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波有伝説~海をゆく虹色の鱗【前編:人魚涙のブレスレット】  作者: 唯紅蓮真美(いちべにまみ)
第二章 雪嶺の逃避行

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第34話 如意塔と如意錫杖

 

 光驕盧は眉間を寄せ、ぽつりと呟いた。


 「……ああ、お前は彼女ではないな。忘れていた。彼女はもう、この世にはいないのだから」



 彼は落下していく波有を一瞥した。


 「まあいい……人間族の小童(こわっぱ)風情が。蟻んこのくせに、随分と大胆なことだ。少しお仕置きをしてやろう」




 驕盧が独り言を言っている最中、目の前に光仮羅の烈しい掌風が迫った。


 しかし彼は見向きもせず、身をひらりと揺るがしたかと思うと、一瞬で姿を消した。


 仮羅は驚き、すぐに神識を最大限に広げて、周囲の気配を必死に探り始めた。


 

 

 「仮羅師弟、探す必要はない。これが見えるか?」


 雲霧の向こうから再び驕盧が現れた。


 彼の口元には冷酷な笑みが浮かんでおり、手には一本の錫杖(しゃくじょう)が高々と掲げられていた。



 仮羅は奥歯を噛み締め、彼を睨みつけた。

 

 「なぜ……なぜ師匠の法宝をお前が持っている!?」



 驕盧は傲慢に唇を歪めた。

 

「師匠亡き今、第一の弟子である私が遺品を受け継ぐのは当然のこと。二つの法宝が私の手にあることこそ、最も理にかなっていると思わないか?」



 さらに驕盧は小馬鹿にするように笑った。


 「仮にこれらを手に入れたところで、師弟、お前は使いこなせるのか?」



 彼は錫杖をドスンと足元に突き立てた。


 「代わりに、大師兄が使い方を教えてやろう。よく見ておくがいい、一度しか言わないぞ」




 言葉が終わるやいなや、錫杖から禍々しい黒気が噴き出した。


 巨大な大蛇のようにのたうち回りながら天空へと駆け上り、瞬く間に天を覆い尽くしていく。



 頭上の空が完全に黒雲に染まると、黒気は今度は渦を巻いて地へと向かい、天と地を黒い気で繋ぎ合わせた。


 如意の錫杖の足元には底なしのブラックホールが形成され、まるで水面に投げ込まれた巨石のように、波紋を描いて見る見るうちに広がっていく。



 穴の奥は深く、不気味な黒霧が立ち込めており、暗雲の奥で激しい雷電が鳴り響いていた。


 一目で、極めて凶悪な陣法が隠されていることが分かった。




 ―――




 仮羅は、黒い穴が自分に迫り、範囲を刻一刻と広げていくのを見つめた。


 一時的に身を躱すことはできても、師匠の法宝の凄まじい威力を知る身としては、このままでは都が丸ごと飲み込まれてしまうことは明白だった。



 仮羅は絶望に胸を締め付けられながら、枯れた声を振り絞った。


 「お前は大师兄でありながら、師匠の法宝を手にしながら……なぜお前からは師匠の教えが微塵も感じられないのだ! 」

 

 「本当に、この都の民すべてを生贄にするつもりか!」




 驕盧は淡々と応じた。


 「もしそうしたとして、お前は私に何ができる?」



 仮羅は悲憤のあまり叫んだ。

 

 「そんな大逆無道を仕出かす不届き者を、二度と我らの大師兄とは認めん! もし今日、我ら師弟がここを生き延びたならば、生涯お前を不倶戴天の敵とする!」



 驕盧は冷笑した。

 

 「千年を生きた老亀のくせに、実によく喋る師弟だ。……ああ、そういえば、あの狐の妖(李御)に加勢を頼まれていたのを忘れていたな」



 驕盧は如意琉璃塔を再び宙に浮かべ、呪文を唱えて胡白へと投げつけた。


 塔はみるみる巨大化し、先ほどの仮羅と同じように、胡白をその下に圧し潰して身動きを完全に封じてしまった。


 彼は口元に皮肉な笑みを浮かべた。


 「では、お前たち師弟を一緒にあの世へ送ってやろう」




 彼の笑い声が響く中、不意を突いて一筋の黄色い光が電光石火の勢いで正面から突っ込んできた。


 それが小さな猿の妖だと気づいた時には、すでに遅かった。



 後一は、鋭い爪を剥き出しにし、大口から牙を覗かせ、背後の尻尾を太い丸太のように数倍へと巨大化させていた。


 都の地上で、小亀の背に受け止められた波有の姿を見た後一は、彼女が驕盧に殺されたと思い込み、全霊の力を込めて咆哮したのだ。


 本来の姿を現した身は、身の何メートルにも及ぶ巨大な猿の怪獣ものであった。


 ひと回転して雲を突き抜け、彼は驕盧へと一直線に襲いかかった。




 驕盧は横一線に薙ぎ払われた尾を辛うじて躱したものの、正面から迫った後一の爪によって、着ていた黒い祭袍をズタズタに引き裂かれた。



 冷や汗を流しながら、眉をひそめた。

 

 「無礼な小輩め」


 彼は身を揺るがす術で姿を消したかと思うと、次の瞬間には後一の背後に現れ、首を鷲掴みにした。


 そのまま、黒い穴の中へと容赦なく投げ落とした。




 ―――




 圧倒的な強さを前に、仮羅も胡白も、李御すらも息を呑んだ。



 後一との戦いは、まるで子供をあやしているかのようであり、その実力の差に誰もが戦慄した。



 仮羅はこの男の功力が、世を去った師匠に勝るとも劣らないと悟り、万念休すとなって、手にした鶴羽扇を天へと突き上げた。


 大声で叫ぶ。


 「師弟、都の者たちを頼んだぞ!」




 扇の羽が一枚、また一枚と剥がれ落ち、首と足の長い無数の白鶴へと変化して胡白の元へと一斉に飛び去ると、頭上の如意琉璃塔をその身で支え、彼を塔の下から救い出した。




 仮羅自身も本来の姿を現した。


 都の大きさに匹敵するほどの、凄まじい巨躯を誇る巨亀であった。



 巨亀は四肢を力強く広げて半空に踏みとどまり、巨大な甲羅で都を覆うようにして、黒い穴が地上へと降下するのを命がけで食い止めた。




 胡白は白鶴に救われて自由になった。


 幼い頃から共に育った師兄の言葉の意味が分からないはずがない。


 仮羅が自らの命を犠牲にしてでも、都の民の命を救う覚悟を決めたことを悟った。




 一方の李御は、胡白が制圧されたことで相手を失い、錫杖の黒い穴を必死に甲羅で支える仮羅の姿を、面白そうに眺めていた。


 胡白は気配を消して霜玉簫を構え、李御に向けて全霊の力で振り抜いた。


 刹那、無数の鋭利な氷の矢が彼女を襲う。


 異変に気づいた驕盧が袖を翻して彼女を救おうとし、衣服が身に迫る氷の矢の大部分を叩き落としたが、防ぎきれなかった二本の矢が、李御の左右の後ろ脚へ正確に突き刺さった。


 悲鳴が響き渡り、妖狐の姿を維持できなくなった彼女は人間の姿へと戻り、両足から血を流してその場に激しく倒れ込んだ。



 

 胡白は双眸を血のように真っ赤に染め、涙を浮かべながら、静かに、しかし固く誓った。


 「……師兄! 誓う! 都の民は、絶対に傷つけさせはしない!」


 彼は二度と振り返ることなく、一閃の風となって雲の上から地上へと飛び降りた。




 城門の前は、荷物を抱え、家畜を連れて都の外へと逃げ惑う民衆でごった返していた。


 胡白は最も高い城楼の上へと舞い降り、民に向けて声を張り上げた。


 「このまま逃げても逃げ切れるものではない! 早く目を閉じるのだ! 安全な場所へ連れて行ってやる!」



 都民たちは一斉に跪き、何度も頭を床に打ち付けながら、命の恩人への感謝を口々にした。


 胡白は厳しく言い含めた。

 

 「決して目を開けてはならぬぞ!」



 民たちの声が揃う。


 「仙人様の仰せのままに」



 次の瞬間、凄まじい狂風が吹き荒れ、砂や石が激しく舞い上がった。


 城門の下にいた民衆は皆、胡白の術によって、一瞬にして千里の彼方にある秀麗山へと転送された。




 ―――




 今しがた、小亀の手によって、気を失ってぐったりとした波有が地上の伊高屋の元へと運び込まれ、一同が慌てて周囲を取り囲んでいた。



 伊貴が涙を流してすがる。


 「師妹、死なないでおくれ!」



 雲英もまた、目を覚ましてほしい一心で身体を激しく揺さぶる。


 しかし波有の顔は土気色に白く、どれほど呼びかけ、揺さぶっても、ぴくりとも反応しなかった。



 後一が血相を変えて飛び込んできた。


 彼は皆を押し退け、波有を腕にかき抱くと、声を上げてむせび泣いた。


 「小師妹、必ず仇は討ってやる! 待っていておくれ、僕もすぐにお前の元へ行くから!」




 伊高屋が慌てて彼を引っ張る。「後師侄、早まるな! 今行っても犬死にするだけだ!」

 


 しかし、後一は凄まじい力でその手を振り払った。


 両目を血走らせ、怒りの咆哮を上げると、全身から毛並みが突き出し、尻尾は一本の太い丸太のように直立した。


 巨大な猿の姿を現した彼は、ただ波有の仇を討ちたい一心で、後先を顧みず、猛然と天へと向かって飛び去っていった。



最後までお読みいただきありがとうございます!


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