第22話 僕は鹿ではない、四不像だ
波有は息をのんだが、答えることができなかった。
なぜなら、彼女の唇はまだ、旋律を紡ぎ続けていたからだ。
今の彼女は、ただ受動的に動かされているに過ぎない。
まるでネジを巻かれた時計が、己の意思とは無関係に一分一秒と時を刻んでいくかのように。
あたりは静寂に包まれ、黒い海水中、青い光を放つ海藻だけが歌声に合わせてゆらゆらと揺れていた。
やがて曲が終わり、波有はようやく正気に戻った。
先ほど鹿妖に問いかけられたことで胸が激しく高鳴り、潤んだ瞳でじっと見つめ返した。
「私のことを知っているのね!? でも、私は光という苗字じゃないわ。伊波有っていうの!」
濡れた鹿のような瞳に優しい光を湛え、じっと少女を見つめていた。
その声は清らかで、若い男のもののようだった。
「ああ、もちろん知っているとも。僕のことを覚えているかい?」
不思議なことに、波有の胸にそこはかとない哀愁が込み上げてきた。
彼女は首を振った。
「わからない……。あなた、名前は何ていうの?」
鹿妖の瞳に寂しさがよぎる。
「そうか。もう随分と時が流れてしまった。君が昔の君のままでいるはずがないな」
こう続けた。
「僕の名前は光驕盧。はるか昔、君とは知り合いだったんだ」
波有は目をきょろつかせて尋ねた。
「私の一番目の伯父様と二番目の伯父様も光という苗字なの。知り合いかしら?」
鹿妖は平然と微笑んだ。
「へえ、光という苗字は珍しい。あるいは、知っているかもしれないな。何という名前だい?」
「大伯父様は光仮羅、二番目の伯父様は光胡白よ」
鹿妖は首を振った。
「知らないな」
波有はがっかりした。
「ちぇっ、もし知り合いなら、伯父様たちに頼んで鎖を外す方法を考えてもらおうと思ったのに」
鹿妖は穏やかに笑った。
「ありがとう、波有。君の優しい気性は、昔と少しも変わらないね」
―――
歌声が途切れ、幻境から抜け出した伊貴と小亀は、波有の姿が見えないことに気づいた。
目を凝らすと、前方の巨石の下で、彼女が鹿妖と身を寄せ合って何やらひそひそと話しているではないか。
二人はそれぞれ「波有!」「師姉!」と叫びながら、血相を変えて駆け寄った。
鹿妖は二人を見やり、ぽつりと呟いた。
「新しい師匠ができたんだね。そうか、今は幸せに暮らしているようだ」
小亀が驚いて声を上げる。
「師姉、この子のことを知っているの?」
波有は振り返って答えた。
「知っているんじゃなくて、この人が私を知っているのよ。私の名前まで知っていたわ!」
伊貴は不思議そうに感嘆した。
「波有、もしかして、お前の前世も妖族だったんじゃないか?」
小亀を除いて、彼女が『人魚』であることは誰にも秘密にしていた。まだ皆に明かすつもりはなかったので、言葉を濁して返した。
「二師兄ったら冗談が上手なんだから! でも、もし本当に私が妖族だったら、師父や皆はどう思うかしら?」
「どう思うかって? 甲ちゃんを見れば一目瞭然だろう!」
「 師父からまるで老後の実子みたいに溺愛されているじゃないか。昔は、たまには『疲れていないか』なんて声をかけてくれたのに、甲ちゃんが来てからは、俺のことなんてちっとも気にかけてくれないんだからな」
二師兄はわざとらしく拗ねてみせた。
それを言われて、波有も思い当たった。
「本当よ! その通りだわ! 以前は私のやることにいちいち小言を言っていたのに、最近はあまり言わなくなったもの。でも、今の師父の私を見る目って、なんていうか……そう、『お前を相手にするのは面倒くさい』って目をしてるわ」
伊貴は師妹に口を尖らせた。
「だろう! 師父は今、ものすごく偏心しているんだ」
隣にいた小亀は、何とも言えない決まり悪そうな顔をして、いささか息苦しさを感じていた。
(二人して何を言っているんだよ? なんで話が僕のところに飛び火するのさ……)
鹿妖はそんな三人のやり取りを、優しく静かな眼差しで見つめていた。
「波有、君が今、とても幸せそうで安心したよ」
三人はようやく、話を本筋に戻した。
小亀が尋ねる。
「鹿の妖さん、君はどうしてここに押し潰されているの? それに、どうして僕の師姉を知っているんだい?」
鹿妖は答えるのを躊躇ったが、波有が目を輝かせて好奇心いっぱいに見つめてくるのを見て、ため息交じりに言った。
「僕は鹿ではない、四不像だ。僕の名前は光驕盧、忘れないでおくれ。それから、君はもう二度とここへ来てはいけないよ」
愛おしそうに三人を入念に見つめた。
「君が今、元気に暮らしていると分かっただけで、僕はもう十分に満たされている。……疲れた、もう行きなさい」
言い終えると頭を床に横たえ、再び目を閉じた。
―――
小亀ががっかりしたように言った。
「また眠っちゃったよ」
伊貴も声を沈めて言った。
「もう戻ろう。この鹿妖も、もう来るなと言っていただろう。聞こえなかったのか?」
波有は唇を噛み、首を横に振った。
容姿こそ息をのむほど美しく変わったものの、清らかな瞳の奥にある頑固な光は、以前の彼女そのものだった。
伊貴はそれを見て、心臓が跳ね上がった。
(まずいぞ、この子の強情っぷりが始まったら、九頭の雄牛で引っ張っても元に戻りゃしない)
「嫌よ! 私は絶対に、あの子を助け出す方法を見つけてみせるわ」
小亀が傍らで宥めた。
「師姉、あの子を縛っている法術は強すぎるよ。僕たちの手におえるものじゃない。きっと、主人だって無理かもしれないよ」
「やってみもしないで諦められないわ。」
「凶悪な妖獣じゃないと分かった以上、こんな一寸先も見えない暗い深淵の底で、ずっと眠らせておくわけにはいかないもの。」
「師弟、考えてもみてよ。もしあの子にも主人がいたら、その主人はどれほど悲しむかしら」
波有は小亀を説得するつもりで言葉を口にしたのだが、小亀はかつて仮羅が自分を髪飾りに変え、狐の妖への愛の証として贈ろうとしたことを思い出してしまった。
結果的には、主人が伊高屋の真心に打たれて思い直したため、小亀は念願叶って伊高屋の末弟子になれたのだが、それでも思い返すと胸がちくりと痛む。
(もし四不像に主人がいるとしても、きっと良い主人じゃない。もしかしたら、その主人自身がここに閉じ込めたのかもしれないな……)
「師姉、僕には分からないよ……。ただ、君や師父、師兄たちが僕にとても良くしてくれることは分かっている。」
「でも、僕の元の主人のことは……恨むことなんてできないんだ。その命令には、絶対に逆らえないからね……」
波有は自分が失言したと気づき、自分の頭をゴツゴツと二回叩いた。
「よく考えもせずに喋るんじゃないわ、私のバカ! 師弟、ごめんなさい。本当に悪気はなかったの。許してね」
伊貴も、光仮羅がかつて小亀をいじめていたことを思い出し、愛おしそうにその頭を優しく撫でた。
「まぁ、いいさ。甲ちゃんは今や師父の宝物なんだから、元の主人のことなんて、もう気にしなくていいんだよ」
<あとがき>
ついに、ついに来ました!
首を長くして待ち望んでいた、我らがラスボスの登場です! やっとお目にかかれました!
光驕盧(四不像)「遅い!」
――ひえっ、冷ややかな視線が痛い……!




