第19話 深淵の鹿妖
光仮羅は、もったいぶって現れた女を冷ややかに見やり、苛立ちを隠さず問うた。
「北海宮主、今日はいったい何の用だ?」
美姫はそれを聞くと、艶然と微笑んだ。
(決まっているじゃない。あなたたち二人のいい男に会いに来たのよ)
心の中でそう毒づきながら口を開く。
「光山主、胡仙人。数年ぶりにお会いしましたが、相変わらずお見事な風采で」
胡白はこの老女のしつこさに辟易しており、遠回しに追い出しにかかった。
「折悪く、今日は客人が来ているのだ。昔話なら、また別の機会にしてもらえないか」
美姫が悲しげに眉をひそめると、一同は思わず身を引いた。白粉が厚すぎて、顔を動かすたびに粉がボロボロと剥がれ落ちたからだ。
「胡仙人、そう冷たくしないでちょうだい。今日は山主様に、極めて重大な話があって参ったのです」
嘘を言っているようには見えず、仮羅は先を促した。
「……聞こう。何の話だ?」
美姫は足元の床を指差して言った。
「この南海は三百年前に主が変わりましたが、海底の深淵に妖獣が封印されていることはご存知かしら?」
全く心当たりのない話に、仮羅は眉を寄せた。
「何のことだ?」
「千年ほど前、ここを根城にしていた頃から、深淵には正体不明の仙人によって禁錮された妖獣が眠っておりました。それが近頃、目覚めの兆しを見せているのです。宮殿で、何か異変はありませんでしたか?」
先ほどの揺れを思い出し、仮羅の表情が険しくなる。
揺れは、そのせいだったのか。
「墨墨、お前は常に宮中にいる。心当たりは?」
「はっ、大王。確かにここ数日、先ほどのような小さな揺れが何度かございました」
嘘でないとすれば、千年前の妖獣が目覚めようとしていることになる。それほど長く封印されていたとなれば、相当な法力を持っているに違いない。
思わぬ事態に、仮羅は一瞬言葉を失った。
「そう心配なさらないで。目覚めつつあるとはいえ、呪文の刻まれた鉄鎖で縛られ、巨石の下に押さえつけられています。すぐに出てくることはできませんわ」
仮羅の顔色が変わったのを見て、美姫は内心ほくそ笑んだ。
実は十数年も前から、妖獣の目覚めは予見していた。
だが、その頃の仮羅は屏風山にこもりきりで、宮殿には墨のように黒い海夜叉しかおらず、わざわざ来る気になれなかったのだ。
今回、二人が人魚島から戻ったことを聞きつけ、時を計って乗り込んできたのである。
美姫は軍師の円筒と目配せを交わすと、さらに言った。
「山主様、私と共に深淵へ赴き、様子を確かめてみませんか?」
仮羅は頷き、胡白を誘った。
「師弟、お前の道力があれば心強い。一緒に行こう」
そして伊蘭たちに言い含めた。
「師父は酔い潰れている。しっかり介抱してやりなさい。我らはすぐに戻る。何かあれば墨墨に。戻るまで、決して宮殿の外へ出てはならんぞ」
光の伯父様は実に細やかだ。
波有たちは一斉に応じた。
美姫は動きの鈍い円筒を足手まといと思ったのか、彼を宮殿に残し、一行は出発した。
―――
三人は宮殿を出て、深淵を目指した。
いずれも法力高き大妖である。
海中を飛ぶように突き進み、ほどなくして目的地に辿り着いた。
そこは切り立った絶壁が行く手を阻み、下には底知れぬ暗闇が広がっていた。
仮羅が夜明珠で照らそうとすると、隣から作り物めいた嬌声が上がった。
「光山主、珠は仕舞ってくださいな。私以上に明るい存在など、この世にありはしませんわ!」
美姫が裾を揺らして術を唱えると、たちまち全身が太陽のごとく輝き出し、深淵の底までを煌々と照らし出した。
笑い声と共に、彼女のほうれい線からは塗りすぎた白粉が雪のように舞い落ちた。
美姫の正体は電気ウナギである。
光り輝くことなど、彼女にとっては朝飯前だった。
「光山主、胡仙人、そう緊張なさらないで。昔、一度降りたことがありますが、妖獣はずっと眠りこけたままで退屈でしたわ」
美姫の軽い口調に、仮羅もわずかに安堵した。
恐ろしい魔物かと思ったが、案外それほどでもないのかもしれない。
三人は絶壁に沿って、ふわりと舞い降りていった。
岩壁には赤や緑の海藻がびっしりと張り付いており、美姫の放つ光に照らされて、幻想的な風景を作り出していた。
まるで見物でもするかのように、三人はゆったりと下降していく。
しかし、降りても降りても底が見えない。
海藻の姿は消え、荒々しく削られた岩肌だけが続いた。
(まさか、底なし沼ではあるまいな?)
胡白は少し不安になり、焦れたように問うた。
「宮主、ここはどこまで深いのだ? いったいどこまで続く?」
美姫は光の中に浮かび上がる胡白の端正な顔を見つめた。
緊張に強張る顔もまた清らかで美しく、たなびく長髪は風流な少年のようだった。
彼女はわざと怖がらせようと、嘘をついた。
「さて……私も久しぶりで、よく覚えておりませんわ」
だが、仮羅はすでに妖獣の気配を察知していた。胡白の袖を引く。
「近いぞ。師弟、気をつけろ」
―――
案の定、まもなく三人は淵の底に降り立った。
底は円形の広場のようになっており、厚い海藻が絨毯のように敷き詰められていた。
中央に、小山ほどもある巨石が逆さまに突き刺さっていた。
「あの岩の下に、妖獣がおりますわ」
美姫が指差す。
仮羅と胡白は、千キロはあるだろうその巨石を見て、顔を見合わせた。
北海宮主の言葉は真実だったようだ。
並の妖であれば、押し潰されて塵になっているはずである。
美姫は恐れる様子もなく、柳のような腰をくねらせて巨石へと歩み寄った。
二人もその後に続く。
「ねえ、小さい妖獣さん。もう起きたの?」
彼女が呼びかける。
光に照らされたその姿を、仮羅と胡白はまじまじと見つめた。
(これは……何の妖だ?)
鹿のようだが、角がなければ馬にも見える。
もっとも、鹿と馬はもともと似た生き物だ。
だが、その鹿妖はあまりに長く眠っていたためか、皮毛の面影はなく、全身が暗緑色の海藻に覆われていた。
海底に横たわる腹部には、巨石の尖った先端が刃のように深く突き刺さっている。
四つのひづめは鉄鎖で繋がれ、禁呪の光が微かに明滅していた。
鹿妖は目を閉じたまま、微動だにしない。起きる気配もなかった。
「どうしたの? まだ寝ているの? 起きたんでしょう?」
美姫が声を張り上げ、再び呼びかけた。
(おかしいわ。確かに、目覚めの鼓動を感じたはずなのに……)
<あと書き>
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