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波有伝説~海をゆく虹色の鱗【前編:人魚涙のブレスレット】  作者: 唯紅蓮真美(いちべにまみ)
第二章 雪嶺の逃避行

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第33話 響け、海音の鈴

 


 李御は黒い長袍の袖口から、自らの至宝である「三味香炉(さんみこうろ)」を恭しく捧げ持った。



 この宝物は、世に存在するあらゆる魅惑の香気を放つことができ、不老国の先代の皇帝もまた、香炉から放たれた強力な眠り薬の香によって正気を吸い尽くされ、文字通り骨抜きにされてしまったのだ。



 胡白は身を躍らせて叫んだ。


 「お姉様! 本当に俺と本気で殺し合いを執り行うおつもりですか!?」



 李御は美しい眼を限界まで丸く見開き、彼を激しく睨みつけながら言い放った。


 「……事ここに至って、お前たち二人が、私を許してくれるとでも言うのかい!?」



 胡白はぐっと奥歯を噛み締め、覚悟を決めた。


 「……それもそうだな!」



 李御は身を翻して遥か上空の雲霧の中へと飛び上がると、香炉の蓋を勢いよく跳ね上げた。


 細い薬指の爪先で、香炉の底から一摘みの香灰をすくい取り、眼下の胡白に向けて勢いよく撒き散らした。




 胡白は、義姉の香炉に収められた香灰の恐ろしさを誰よりも熟知していた。


 灰の内部には、触れた万物を跡形もなく燃やし尽くすまで決して消えることのない地獄の業火――「三味真火(さんみしんか)」が封じ込められているのだ。


 一度でも触れれば最後、命はない。



 彼はすぐさま霜玉簫を唇へと当てがい、体内の霊力を極限まで練り上げて、静かに、しかし力強く簫を吹き鳴らした。


 音色は次第に高く、激しく響き渡り、幾重にも旋回しながら空間を揺るがした。


 簫の音に込められた秘術は、周囲の空気を一瞬にして凍らせ、天空に千々万々のきらめく「氷霜の刃」を凝結させた。


 陽光を浴びて七つの色彩を変えながら、まるで逆流する巨大な滝のような勢いで突進し、李御が放った禍々しい香灰を、一粒残らず粉砕して四方に吹き飛ばした!




 自身の香灰が完全に無力化されたのを見て取るや、李御は瞬時に人間の皮を脱ぎ捨て、「真の姿」を現した。



 それは、全身に血のように真っ赤な毛並みを湛えた、山ほども大きい巨大な赤毛の妖狐であった。


 双眸は血の滴るような赤に爛々と輝き、大きく裂けた顎からは鋭い牙が覗き、鋭利に尖った両の爪からは、怪しく揺らめく不気味な緑の光が放たれていた。



 彼女は巨躯を躍らせ、猛然と胡白を目がけて襲いかかってきた!



 胡白は凄まじい猛攻を紙一重でひらりひらりと躱しながら、わざと挑発するように笑い飛ばした。


 「おいおい、教えてくれよお姉様! この国の先代の皇帝ってやつは、もしかしてお姉様の恐ろしい本性をまともに見ちまって、文字通りショック死したんじゃないのかい?」


 「 お前の化け物姿、普段の美しい人間の姿と比べたら、あまりにもギャップが激しすぎるだろう!」



 李御は激怒し、咆哮した。


 「お前だって、頭のてっぺんの小生意気な黄色い毛並みがあったからこそ、羅漢に拾われて弟子になれただけじゃないか! 」


 「御託はいいから、さっさと本性を現して私と勝負しなさい! 白い毛並みの真身(白狐)の方が、私なんかより遥かに見栄えが良いことくらい知っているわよ」


 「だがね、そんな美しい見た目が、この殺し合いの場で一体何の役に立つというんだい!」



 胡白は口元を歪めてニカッと笑った。


 「俺は師匠の元で学問と礼節を叩き込まれた身だからな。外見はただの狐だが、中身は極めて礼儀正しく、規律を重んじる高潔な狐なのだ」


 「それに俺は、古の聖人の教えにある『婦人おんなと小人(悪党)とは争うべからず』という至言を、誰よりも深く弁えているのでね!」



 胡白は口では調子の良いことを並べ立て、いかにも余裕といった風を装っていたが、内心は冷や汗ものであり、ひたすら悲鳴を上げていた。


 実力で言えば、自分と義理の姉はまさに五分五分であり、ほんの僅かな油断が命取りとなり、一瞬にして李御の爪の錆にされてしまうことを、彼は誰よりも理解していたのだ。


 それゆえに彼は一微塵の油断もせず、李御の猛烈な連続攻撃を必死に躱し続け、言葉の刃で彼女の理性をさらに掻き乱して大激怒させ、相手が頭に血を上らせて大振りの隙を晒した瞬間、必殺の一撃を叩き込もうと、冷徹に機会を伺い続けていた。




 ―――




 一方、地上の伊高屋の側では、先ほど仮羅から受けた指示通り、広場に跪いていた都の民たちを大急ぎで避難させ、奔走していた。


 恐怖のあまり気を失って倒れ、起き上がれない者たちも、手分けしてすべて都の大きな医館へと担ぎ込まれていった。



 波有は民衆に混じって走りながらも、絶えず頭上で行われている仮羅たちの死闘に目を凝らしていた。


 見上げれば、仮羅は、怪しく輝く巨大な塔に上から力任せに圧し潰され、身動き一つ取れずに苦しんでいる。


 胡白もまた、太后が化けた巨大な赤狐の猛攻を前に、一進一退の激しい空中戦を繰り広げていた。


 

 (……どう見ても、こちらが劣勢だわ!)


 (光の伯父様!! 胡の伯父様!!)


 彼女の胸に、張り裂けんばかりの焦りが突き上げ、頭がカッと熱くなった。


 もはや、後先のことなどあれこれと考えている余裕はなかった。




 波有は隣にいた小亀の腕をガシッと掴んだ。


 「師弟!「海音鈴」を取り出して使ってもいいかしら!? たとえ、ほんの少ししか役に立たなかったとしても、二人を助けたいの!」



 小亀も身動きを封じられた主人の危機を前に、胸を焦がしていた。


 「師姉、だったら一か八か、試してみて! さあ、僕の背中に乗って。上まで連れて行ってあげるから!」


 小亀は瞬時に身体を巨大化させると、波有を背に乗せて、猛烈な勢いで天空へと舞い上がった。



 実は、「海音鈴」を手に入れてからというもの、彼女は一度もそれを試したことがなかった。


 というのも、小亀から「その鈴は、師姉の歌声と完全に融合し、互いに響き合ってこそ初めて真の威力を発揮する」と聞かされていたからだ。


 波有自身、自分が人魚の血を引く者であるという秘密を周囲の仲間に知られることを恐れ、あの日以来、人前で歌を歌うことを頑なに封印していたのである。



 しかし、事態は一刻を争う。


 光の伯父は塔の下に圧し潰され、生死すら定かではない。


 胡の伯父もまた、赤狐の牙と爪に晒されながら必死に猛攻を躱しており、いつ致命傷を負ってもおかしくない極限状態だった。


 波有は四の五の言っていられなくなり、なりふり構わず手首に結ばれた螺鈴(つぼがね)を激しく振り鳴らした。


 そして大きく口を開くと、かつて波有の魂に刻まれた哀切で物憂げなあのメロディを、天空へと響かせたのだ。




 ―――




 その瞬間、誰もが、周囲の空気が一気に凍りつくような冷気に包まれるのを感じた。



 雲一つない晴天白日であったはずの天空から、突如として寂しげな風雨が吹き荒れ、あたり一面は一瞬にして、凄惨で哀れな粛殺の気象へと一変した。



 歌声が響き渡った刹那、仮羅は、己の身体を圧迫していた琉璃塔の重圧が、目に見えてフッと緩んだのを肌で感じた。


 彼はこの機を逃さず、懐から自身の法宝である「鶴羽扇(かくうせん)」を掴み出すと、残された全霊の力を込めて一気にひとあおぎした。


 凄まじい神風が巻き起こり、なんと、巨大な如意琉璃塔を手のひら大きさへと一気に縮小させ、持ち主である驕盧の元へと吹き飛ばして送り返したのだ!



 身体の自由を取り戻した仮羅は、間髪入れずに胡白のいる空中へと飛び込んだ。


 「師弟、恐れるな! 今、俺が加勢する!」


 たとえ現在の胡白が、金髪をなびかせた立派な壮年男子の姿をしていようとも、仮羅の心の中では、彼は今でも解脱院の門を叩いたばかりの、全身を白い毛並みでモコモコに包み、頭のてっぺんにだけ一摘みの金髪を乗せた、愛くるしい小さな仔狐のままであったのだ。



 四方八方に神経を張り巡らせて戦っていた胡白は、すぐさま大声で叫び返した。

 

 「師兄、俺は大丈夫だ! それより、波有と甲ちゃんを見てやってくれ!」


 仮羅はハッと我に返り、慌てて二人の甥弟子たちを救うべく反転して飛び戻った。




 しかし、彼の目に飛び込んできたのは、あまりにも奇妙で、信じがたい光景であった。



 なんと、波有が空中浮遊する驕盧の、立派な鹿の角を優しく撫でていたのだ。



 全身が雪のように白い四不像は、大きな瞳をどこかおぼろげに潤わせ、極めて温和で優しい眼差しで彼女をじっと見つめ返していた。


 先ほどまで彼が全身から放っていた、冷酷さも傲慢さも、影も形も残っていなかった。




 四不像は静かに口を開き、波有に向かって語りかけた。


 「……ここは、お前のような者が足を踏み入れて良い場所ではない。早く下へお降り。お前の師匠や兄弟子たちの元へ戻るが良い」



 波有は涙ながらに彼に懇願した。


 「お願い、光の伯父様を傷つけないで。胡の伯父様も……。あの人たちはみんな、本当はとても良い人たちなの」



 遠くから見た仮羅は、肝を潰して叫んだ。

 

 「波有、すぐに手を止めるんだ! 早くそいつから離れろ!」




 ―――




 胡白と激しくもつれ合っていた李御も、背後の四不像の異変を敏感に察知していた。



 驕盧が放っていた冷酷極まる「凶暴な殺気」が、綺麗さっぱり消え失せているではないか。


 

 (しまったわ……!)


 李御の心に最悪の予感が走った。


 もしもこのまま驕盧が戦線を離脱し、自分一人だけで孤軍奮闘する羽目になれば、強力な師弟を前に、自分には万に一つも勝ち目など残されていない。




 彼女は喉を引き裂かんばかりの力を込め、甲高く鋭い悲鳴を張り上げた。


 「光驕盧! 光驕盧!! 一体何をしているの! 早く、早くこっちへ来て私を助けなさいッ!!」



 李御の狂ったような叫び声が、四不像の脳裏へと直接突き刺さった。


 その瞬間、彼の表情が一変した。




 彼は人間の姿へと幻化し――あの背が高く、細身で、白髪に黒い祭袍をまとった若い神官の姿へと戻った。


 しかし、瞳には異常なまでの氷冷たる眼光が宿っており、全身から禍々しい邪気を溢れさせながら、彼は目の前にいた波有の細い首を、凄まじい力で鷲掴みにした。



 そして、冷ややかに低く呟いたのだ。


 「……お前だったのか」



 波有は、首が容赦なく締め上げられていくのを感じ、またたく間に呼吸を奪われて、もはや彼が何を口にしているのかすら耳に届かなかった。




 突如たる凶変に、駆けつけた仮羅は驚愕し、激しい怒りに震えた。


 「その子を放せ! 彼女はまだ、ただの人間族の幼い娘ではないか! お前ほどの高貴な『神獣』たる者が、そこまで落ちぶれて恥というものを知らんのかッ!!」


 仮羅は激昂して突進したが、万が一にも波有を巻き添えにして傷つけることを恐れ、手にした鶴羽扇を妄りに振るうことができなかった。



 しかし、驕盧は仮羅の叫びを聞くや、フッと手の力を抜いた。


 

 すでに完全に意識を失ってぐったりとした波有の身体を、まるでゴミでも捨てるかのように、遥か眼下の地上へと無慈悲に投げ落としたのである。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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