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波有伝説~海をゆく虹色の鱗【前編:人魚涙のブレスレット】  作者: 唯紅蓮真美(いちべにまみ)
第一章 邂逅

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第21話 あなたなの?

 


 鹿妖が目覚めた。


 しかも波有は目の前にしゃがみ込んでいる。


 もし襲いかかってきたらどうするのか。




 伊貴と小亀は生きた心地もせず、その光景を見つめていた。



 幸い、恐れていた事態は起きなかった。



 鹿妖の目は釘付けになったように、美しい少女をじっと見つめている。


 瞳には、喜びと悲しみが交互に浮かび、何かを訴えかけたいようでありながら、言葉にできないでいた。



 「私のことを知っているの?」


 波有は、鹿妖の激しい動揺を感じ取っていた。



 「どうして大きな岩に押し潰されているの?」



 それでも答えず、ただ悲しげな目で彼女を見つめるばかりだった。




 「師姉、たぶん脚の鉄鎖のせいだよ。禁呪のせいで喋れないんだと思う」


 小亀が波有のそばへにじり寄りながら言った。


 伊貴も意を決して鹿妖へと近づく。



 すると、先ほどまで微動だに しなかった鹿妖が、二人の接近に気づくなり、狂ったように角を振り回して暴れ狂った。


 だが、脚の鉄鎖に刻まれた禁呪が、にわかに眩い光を放つ。


 鹿妖は抗いきれず、がくりと頭を垂れると、再び深い眠りへと落ちていった。




 「ねえ! 待って、寝ちゃダメよ!」


 波有が必死に呼びかけたが、鹿妖は再び目を固く閉じ、ぐったりと横たわって動かなくなった。



 三人はしばらく様子を見たが、どうすることもできず、その場を後にした。




 上へ戻る際、小亀は元の姿に戻り、甲羅を食卓ほどの大きさに広げた。


 「二師兄、師姉、安心して。僕が揺らさずに泳ぐから」



 波有は唇を尖らせて不満をこぼす。


 「降りる前に言ってよ。おかげでお尻を強打しちゃったじゃない」



 小亀は思わず吹き出した。


「ごめんごめん! でも師姉、言う暇もなく飛び降りたのは君だよ」



 波有も思い当たり、口元を押さえて笑い合った。



 こうして甲羅に乗り、小亀が四肢を動かして、ゆったりとと泳ぎ上っていった。




 上に戻っても、波有はぶつぶつと文句を言っていた。


 「いったいどこの薄情者がこんな酷いことをしたのかしら。あんなに可哀想な小鹿を、海底の底に閉じ込めるなんて」



 小亀は仕方のない様子で諭した。


 「師姉が可哀想だと思う気持ちはわかるけど、あの子が昔どんな悪事をしてここに封印されたのかは分からないよ。」


 「それに見てよ、小山みたいな巨石に、あれほど強力な禁呪だ。あの鹿妖、相当な手練れに違いないよ。でなきゃ、こんな大がかりな手段で縛り付けたりしないさ」



 「さすが甲ちゃん、物知りだな! 幸いまた眠ってくれたからよかったものの、さっきは冷や汗が出たぞ」


 伊貴は当時の光景を思い出し、今になって背筋を凍らせていた。




 絶壁の上で待っていた伊蘭と雲英は、三人の話を聞いて眉をひそめた。


 「戻ったら師父に報告しなきゃな。本当は、勝手に抜け出して見に行くべきじゃなかったんだ。師父の許しも得ていないのに」



 波有は正論だと知りつつも、強弁した。


 「師父は泥酔してたんだから、報告したって聞こえっこないわよ」




 ―――




 伊高屋が目を覚ましたのは、翌日のことだった。


 自分が床でいびきをかいている間に大事件が起きていたと知り、もう二度と深酒はすまいと心に誓った。



 だが、起きて身支度を整えていると、昨夜の霊酒の効果が凄まじいことに気づいた。


 普段なら顔にできものの一つも落ちているはずが、肌はつるつるで、赤み一つない。



 自慢してやろうと急いで部屋を飛び出した拍子に、正面から来た波有と鉢合わせし、勢いよく数歩よろめいた。



 「師父! 大丈夫ですか?」


 波有がその身体を支える。



 顔を上げた伊高屋は、自慢しようとした言葉など綺麗さっぱり忘れてしまった。




 光の兄貴の霊薬は、効き目が強すぎる。


 昨日にも増して、波有は目を見張るほど美しくなっていた。


 これが本当に、あの醜かった末娘か。


 まるで別人のようだった。




 伊高屋だけでなく、朝食の席では、誰もが波有の姿に言葉を失った。


 もちろん、小亀を除いて。



 彼女が微笑むと、その美しさは微かに光を放つようで、誰も正面からその顔を見られないほどだった。



 光仮羅も、行宮の料理に含まれる霊薬にこれほど劇的な効果があるとは予想していなかった。


 小亀とは一心同体であり、彼が波有に対して覚える親近感は自分も感じている。だが、彼女の『人魚』としての正体までは見抜けなかった。




 美姫は昨日、若い弟子たちに目を留めていなかったが、今日初めて彼女を見て、その美貌に息をのんだ。


 彼女は美しい男を好んだが、要は美しいものが好きなのだ。


 誰かと一生添い遂げる気などなく、ただ美しいものに囲まれていたいだけ。今、南海宮殿で想い人と過ごせるだけで、十分に満ち足りていた。


 昨日、三人で蔵書院の書物を夜通し漁ったが、全体の十分の一も読めなかった。この調子なら、すべて読み終えるまでにまだ数日はかかる。


 それこそ彼女の望むところだった。




 食後、伊念も師父や伯父様たちの許しを得て蔵書院へ同行し、伊蘭は雲英に付き添って後衛の厨房へと向かった。魚の小妖たちがどうやって美味佳肴を作っているのか、見学するためだ。


 伊高屋は伊甲を部屋へ引っ張り込み、一刻も早く「四霊術(しれいじゅつ)」を伝授しようと躍起になっていた。




 伊貴は波有の不穏な空気を察し、小声で釘を刺した。


 「波有、まさかまた深淵へ行く気じゃないだろうな。昨日のことを思い出すだけで、俺は生きた心地がしないんだ」


 

 「でも、あんな大きな岩の下で、鉄鎖と禁呪に縛られて動けないのよ? 何を怖がることがあるの?」



 そう言われてみれば、確かに怖がる理由などないようにも思える。


 「とにかく、もう行ってはダメだ」と伊貴は表情を引き締めた。



 「二師兄、まさか師父に告げ口する気?」


 波有がじっと見つめる。



 伊貴は師父の名を出して脅すつもりだった。


 だが、琥珀のような大きな瞳、上下に並ぶ黒く長い睫毛がパチパチと瞬くのを見た瞬間、羽ばたきが胸の奥を激しく揺さぶった。


 「 そんな目で見るな! ――わかった、わかったよ、俺の負けだ! 師父には絶対に言わないから!」



 伊貴は袖で顔を隠し、必死に顔を見まいとした。少し考えてから付け足す。


 「どうしても行くというなら、少し待て。甲ちゃんが師父の部屋から出てきたら、三人で行こう。彼がいないと、降りられても上がってこられないからな。」


 「それに万一のことがあっても、甲ちゃんは水族だし、光の伯父様の分身だ。俺たちより術の心得もあるだろう」



 波有は微笑んで頷いた。


 小亀とは一番の仲良しだ、二師兄の提案に異論はなかった。




 ―――




 待つ時間はさほど長くはなかった。



 小亀は師父の部屋に入ったかと思うと、まもなくぴょんぴょんと跳ねながら出てきた。


 

 伊高屋はこれほど聡明な弟子を教えたことがなかった。


 一を言えば、またたく間に三まで理解してしまう。


 長く一緒にいればいるほど愛おしさは増し、この末子が片時も手放せなくなっていくのを感じていた。



 一日の予定だった講義は、線香一本に満たぬ時間で終わってしまった。


 弟子は元気いっぱいで、むしろ師父の方が疲れ果てていた。



 「師父、僕、師姉と遊んできます!」



 「ああ、行け、行け……」



 一番休みたかったのは師父だった。


 昔の弟子たちを教えていた時は、これほど疲れなかったはずなのに。




 二師兄の伊貴と波有は小亀を迎え、三人は慣れた足取りで再び深淵へと向かった。


 ただし、今回は備えがあった。


 事前に墨墨から、大きくて明るい夜明珠を借りておいたのだ。




 鹿妖は相変わらず眠っていた。


 伊貴たちは、本当は来るべきではないと分かっていたが、波有の熱意に押し切られて、やむなく付き添ったのだ。


 伊貴にしても、鹿妖が禁呪で鎮められており、動くことも何もできないことは知っている。せいぜい、可哀想な姿を一目見れば、波有もすぐに納得して帰るだろう、高を括っていた。




 今回、深淵の底に降り立つなり、波有は小亀が人の姿に戻るのも、二師兄の制止も待たず、一人でまっすぐに巨石の下へと駆け寄った。


 そして手を伸ばし、鹿妖の長い角をそっと撫でた。


 (こんなに可愛らしいのに、どうしてこんな目に遭っているの? 誰があなたをここに閉じ込めたの?)




 思えば思うほど、瞳に大粒の涙がこみ上げてきた。


 その時、悲しくも美しい歌声が、静まり返った深淵の底に流れ出した。



 ――人魚島で、『人魚涙のブレスレット』から流れていた歌だった。



 伊貴と小亀は、これほど美しく、切ない旋律を聴いたことがなかった。


 周囲の景色が、すべて消え去っていくような錯覚に陥る。


 ただ曲だけが彼らを包み込み、頭のてっぺんから爪先まで、底知れぬ哀愁に満たされていく。意識が朦朧とし、他の何もかもを忘れ、ただ果てしない凄涼の海に沈んでいくようだった。




 岩陰で、鹿妖がゆっくりと目を開いた。


 目の前の少女を見つめる大きな瞳にも、涙が溢れていた。



 「――光波有。あなたなの?」


 鹿妖が、言葉を発した。



<あと書き>


最後までよんでいただきありがとうございます。


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