かった。




 ―――




 しかし、そこに波有と小亀の姿はなかった。



 小亀は今回、亀の体を先ほどよりもさらに大きく変化させ、より安定して空を飛んだ。


 波有は両手で海音鈴をしっかりと握りしめ、彼の甲羅の上に凛と立ちあがった。



 光仮羅の甲羅が目の前に迫ると、彼女は両手で力強くリズムを刻みながら鈴を鳴らし、清らかな鈴の音に合わせて歌を歌い始めた。




 波有の澄み渡る清らかな歌声が再び鈴の音と共に空間に流れ出すと、場にいるすべての者の心弦を激しく掻き乱した。


 切ない旋律が耳元で渦を巻き、まるで山が崩れ海が覆るような哀愁が、あらゆる隙間から容赦なく人々へと押し寄せ、抗うことなど誰にもできなかった。




 胡白によって両脚を負傷させられた李御は、歌声の中で呆然と立ち尽くし、脳裏に過去の記憶の断片が激しく蘇っていた。


 幼い頃、彼女はほんの少しの妖力を持った赤狐であったため、常に道士たちから追い回されていた。


 その後、胡白の一族に出会った。


 高貴極まりない白狐の一族は、彼女の卑しい赤い毛並みを嫌うことなく、温かく迎え入れてくれた。


 彼女は身分の低さをわきまえ、自ら進んで侍女になろうとしたが、胡白の家族は彼女を憐れみ、義理の姉として扱い、師兄に紹介してくれたのだった。



 しかし、李御は最初からずっと胡白に恋心を抱いていた。


 共に過ごす時間が長くなるほど、彼女はあることに気づかされた。



 この白狐は、男か女か分からなくなるほど驚天動地の美貌を持ちながら、その瞳には「師兄(仮羅)」のことしか映っていなかったのだ。


 何度も彼女は計略を巡らせ、彼の胸に飛び込んで想いを伝えようとしたが、胡白のあまりの朴念仁ぶりに、彼女のプライドは粉々に打ち砕かれた。


 こうして彼女の愛は激しい憎しみへと変わり、二度と男のために心を動かさないと天に誓ったのだった。


 波有の歌声は、李御の胸に強烈な自己憐憫を呼び起こし、彼女を過去の苦い思い出の中に深く沈めていった。

 



 ―――




 やはり、この歌声と海音鈴のリズムがもたらす効果は絶大であった。



 驕盧の姿は、冷酷な若い男の姿から、再び雪のように真っ白な四不像へと戻っていった。



 四不像は頭の鹿角をひと振りし、足元には次々と瑞祥の雲が湧き上がった。


 彼が前足をトントンと地面につくと、先ほどまで黒雲が垂れ込めていた空は一瞬にして晴れ渡り、青空と眩しい太陽の光が差し込んできた。



 如意の錫杖が都の上空に作り出していた不気味な黒い穴も、見る見るうちに縮小していき、ついには完全に消え去った。



 仮羅も巨大な大亀の姿から人間の姿へと戻り、手をひと振りして鶴羽扇を回収した。


 しかし彼には何が起きたのか分からず、ただ茫然と立ち尽くして四不像を見つめていた。




 驕盧(四不像)は瑞雲を踏みしめながら波有の目の前まで歩み寄り、静かに告げた。


 「早く行くがいい! 二度と戻ってくるな。……あやつは強すぎる、お前たちでは到底敵う相手ではない」


 

 全員が呆然とした。


 波有は慌てて尋ねた。「あやつって、一体誰なの?」



 四不像は二本の角を揺らし、非常に焦った様子で促した。


 「早く行くのだ! 早く! これ以上遅れれば、もう間に合わなくなる!」




 仮羅は四不像に向かって深く頷くと、それ以上は何も語らず、左手で波有を、右手で小亀を抱きかかえ、一瞬にして城門の元へと飛び降りた。



 城門では、胡白や伊高屋たちが気が気でない様子で首を長くして待っていた。


 三人が無事に帰ってきた姿を見て、彼らは狂喜乱舞した。

 

 すぐさま胡白が呪文を唱えると、周囲に激しい風が吹き荒れ、次の瞬間、彼らは都を脱出して千里の彼方にある秀麗山へと無事に逃げ延びたのだった。




最後までお読みいただきありがとうございます!


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