第26話 白衣蒼狗の如く
それからしばらくして、お宝を選んだのは伊蘭と伊貴の二人だけだった。
仮羅は不思議に思って尋ねた。
「三弟、お前はどうして何も選ばないのだ?」
伊高屋はぽっと顔を赤らめて言った。
「この数日というもの、光の大兄上、胡の二兄上、後霊の大姉上に出会い、これまでの人生で食べたこともないようなご馳走をたらふくいただき、見たこともないような絶景を目にしてまいりました」
気恥ずかしそうに身をすくめながらも、眼差しにはいささかの揺らぎもなかった。
「ハハ、人間、あまり強欲になってはいけませんな」
「弟子たちはまだ若いですから、身を護る法器を一つ持たせるのも良しとしますが、私はもう十分でございます。大兄上、お志だけありがたく頂戴いたします!」
伊念、雲英、小亀、後一の四人の若者たちも何も選んでいないのを見て、伊高屋は声をかけた。
「これほどの好機だというのに、お前たち、なぜ何も貰わないのだ?」
伊念は伊高屋と仮羅の前に進み出ると、床に膝を突いた。
「師父! 光の伯父様! 私は宝物など要りません。その代わりに、蔵書院に籠もって書物を読ませていただきたいのです。師父、私は皆様と一緒に都へ行かず、ここに残ってもよろしいでしょうか?」
仮羅と伊高屋は顔を見合わせ。
伊念に向かって優しく微笑んだ。
「本当に学問の好きな、感心な子だ! よし、お前は我が南海宮殿に残りなさい!」
師父は次に雲英に尋ねた。「お前はなぜ選ばないのだ?」
彼女は恥ずかしそうに答えた。
「師父、あまりに目が眩んでしまって、どれを選べば良いのか分からなくなってしまったのです。でも、大師兄が選ばれましたから、私が見守られているのと同じことですわ」
伊高屋をはじめ一同は、首を振ってため息をついた。「このお人好しめ」
後一と小亀も、特に目を引く宝物はなかったと言い切った。
伊高屋は心の中で(妖族ともなると、さすがに眼が高いな。二人の小倅どもが法術を使えば、師匠である私などより遥かに強いに違いない)と密かに苦笑した。
伊蘭が選んだのは、藍鮫の皮で作られた手袋だった。
極めて頑丈で、『四霊術』の中の『巨力術』に適していた。
伊貴もまた、似たような思惑を持っていた。
彼が選んだのは、水晶のように透き通った玉牌で、名を『氷水牌』といった。
敵と対峙した際、牌を掲げれば水を瞬時に氷の刃へと変えることができる。
伊貴は、『風火術』の中で風の法術を振るう際、氷の刃を織り交ぜれば、その威力は一気に何倍にも跳ね上がるだろうと踏んだのだ。
仮羅は彼らが選んだ法器を見て、しきりに感嘆した。
「三弟、お前の一門は本当に羨ましい限りだな! 人柄が良いだけでなく、眼力も一級品だ!」
伊高屋は謙遜した。
「大兄上、過分なお褒め、恐悦至極に存じます!」
口ではそう言いつつも、内心は得意満面だった。
二人の弟子は、これまでにも行く先々で自分に「過分なお褒め」をもたらしてくれる、自慢の種なのだ。
だが、次に波有の手首に揺れる鈴に目を留めた瞬間、彼はうっと眉をひそめた。
「お前が選んだ鈴は、いったい何の法器なのだ?」
波有は師父の目を盗み見る勇気がなかった。
今頃、師父はきっと髭を逆立てて目を丸くしているに違いないと思うと、首をすくめて蚊の鳴くような声で答えた。
「この鈴は……波の音がするんです。それに……とっても可愛いから」
仮羅は伊高屋の険しい視線に気づくと、すかさず間に入ってハハハと笑い飛ばした。
「若い娘御というものは、こういう綺麗な飾り物が好きなものさ。よし、実によく似合っているぞ!」
―――
伊念は念願が叶い、蔵書院に籠もって書物を読み耽ることとなった。
残された一行は、墨墨の名残惜しそうな、どこか寂しげな見送りの視線を背に受けながら南海宮殿を後にし、海面へと浮上して二枚貝の船に乗り込んだ。
光仮羅が再び法術を唱えて「日行千里」の速さで波を切ると、船はまたたく間に、都に最も近い海辺の小さな漁村へと辿り着いた。
同行していた小妖が銀貨の一錠を取り出し、村に一軒しかない宿屋を丸ごと貸し切った。
店に出される料理の品数は少なかったものの、久しぶりに目にする地上の景色に、伊高屋たちは心底から安堵のため息をついた。
(やはり、しっかりと大地を踏み締めている感覚こそが一番だ!)
伊高屋はあたりを見回した。
この場所には見覚えがある。
あと半日も道を急げば、豊城の小さな山丘にある、あの懐かしい道観へ帰れるはずだった。
新しく義兄となった仮羅たちに「一度、故郷へ戻るためここで暇乞いを」と切り出そうとしたちょうどその時、仮羅のほうから話をしようと歩み寄ってきた。
「大兄上、どうぞお先にお話しください」
伊高屋は、いつもの通り恭しく礼を執った。
仮羅は、彼のこういう鼻にかけない謙虚なところがすこぶる気に入っていた。爽やかに微笑みかけて応じた。
「三弟よ、そう堅苦しくするな。先ほどが店の店員から聞いたのだがね、都ではここ二、三日の間、天を祀る大典が催されているそうだ。噂では、それは見事な賑わいだそうでな。胡白が『一緒に行こう』と急かすのだ。」
「どうだね、三弟、お前たちも一緒に見物に行かないか?」
仮羅は少し苦笑いを浮かべ、言葉を継いだ。
「思えば妙なものだ。普段の俺なら、そういった俗世の喧騒を何よりも嫌う性質だったというのに……。」
「最近はどういう風の吹き回しか、心境が変わったらしい。」
「三弟の一家が賑やかに寄り添い合っているのを見ているうちに、どうやらそんな温かさを羨むようになってしまったようだ!」
伊高屋がかつて暮らしていた山丘は都のすぐ傍らにあり、ちょうど道すがらでもあった。
「それは願ってもないことです! ぜひ大兄上とご一緒させてください。都へ行けば、あのお調子者の小倅どもにとっても、良い見聞の機会になりましょう」
―――
一行は急ぎ足で食事を済ませると、小さな漁村を後にした。
起伏の激しい山道を半日ほど駆けると、夕暮れ時、ついに伊高屋の言う小さな山丘へと到着した。
――山丘とは名ばかりで、実際は少し大きめの黄土の小山に過ぎない。
頂には、いささかくたびれた道教の寺院がひっそりと佇んでいた。
中へ入ってみれば、瓦葺きの部屋が三棟あるきりで、中央が本堂、左右がそれぞれの寝所という、慎ましい造りだった。
時間としてはまだ夕暮れ時だというのに、中にいる道士たちは、すでに早々と床に就いてしまっているようだった。
伊高屋がしばらくの間、門を叩き続けると、ようやく寝ぼけ眼をこすりながら、一人の熱心そうな中年道士が重い大扉を開けた。
「……どちら様で?」
すぐにでも懐かしい師匠や師兄弟たちに再会できると胸を躍らせていた伊高屋は、不意を突かれて狐につままれたような顔になった。
彼は驚きを隠せない様子で問い返した。
「あなたは、いったいどなたですか? 元々ここに住んでいた道士たちはどうされたのです?」
すると中年道士のほうが怪訝そうに問い返してきた。
「お前さんたちこそ、どこのどなただね? この道観には他には誰も居らんよ。私と小弟子の二人きりだ」
その時、師匠の話し声を聞きつけたのか、小弟子も大慌てで衣服を引っ掛けながら駆け寄ってきて、師匠の袖を引いた。
「師匠、こんな夜更けに、この人たちは何をしに来たの?」
伊高屋の目から、にわかに大粒の涙が溢れ出た。彼は今にも泣き出しそうな声を震わせた。
「十八年前、私はここで修行するちっぽけな若造道士でした……。それからあちこち東奔西走し、ようやく、どうにか一人前の男として体裁が整い、弟子も授かりました。それで、師匠の前に戻り、無事の挨拶を申し上げようと帰ってきたのですが……」
中年道士はそれを聞くと、得心がいったように深く頷き、ため息をついた。
「そうであったか! ……だが、戻るのが遅すぎたな。五年前、ここはすっかりもぬけの殻の、荒れ果てた空き寺になっていたのだ。私と小弟子が四方を行脚していた際、誰もいないここを見つけ、それ以来住み着かせて貰っているのだよ」
いったい、何があったというのか。師匠や師兄弟たちは、なぜ皆いなくなってしまったのだろう。
この中年道士の言う通りだ。
すべては、自分が戻るのが遅すぎたのがいけない。
あと五年、いや、せめてもう数年早く帰ってきてさえいれば、あるいはもう一度、懐かしい顔ぶれに相見みることができたかもしれないのに……。
その夜、一行は道観にある二間の寝所に、身を寄せ合うようにして雑魚寝した。
伊高屋の心は重く沈み、夜もろくに寝付けなかった。
翌朝起き上がった彼の三角眼の下には、見るも痛々しいほど大きな黒い隈が浮かび上がっており、ただでさえ冴えない容貌が、いっそうみすぼらしく貧相に見えてしまっていた。
仮羅はそんな彼の肩を優しく叩き、諭すように言った。
「三弟よ、そう気を落とすな。世の理というものは、まさに『白衣蒼狗』、この茫々たる滄海のごとく、一瞬の澱みもなく移り変わっていくものだ。」
「お前が師匠や師兄弟たちと出会い、絆を結べたこと自体が、すでに得難い縁なのだ。こればかりは、天の巡り合わせに身を委ねるほかあるまい」
胡白もまた歩み寄ると、伊高屋の背中をぽんと叩いて励ました。
「三弟はこうして、師匠への挨拶のために遥々戻ってきた。至誠の『心根』があれば、それで十分ではないか。あなたの師匠が今どこにいようとも、想いは必ずや届いているはずさ」
伊高屋は、義兄たちの温かい気遣いに胸を熱くし、深く頭を下げた。
「大兄上、二兄上……。お二人の温かいお言葉、骨身にしみます。私は、必ずやここから立ち直ってみせます」
<あと書き>
最後までお読みいただきありがとうございます^^
もし「この先も波有一家の旅を見守ってあげたいな」と思ってくださったら、ページ下部の【ブックマーク】をポチッと押していただけると、作者が泣いて喜びます!




