第31話 祭天大典
胡白の気性からすれば、「師兄(仮羅)に仇なす者は、僕の敵」であった。
どのみち紙で火は包めぬのだ。
李御の仕出かした悪行を知ってしまった以上、進むべき道をはっきりと見定めるべきだった。
私情を捨てて正義を貫くことこそが、進むべき道理というものだ。
「あの赤狐め、師兄を裏切ったばかりか、僕のことまでコケにしおってからに!」
怒りのあまり、彼の見事な金髪は逆立ち、爆発したようになっていた。
「胡の伯父様、お髪が……」
伊蘭は、まるで威風堂々たるライオンのようになってしまった彼を見つめた。
そこには、普段の「君子蘭の如き」と称される優雅な面影など、どこにも残っていなかった。
胡白はブンブンと頭を振ると、クシャクシャになった金髪を揺らした。
懐から愛用の玉簫を取り出すと、遥か彼方の祭壇へと突きつけ、敵と不倶戴天の戦いを繰り広げるかのような大見得を切ってみせた。
「師兄! このままあそこへ乗り込んで、一から十まで問い詰めてやりましょう! でないと、胸がスカッと落着きません!」
「軽挙妄動は慎め、師弟よ!」
仮羅がそれを厳しく制した。
屏風山の山主は、いまや沈痛な面持ちで、深い懊悩の淵に沈んでいた。
先ほど、黄金の王座に座って幼い皇帝を抱く李御の姿を認め、さらに沿道の民衆の口から彼女が都で「太后」に収まっている事実を知った時、彼は一時の怒りに我を忘れ、理性を失ってしまっていた。
行き場のない憤怒のままに、彼は「光占羅盤」を取り出し、小亀を相手に当てつけのような真似をしてしまったのだ。
かつて修業時代にあった頃、師匠からは常々「占術を執り行う前には、必ず万全の斎戒と準備を尽くさねばならぬ。決して軽んじることなかれ」と言い含められており、それゆえに小亀も礼節を知っていた。
それなのに、彼は激怒のあまり後先を考えず、手慰みのように卦を立ててしまった。
ところが、導き出された卦象が示したのは、なんと「天も地も闇に包まれる」という、未曾有の大凶の卦であったのだ。
これには流石の彼も肝を冷やした。
占いを終えたの仮羅は、完全に頭が冷えていた。
心に湧き上がる言い知れぬ恐怖に冷や汗が止まらず、すでに背中の衣はぐっしょりと濡れそぼっている。
この不吉な卦の重さに比べれば、自分と李御との過去のいざこざなど、毛ほどの価値もない些事に過ぎない。
(しかし、胡白や三弟(伊高屋)たちにどう説明すれば良いのだ? 卦が示すのは、一体いかなる惨劇なのだ……?)
考えに考え抜いた末、彼はやはり隠し通すことはできぬと観念し、事の次第を胡白たちに告げることにした。
―――
話を聞いた一同は顔を見合わせ、水を打ったように静まり返ってしまった。
沈黙が流れる中、ようやく伊高屋が口を開いた。
「大兄上、お上がどう動くか仰ってくだされば、我らはただそれに従うのみにございます!」
胡白も続いた。「三弟の言う通りだ! 師兄、僕たちに指図をくれ!」
仮羅は、左から右へと全員の顔をゆっくりと見回した。
低く地を這うような声で静かに告げた。
「……今はまず、静観して変化を待つ。もし本当に何事か大異変が起きたならば、俺と胡白でそれを食い止める。」
「三弟は若い者たちを率いて、都にいる人間の民どもを避難させ、守るのだ。」
「俺が思うに、卦が示すこれほど不吉な兆しは、あるいは……間もなく始まる『祭天大典』の儀式そのものに呼応しているのではないかという気がしてならんのだ」
その言葉を聞くや否や、後一が波有の元へと駆け寄り、彼女の手を強引に握りしめた。
「小師妹、何があっても僕が君の盾となって守ってみせるからね!」
後一は、初めて波有を目にした瞬間から、彼女に一目惚れしていたのだ。
もともとこの師父と弟子の面々を観察するに、一番上の兄弟子である伊蘭はすでに既婚、二番目の伊貴は波有のことをただの幼い妹としか思っておらず、末の伊甲(小亀)にいたっては、ただの小さな子供でしかなく、恋のライバルとしての脅威は皆無のはずだった。
自分には大いに勝算があると考えていたのだ。
ところが、事態は急転直下した。
伊甲が本来の姿を取り戻してみれば、自分よりも遥かに整った顔立ちの、息を呑むような美少年ではないか。
これには後一も、ただならぬ危機感を抱かざるを得なかった。
(こうなったら、波有の前でこれまで以上に格好いいところを見せつけなくちゃならん。もしもあんな小さな伊甲に負けて、秀麗山へコソコソ逃げ帰る羽目にでもなってみろ。三人の弟たちの前で、長男としての威厳が丸潰れじゃないか!)
仮羅は、若者たちがまだそんな暢気なやり取りをしているのを見て、彼らがまだ若く、世の愛憎の縺れの恐ろしさを知らないことを思い、あえて恐怖を植え付けることもあるまいと考え直した。
彼はそれまでの険しい表情を一変させ、いつもの柔和な笑みを浮かべて一同に言った。
「まぁ、この祭天大典というものは、人間族にとっては国を挙げた最高位の神事なのだ。」
「たとえ儀式の最中ににわかに風雲が巻き起こり、天地が暗転したとしても、それもまた一つの天象であり、上天が下した何らかの啓示に過ぎん。」
「だから心配するな、卦象も、案外それほど恐ろしい意味ではないのかもしれんぞ」
その言葉を聞いて、誰もがホッと胸を撫で下ろした。
これほど高深な学問(占術)のことなど、仮羅がそう言うのであればそれが絶対であり、他には誰も理解できる者などいないのだ。
胡白は不満そうに唇を尖らせてぶつぶつと文句を言った。
「師兄、それを言うならもっと早く言ってくださいよ! もしかしてわざとですか? きっと僕を懲らしめるために、わざと大袈裟に言ったんだ!」
仮羅は手を伸ばし、彼の金髪の脳天をコツンと叩いた。
「お前はどれほど大層なツラをしているというのだ。お前一人を懲らしめるために、皆まで巻き添えにすると思うか?」
「……それもそうですね。僕にそんなツラはありませんでした」胡白は照れくさそうに乾いた笑いを漏らした。
―――
祭壇の下にひしめき合う、都の住民たちの万雷の如き期待の眼差しが注がれる中、ついに祭祀の始まりを告げる大太鼓の音がドンドコと鳴り響いた。
それに合わせて、厳かな祭礼の楽曲と、神を称える歌声が響き渡る。
胡白は退屈そうに衣の袖を引っ張りながら、不満げに吐き捨てた。
「……人魚たちの歌声に比べたら、へっぽこで聞いてられんわ」
ついに、白髪を蓄え黒い法衣をまとった老いの神官が姿を現した。
先頭を行く老人は、見るからに老骨に鞭打つといった様子で、大理石の階段を一段、また一段と、非常にゆっくりとした足取りで登っていく。
後ろには、同じく白髪に黒い法衣をまとった、背が非常に高く、細身の祭師が、やはり影のようにゆっくりと付き従っていた。
彼らの後ろに続き、太后・李御は小皇帝の手を引き、豪奢な祭服に身を包んで一歩一歩大理石の階段を登り詰めると、祭壇の前に向かって厳かに膝を突いた。
その瞬間、見守っていた都中の民衆から、耳をろうするばかりの歓声が沸き起こった。
「天佑吾皇! 天佑吾皇(天は我が皇帝を守り給う)!」
仮羅をはじめとする一同は、瞬き一つせず、儀式が一段、また一段と、荘厳かつ盛大に進行していく様を見つめていた。
最後に、小皇帝が祭師の手から銀の霊盤を受け取り、中に盛られた神聖な供物を口に運んだ。
これをもって、一連の儀式はすべて正式に幕を閉じたのである。
波有はすかさず仮羅に向かって訊ねた。
「光の伯父様、これで祭祀は終わったのですか?」
仮羅は安堵のため息を漏らし、破顔して言った。
「ああ、そうだとも。ご覧の通り、何事もなく無事に終わったよ」
張り詰めていた一同の心も一気に解きほぐされ、口々に笑顔が溢れた。
「あぁ、本当に良かった!」
後一は、これ見よがしに腕の引き締まった逞しい筋肉を誇示するようにさすりながら、わざとらしく笑ってみせた。
「やれやれ、これほどあっさりと終わってしまうとはね! 僕はてっきり、敵との大立ち回りの中で、どうやって君を美しく守り抜こうかと、そればかり考えていたのになぁ」
波有はハハハと調子を合わせて笑いながら受け流した。
「後の兄上、お気遣いありがとう。でも大丈夫、私には守ってくれる師兄たちがたくさんいますから」
そこへ伊蘭も悪乗りして割り込み、大袈裟な声を張り上げて冷やかした。
「いやぁ、後一師弟、実に遺憾だったねぇ! 君の『英雄が美少女を救う派手な活躍』の勇姿が見られなくて、本当に残念極まりないよ!」
伊貴たちも、賑やかな様子に誘われるように、こちらへと足を進めてきた。
小亀は、きょとんとした様子で首を傾げ、波有をじっと見つめて尋ねた。
「師姉、みんなで何をそんなに笑っているの?」
――美少年の姿となった小亀は、瞳は夜空に輝く一等星のように煌めき、唇は紅く、歯は白く、顔立ちも下手をすればうら若き少女よりも麗しかった。
それでいて、すらりと伸びた背丈は高く、佇まいはどこまでも清らかで、風に舞う雲のように飄逸としていた。
彼の真っ直ぐな視線を真正面から浴びた波有は、突如として、胸の奥がドギマギと激しく乱れ、頬がカッと熱くなるのを感じた。
生まれて初めて味わう気恥ずかしさと羞恥心に襲われた彼女は、動揺を隠すように、ありもしない虚空を指差して大声を張り上げた。
「あ、あれっ! 見てごらんよ、あそこに鳥がいるわ! 物凄い速さで飛んでいっちゃった! ……あ、もう見えなくなっちゃったわ!」
彼女が勢いよく空を指差したため、一同は釣られるように、一斉に波有が指し示した天の彼方へと目を向けるのだった。
<あと書き>
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
これからも波有たちの旅を温かく見守っていただけると嬉しいです。
面白いと思ってくださったら、お気軽にブックマークや評価、いいね等で応援よろしくお願いします^^




