第20話 無鉄砲な少女
師父をよってたかって寝かしつけると、大広間に戻り、先ほどの騒動についてあれこれと話し合った。
墨墨は、目覚めた妖獣が襲ってこぬよう、タツノオトシゴの兵を率いて宮殿を厳重に包囲させていた。
円筒は主のことが心配でたまらないらしく、広間を行ったり来たりしている。その姿は、名前に違わず、まるで転がる泥団子のようだった。
波有たちが固唾をのんで待っていると、光仮羅たちが戻ってきた。
「もう大丈夫だ。見てきたが、淵の底の妖獣はまだ眠っている。大きな危険はなさそうだから、皆も心配するな」
彼は一同を見渡して微笑んだ。
伊蘭が我慢できずに尋ねる。
「光の伯父様、いったいどんな妖獣だったのですか?」
「姿を見る限り、鹿の妖のようだな。どうしても凶悪な妖獣には見えなかった」
胡白も笑って付け足した。
「獰猛どころか、むしろ可愛らしいくらいだったよ」
美姫だけは不機嫌極まりなかった。
先ほどの出来事が、もくろみ通りに運ばなかったからだ。
妖獣の目覚めをきっかけに仮羅たちを協力させ、三人で手を携えて再び巨石の下に封印する――それが彼女の算段だった。
計画が狂って妖獣は眠ったままだが、手ぶらで北海へ帰るわけにはいかない。
どうにかして、この美男子二人と少しでも長く一緒に過ごす方法はないものか。
主の心を誰よりも察する円筒が近づき、耳元でそっと囁いた。
美姫はにやりと頷くと、ゆっくりと仮羅に歩み寄り、しなだれかかるように声をかけた。
「光山主、あの妖獣の素性をご存知かしら?」
(初めて見たのに、知るわけがなかろう)
仮羅は内心の不快感を押し殺し、礼儀正しく一礼した。
「美姫宮主、ご教示願いたい」
美姫は白粉をこねた餅のような顔を引き締め、わざとらしくため息をついた。
「遥か昔にあれを見つけて以来、内殿の蔵書院で調べ尽くし、記録を見つけたのです。ただ、あまりに昔のことでよく覚えていなくて。山主様は書院で書をご覧になったことは?」
南海の主となってからも、仮羅がこの宮殿に留まることは稀で、大半は屏風山で修行していた。胡白を誘って人魚島へ行く帰りに立ち寄る程度で、蔵書院など入ったこともない。
きまり悪そうに頭をかいた。
「そのような場所があったとは。不調法ながら存じ上げなんだ」
主のために知恵を絞る円筒は、心の中で快哉を叫んだ。
(そうだ、光山主! うちの宮主はその言葉を待っていたんだ!)
案の定、美姫は怒ったふりをして、勢いよく立ち上がった。
「この宮殿を大事にせず、南海の覇者たる気概もないというの? ならばなぜ、あのとき私のような、か弱いおなごに酷い真似をしたのです!」
円筒もこれ幸いと調子を合わせる。
「宮主が北海へ戻られてから、どれほど傷つかれていたか、山主様はご存知ないのです」
胡白は傍らで呆れ返っていた。
(あの時、手加減などできるわけがないだろう。負けていたら、今頃二人とも愛人にされていたのだから。本当によく言うものだ)
だが、昔の恨み言を並べる場でもない。
胡白は愛想笑いを浮かべてお調子者を装った。
「僕も南海の蔵書院には行ったことがありません。宮主、ぜひ案内して、我らの見聞を広めてくれませんか」
美姫の目がらんらんと輝き出した。
蔵書院へ行けば、二人とたっぷり時間を過ごせる。
これぞ妙案だ。
想像するだけで笑みがこぼれる彼女に、円筒がすぐさま応じた。
太く短い手のひらを差し出し、案内を請う。
こうして、三人は一陣の風のように戻ってきたかと思えば、円筒を連れて再び一陣の風のように去っていった。
―――
波有は、胡白が「可愛い鹿の妖で、ぐっすり眠っている」と言っていたのを聞き、無性に見に行きたくなった。
思い立ったらすぐ行動するのが彼女だ。
さっそく皆に意見を伝えた。
伊念を除き、誰もが賛成して手を挙げた。
伊念は末師妹の言うことには興味がなかった。
それどころか、鼻で笑ってさえいる。
(醜いやつほどよく騒ぐ。本当に無鉄砲な娘だこと)
心の中で毒づきながら、まぶたを伏せた。
「みんなで行ってくれば。誰かが残って師父の面倒を見なきゃいけないでしょ?」
もっともらしい言い訳だが、残る理由は他にあった。
無類の書物好きである彼女は、美姫の口から「蔵書院」の名を聞き、羨ましくて仕方がなかったのだ。
(ここに残って、伯父様たちが出てきたら、何とか頼み込んで中に入れてもらおう)
こうして、師父が酒に潰れ、伯父様たちが書物を漁っている隙に、少年少女たちは宮殿を抜け出した。
幸い、妖獣が眠っていると知って警戒を解いた墨墨たちは、周囲を見張っていなかった。
光仮羅の分身である小亀は、主の記憶を完全にたどることができた。
案内のおかげで、遮るものもなく、一行はあっさりと深淵の絶壁へと行き着いた。
「甲ちゃん、本当にここから飛び降りるの?」
雲英が底知れぬ暗闇を見つめ、唾を飲み込んだ。
伊蘭が歩み寄り、手を優しく握る。
「怖いなら、上で一緒に待っていようか」
波有も少し怖かったが、好奇心が勝っていた。それに、下には危ないものは何もないと小亀が言っている。
「大師兄と雲英姉さんは、ここで待っていて。戻ったら下の様子を教えてあげるから!」
「気をつけてね、ゆっくり降りるのよ」と雲英は見送った。
―――
小亀の記憶では、光仮羅たちはふわり、ふわりと、実に優雅に降りていったはずだった。だが、自分たちの時はどうしてこうも違うのだろう。
三人はまるで古井戸に落ちた小石のように、暗闇の中をひたすら真っ逆さまに落ちていった。
ドスン、ドスンと鈍い音が響き、そのあと静寂が訪れた。
長い沈黙のあと、か細い声が響く。
「みんな、生きてる? 二師兄、師弟?」
伊貴は朦朧としながら呼ばれる声を聞いた。身を起こして、今の衝撃を思い出す。
幸い、床には厚い海藻が敷き詰められており、全身の痛みを除けば怪我はなかった。
明かりを灯そうと「風火術」を使おうとしたが、海中では火が点かないことにすぐ気づく。
あたりは一寸先も見えない闇だ。
師妹の声はすぐ近くから聞こえるが、姿は全く見えない。
「波有、ここにいるぞ。怪我はないか? 甲ちゃんは?」
伊貴は少し後悔した。飛び降りる前にもう少し計画を立てるべきだったと。
波有が勢いよく飛び降りるものだから、後に続く者も石を鍋に放り込むように、釣られて飛び降りるしかなかったのだ。
「二師兄、僕は大丈夫だよ」と背後から小亀の声がした。
ひとまず全員の無事が確認できたものの、何も見えないのは困りものだ。
「誰か明かりになるものを持っていないか?」
尋ねても、二人からは返事がない。
人魚島にあったような夜明珠があれば海中でも照らせただろうが、あのような高価な品が、貧しい伊高屋一家にあるはずもなかった。
途方に暮れていたその時、周囲がじわじわと明るくなり始めた。
足元の海藻が、淡い青色の光を放ち始めたのだ。
だが、顔を照らす様子は、なんとも不気味だった。
「師弟、ものすごい顔になってるよ、あははは!」
「師姉こそ、ははは!」
二人は先ほど無様に落ちてきたことなど、すっかり忘れて笑い合っている。
伊貴は無事な様子を見て胸をなでおろした。
ここには年長者としての重い責任がある。
特に伊甲師弟を怪我でもさせたら、師父にどんなお仕置きを受けるか分かったものではない。
波有と小亀がまだふざけ合っていると、伊貴の驚愕した声が響いた。
「見ろ! 鹿妖があそこにいるぞ!」
光仮羅たちが見た光景が、三人の目の前にも現れた。
途方もなく巨大な岩、尖った先端が、小鹿の体に刃のように突き刺さっている。
女子の心は脆いものだ。
これほど愛らしい小鹿が、山のような巨石の下で不憫に耐えている姿を見て、波有は居ても立ってもいられなくなった。
目を固く閉じ、大石の下に横たわる姿に駆け寄ると、その角に触れて呟いた。
「見て、なんて可哀想なの……」
伊貴が色をなして叫んだ。
「 いけない、手を離せ!」
小亀も心臓が跳ね上がった。
(鹿の妖獣さん、お願いだから絶対に起きないで!)
小亀の祈りが適当すぎたのか、それとも彼女の愛撫が優しすぎたのか。
――パチリ、と。
鹿妖が目を開けた。
波有は、澄み切った透明な大きな瞳と、真っ正面から視線を交わした。
あまりの突然のことに、状況が飲み込めないまま、至近距離で口をついて出た。
「……起きたの?」
<あと書き>
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