第32話 奪われた小皇帝の心臓
青く澄み渡る白雲の空の下、場にいた者たちの目にはすべてが克明に映し出されていた。
そこには、飛ぶ鳥など一羽もいなかった。
ただ一人、黒い祭袍の裾をパタパタと翻した者が、白い神獣の背にまたがり、足元に黒雲をまとって空中に静止していた。
なんと、李御が突如として姿を現したのだ。
しかも、彼女が座乗しているのは「四不像」こと光驕盧であった。
まさに、かつて後霊が語った通り、四不像は鹿の角に馬の身体を乗せ、全身は雪のように真っ白で、足元に沸き立つ雲霧を文字通り踏みしめて宙に浮いていた。
李御は黒と赤が交錯する豪奢な祭服に身を包んでおり、吹き付ける風を孕んで衣を大きく膨らませていた。
豊かな長髪も風に激しく揺らめき、その佇まいは言葉に尽くせぬほど飄逸で世俗を離れており、まるで雲の端から地上へと降臨した神明のもののようであった。
祭壇の下にいた都の民たちは、誰一人として例外なく場に膝を突き、地に額を擦りつけた。
一斉に地鳴りのような咆哮を上げたのだ!
先ほどまでの「天佑吾皇(天は我が皇帝を守り給う)!」という叫びは、瞬く間に「天佑吾皇! 天佑太后(天は我が皇帝と太后を守り給う)!」へと変わっていた。
歓声もさらに耳を聾するばかりに響き渡った。
しかし、目聡い胡白は、李御の手元にあるものを見逃さなかった。
彼女は先ほどの儀式で小皇帝が捧げ持っていたはずの銀のトレイを掲げており、上には、人間の手のひらほどの大きさをした「血まみれの塊」が載せられていたのだ。
「……あれは、一体何だ!?」彼は驚愕の声を上げた。
隣にいた仮羅が、氷のように冷ややかに答えた。
「……小皇帝の、心臓だ」
胡白は目を見開き、言葉を失った。
「な、何だって……!? あ、あの女、これほど天理に悖る大逆無道な所業を、よくも平気で仕出かせたものだ!」
仮羅は奥歯を噛み締め、怒りを押し殺した声で言った。
「李御ごとき小悪党に、そこまでの肝っ玉などあるはずがない」
「ということは……師兄! まさか!?」
「その通りだ。胡白よ、我らの『大师兄』である、四不像の光驕盧が糸を引いているに違いない」
見上げれば、半空に佇む李御が、身にまとう極めて荘厳な衣装とはおよそ不釣り合いな、妖艶で甘ったるい嬌声を響かせて民衆に語りかけていた。
「不老国の民どもよ、謹んで聞くが良い」
「我が正体は、東方秀麗山は解脱院にまします『光如意羅漢』の門下が生、第一の弟子なり」
「この度、仮の凡身を借りて汝らの不老国へと降臨せり」
「いまや上天は、凡夫の一生が短く苦しみに満ちていることを深く憐れみ給い、この我に特異なる『不老不死の秘薬』を賜りたり!」
語り終えると、彼女は四不像を進め、民衆の目がはっきりと届く高さまで高度を下げて銀盤を高く掲げた。
「これなるは、我が愛児・順天の心臓なり!」
「 此度の上天の霊薬は、皇族の心肝を呼び水とせねばならぬ定め。我が都の民ら一統を救わんがため、我が身を裂く思いにて、愛しき我が子を犠牲と捧げたり!」
地に平伏していた民たちは、おぞましい言葉を聞き、血が滴る銀盤を凝視するや、誰もが恐怖に戦慄してガタガタと震え上がり、ただ頭を垂れるしかなかった。
中にはあまりの恐ろしさと衝撃の強さに、その場で気を失って昏倒し、二度と起き上がれない者すら続出した。
―――
李御の言葉が響き渡った直後、俄かに風が巻き起こり、雲が湧き出でた。
胡白が手にした「霜玉簫」を構え、一陣の風となって李御の眼前へと飛び上がった。
「いやはや、お姉様、随分と大層なご威風ですなぁ! 」
「我ら狐の妖など、せいぜい欲張ったところで居酒屋の焼き鳥を盗み食いする程度が関の山。お姉様は一体いつから好みが変わって、幼子の心肝なぞを好んで喰らうようになられたのですかねぇ?」
仮羅もまた、すかさず身を翻して雲の上へと躍り出た。
彼は凄まじい威圧感を放ちながら、一喝した。
「李御!お前が人間界で太后の座に恋々とし、権力を貪るだけであればまだ見逃してやった。だが、我が師匠の門人を騙ることだけは断じて許さん!」
「 あの御仁はすでに世を去られたとはいえ、至高なる名声をお前のような心根の捩れた残酷極まる妖婦によって泥に塗れさせるわけにはいかんのだ!」
李御はふんと首を振ると、酷く億劫そうに、小馬鹿にしたような態度で言い放った。
「どうせお互い、正体を晒した仲だわ。私が何をしようと、光仮羅、お前にとやかく言われる筋合いはないわね! 私たち、まだ結婚の儀を執り行ってすらいないのだから!」
仮羅は怒りのあまり顔色を変え、激昂して叫んだ。
「よくもまあ、結婚などという言葉を口から吐けたものだ! そんな婚姻など、俺は未来永劫、逆立ちしたって承諾するわけがない!」
胡白はあまりの呆れ返った言い草に、怒るのを通り越して笑いながら問い詰めた。
「お姉様、どうして我が師匠の弟子だと名乗りたがるのです? まさか、昔から、俺と師兄の境遇が羨ましくて羨ましくて仕方がなかったのですか?」
李御はひらりと四不像の背から降り立つと、少々きまずそうに、背後の驕盧を指差して答えた。
「……彼に聞きなさい。私にそう言えと命じたのは、あそこにいる男だよ」
―――
四不像は、頭上にそびえる見事な角をツンと高く反らせ、眼下にいる二人の師弟を完全に見下していた。
ゆったりとした、底意地の悪い笑みを漏らした。
「我が名は驕盧。汝らの言う通り、正真正銘の『大师兄(一番上の兄弟子)』だ」
「もっとも、そう言ったところで汝らは信じまいな」
「……どうやら今日という今日は、この我ときちんとひと勝負交えねば、汝ら、目上の者を敬うことを知らぬの不届きな小輩どもは、この世に己らをねじ伏せ、躾け直せる者が存在せぬと、思い上がったままでいるようだな?」
仮羅と胡白は、すでに後霊から話を聞いていたため、目の前の四不像が嘘を言っていないことを理解していた。
胡白の胸中には激しい憤怒が渦巻き、堪らず声を荒らげた。
「仮に不実でなくお前が我らの大師兄であったとしても、これほどまでに残虐非道な凶行が許されるはずがない! もし今も師匠がご存命であれば、お前のような狂気の沙汰の悪業を決して見過ごしにはされなかったはずだ!」
驕盧は首を傾げると、李御に向かって甘い声をかけた。
「なぁ、お嬢さん。見てごらんよ、お前の弟は、大師兄に対して随分と無礼極まる態度ではないか」
再び胡白の方へと向き直ると、冷徹に告げた。
「長兄は父の如し。ならば、世を去りし師匠に代わり、この我が直々に、不出来な小師弟を教育してやろうではないか」
彼が言葉を言い終えるか終えないかの瞬間、背後から眩い光が放たれ、一つの「琉璃の塔」が飛び出した。
驕盧が口内で呪文を素早く念じるや否や、塔は見る見るうちに巨大化し、まるで小山ほどの大質量となって、真っ直ぐ仮羅の頭上へと圧しかかってきたのだ!
誰もが、彼がこれほど神速の先制攻撃を仕掛けてくるとは予想だにしておらず、しかも狙いの矛先が、胡白ではなく、仮羅に向けられるとは思いもしなかった。
――それは、他ならぬ「光如意羅漢」が生前に愛用した至高の法宝であった。
師匠が亡くなられた後、光仮羅は確かに自らの手で、師匠の遺した二つの法宝を彫像の傍らに奉納し、屏風山の奥の院に厳重に安置したはずだったのだ。
四不像は、一体いかがなる手段を用いてそれを手中に収めたというのか? そしてなぜ、我が物顔で法宝を完全に使いこなすことができるというのか!?
仮羅は強烈な法宝の出現に一瞬気を取られ、驕盧の細かな動向への警戒を緩めてしまった。
僅かな隙が仇となり、相手の術中に完全に嵌まってしまったのである。
―――
師匠である光如意羅漢には、天下に名を轟かせる二大絶世法宝があった。
一つは「如意錫杖」、そしてもう一つが、今まさに目の前にある「如意琉璃塔」である。
光仮羅がまだ解脱院の門を叩いたばかりの、ただの悪戯盛りの禿頭の小童であった頃、彼は遊びが何より大好きだった。
当時から金色に爛々と輝く琉璃塔を「なんて綺麗なんだろう」と、時間を忘れてうっとりと眺め詰めていたものだった。
師匠も時には、彼に塔の肌に触れることを許してくれたが、「この物は極めて強大なる法力を秘めておる。我が許しなくして、決して妄りに動かしてはならぬぞ」と、厳しく言い含められていた代物だった。
まさか、かつて憧れた「如意琉璃塔」が、今日、自分を押し潰すための凶器として天から降ってこようとは夢にも思わなかった。
塔から放射される凄まじい超重量の法圧は、刹那の間に、巨大な岩によって胸元を真上から力任せに圧迫されたかのような衝撃をもたらし、仮羅の体内の気血は激しく逆流した。
全身の自由を完全に奪われ、指先一つ動かすことすらできなくなってしまったのだ。
「師兄――ッ!!」胡白が悲痛な叫びを上げた。
彼はすぐさま光驕盧の方へと向き直ると、激しい罵声を浴びせた。
「この卑劣極まる悪党めが! 何が大師兄だ、反吐が出るわ!」
光驕盧は眉一つ動かさなかった。
ただ氷のように冷徹な声で、李御に向かって冷酷な命令を下した。
「おい、狐妖よ。お前の番だ。……まさか、今更になって心変わりなどとは言うまいな?」
<あと書き>
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます!
皆様、昨日の台風は大丈夫だったでしょうか?
凄い大雨でしたが、電車が止まらなかったおかげで、私はきっちりいつも通りの通勤でした^^
ちなみに、昨日でついに10万字の大台を突破いたしました!
皆様の温かい応援のおかげです。
本当に、本当にありがとうございます……!




