第27話 傾国の太后
光仮羅が海辺の小さな漁村で伊高屋に「ここ二、三日、都で盛大な天を祀る大典が開かれているから、兄弟三人で見物に行こう」と提案した時、屏風山の山主は夢にも思っていなかった。
――都中を熱狂させているお祭りの仕掛け人が、他でもない、胡白の義理の姉、自身の婚約者の赤毛の狐妖・李御その人であるとは。
李御の目論見としては、大典を華々しく執り行った後に、屏風山へ戻るつもりだった。
少し前、御花園で催された「花宴」ののち、太后(李御)の傾国の美貌は都の内外に瞬く間に知れ渡り、今や街頭の至る所で噂話でもちきりだった。
「おい、聞いたか? あの神威大将軍が、花宴で太后様の御尊顔を拝した途端、魂をすっかり奪われちまってな。放心状態で屋敷に戻る途中に派手に転んで、腕をへし折っちまったらしいぞ」
「ああ、俺も聞いた。文部尚書の旦那なんて、普段は『風流』を自気取って、家に三十人以上も側室を囲って『毎日美女を取り替える』なんて豪語してただろ? それが花宴から帰るやいなや、側室たちを全員叩き出したって話だ!」
「それだけじゃない。老相国のじい様なんて、歳甲斐もなく太后様の肖像画を大広間に高く掲げて、四六時中うっとり眺めては賛辞を惜しまないもんだから、怒った正妻の婆様が実家に帰っちまったそうだ」
侍女の慧が楽しげに語る市井の噂話を耳にしながら、李御は心の中でますます得意になっていた。
「太后様、都の者たちが今いちばん心待ちにしているのは、近づく大典にございますよ。誰もが一日も早く、太后様のまばゆい御風采を仰ぎ見たいと囁き合っております。ウフフ!」
「……それほど大げさなことになっておいでなの?」
李御はだるそうに肘をつき、気のない風を装って尋ねた。
「ええ、左様にございます! この地を這うような凡夫どもめが、太后様のような仙女のごとき美貌を目にすることなど、滅多にあることではございませぬから」
李御は気分を良くし、手にした団扇で侍女の額を軽く小突いた。
「見かけによらず、あんたも随分と口が悪いねえ」
慧は主の口元が満足げに歪むのを見て、自分の言葉が李御の心の琴線に触れたことを確信した。
「太后様、大典の儀はなるべく早急に進められるのがよろしいかと存じます」
「屏風山のほうは、もう随分と長く留守にされております。山主様は現在、人魚島へ赴いておられるとのこと。山主様が屏風山へお戻りになる前にこちらの手続きを終えて帰着できれば、何事も安泰というものにございます」
李御は視線を落とし、少し思案した。
「お前の言う通りだね。万事に慎重を期すに越したことはないわ」
屏風山から連れてきた小妖の慧と葉の二人は、今や彼女の腹心となっていた。
頭の回転が早く、細部にまで気が回り、何より自分に絶対の忠誠を誓っているため、彼女からも深く信頼されていた。
李御は外に控える宮女を呼びつけた。
「すぐに順天皇帝と、葉妃をここへ呼びなさい!」
「それから……神威大将軍も呼びなさい。今回の大典の差配は、あの男に任せることにするわ」
―――
そもそも、先皇(先代の皇帝)は李御の美貌に狂わんばかりにのめり込み、他の女を一切寄せ付けようとしなかったため、後宮には李御の他に側室が一人もいないという異例の状態が続いていた。
しかし、彼女には一向に子が生まれず、しびれを切らした朝廷の大臣たちがこぞって「早く側室を立てよ」と諫言を重ねた。
困り果てた李御は、致し方なく自分の髪を結っていた宮女を身代わりとして先皇の夜伽に差し向けた。
宮女が一度の夜伽で身籠もり、生まれた小皇子に「李順天」の名が授けられたのである。
摂政を行うための「新たなる傀儡」を手に入れた以上、先皇の存在は彼女にとって余計な長物に過ぎなくなった。
小皇子が生まれて間もなく、先皇は「持病の悪化」という名目でこの世を去り、続いて小皇子の生母や、出産に関わった者たちも全員、なぜか不可解な失踪を遂げた。
その後、幼い李順天が新たなる皇帝として即位すると、李御は玉座の後ろに真珠の御簾を垂らし、幼帝を操って朝政の全権を握った。
太后となった彼女は、屏風山から連れてきた小妖の葉を「葉妃」の地位に引き上げ、小皇帝の傍らに置いて一緒に成長させた。
言うなれば、現在わずか十一歳の李順天は、葉妃が文字通り手取り足取りして育て上げたようなものだった。
李御は時に屏風山へ戻らねばならないため、常に皇帝の後ろに張り付いているわけにはいかない。
そんな時、彼女は決まって腹心の慧に自分の姿へと化けさせ、身代わりを立たせていた。
かつて「天下一の美人」と謳われ、十五歳で入宮して皇后となり、太后となった現在までちょうど二十年。
彼女の容貌は微塵も衰えることなく、それどころか当時を凌ぐほどの艶やかさと妖艶さを保ち続けていた。
朝廷の上下や宮中の者たちは、一様に「太后様は常人離れした美容の術をお持ちだ」と称賛し、ついには国名を元の名から「不老国」へと改めるよう進言したほどだった。
太后の美貌が永久に衰えず、青春が永遠に続くように、との願いを込めて。
―――
葉妃に手を引かれ、小皇帝が太后の寝宮へと入ってきた。
李御は慧に言いつけ、用意させておいた精巧で甘い茶菓子を皇帝に与えた。
彼女は昔からこの子に対しては至って優しく、何事かを強制するようなことは決してしなかった。
葉妃もまた、日々細心の注意を払って彼の世話をし、乳母としての職責を完璧に全うしていた。
「慧、皇帝を外へ連れていって食べさせておくれ。私には葉妃と話す大事な用がある」
さらに手を一振りし、周囲に控えていた宮女たちもすべて退がらせた。
広大な寝殿の中に二人きりになると、李御は手にした団扇で黒檀の机の上を指し示した。
すると、すでに一筆認められた一巻の詔書が、机の上に忽然と現れた。
「判を押しなさい」
葉妃は懐から、皇帝の権威を示す玉璽を取り出すと、主の命令に従って流れるような手つきで印を捺した。
「太后様、これは神威将軍への詔書でございますね? あの男はとっくに太后様の裳裾の前にひれ伏しておりますもの。今回の大典を彼に仕切らせれば、間違いなく華々しい祭典に仕上げてみせるでしょう」
「ふん、山主(仮羅)に比べれば、顔立ちは随分と見劣りするけれどね。それに、私の絶世の風采を、たった一人の男にだけ見せておくなんて勿体ないじゃないか。私は万民からの畏敬の念を一身に集めたいのだよ」
「当然のことにございます。太后様はこれなる世の一の美人。人族の俗物どもの男など、そもそも眼中に置く価値もございませぬわ」
葉妃は恭しく詔書を収めた。
口ではそう調子を合わせつつも、彼女の心の中には複雑な思いがあった。
(我が主と山主様が出会ってからもう随分になるというのに、未だに婚姻が成立していない)
(一方は千年の時を生きる老亀の妖で、何をするにも牛の歩みのごとく遅い。もう一方は天下の男を糞土のごとく見下す狐の妖で、常に『修行』を言い訳にしては婚期をだらだらと先延ばしにしている)
(……全く、これが良縁なのか、それとも悪縁なのか、分かったものではないわね……)
それから間もなくして、玉璽の鮮やかな朱印が捺された聖旨が、神威将軍の屋敷へと届けられた。
眉目秀麗な若き大将軍は、先皇の甥にあたる男だった。
身分の上では太后(李御)を「叔母上」と呼ばねばならなかったが、血縁の壁など、彼の叔母に対する烈しい慕情の前には何の障害にもならなかった。
花宴の当日、屋敷へ戻る道中も、彼は白く滑らかで清麗極まる太后の顔立ちを頭に思い浮かべ、完全に放心状態に陥っていた。
そのせいで、屋敷の立派な門檻に足を引っ掛け、目に見えて重そうに転倒し、哀れにも腕の骨をへし折ってしまったのだ。
屋敷の使用人たちは、将軍が怒り狂って八つ当たりを始めるのではないかと生きた心地がしなかった。
ところが驚いたことに、医師が将軍の腕に包帯を巻き終えるまで、将軍は終始、何が嬉しいのか不気味なほどニコニコと微笑み続けていたのだ。
まるで壊れたのが自分の腕ではなく、頭のほうであるかのように。
そして今、自分だけが特別な聖旨を受け取ったと知るや、彼の妄想はさらに歯止めが利かなくなった。
(朝廷の誰もが太后様に血眼になっているというのに、私だけが、大典を司る全権を委ねられた……。これは、いったい何を意味しているのだ? )
(……ああ、今夜もまた、一睡もできそうにない……)
<あと書き>
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