第18話 北海宮主
光仮羅は魚の小妖たちに命じて宴をやり直させ、子供たちの席には「霊薬鶏」を多めに出させた。
一方、こちらの席では、人間の義弟のためにさっぱりした酒の肴を用意し、その代わりに高価な霊酒を惜しみなく並べた。
伊高屋は、伝説でしか聞いたことのない霊酒を初めて口にした。
たった一杯飲んだだけで全身がポカポカと温まり、力がみなぎってくる。
目の前の机や椅子など、ひと振りで粉砕できそうな万能感に包まれた。
向こうの席では、海夜叉の墨墨が弟子たちの隣に座っていた。
彼らが山主の甥っ子になったと聞き、心底羨ましく思った墨墨は、甲斐甲斐しくも丁寧にもてなしていた。
伊念は鶏を食べながら波有に尋ねた。
「師妹、昨日は何羽食べてそんなに変わったの?」
波有は隣に座る小亀のために海老の殻を剥いてやっていた。ずっと足の中に隠れていたのだ、お腹が空いているに違いないと思ったのだ。
波有は適当に生返事をした。
「さあ、覚えてません。念師姉、とにかくたくさん、たくさん食べたんですよ」
「ふうん、わかったわ」
伊念はそう言うと、ひたすら鶏肉を自分の器に放り込んだ。
小亀が波有の耳元に口を寄せ、こっそりと囁いた。
「無駄だよ。いくら食べても無駄なんだ」
声が小さすぎて、よく聞き取れない。
「 もっと大きな声で言ってよ。何が無駄なの?」
波有が大声を出したせいで、周囲の視線が一斉に集まった。
小亀は照れ笑いを浮かべて誤魔化した。
「なんでもないんです。師姉と冗談を言っていただけで」
再び耳元で囁く。
「大きな声じゃ言えないよ。みんなが怒っちゃうから」
「どうして?」と波有は不思議そうにした。
「例の霊薬入りの鶏だけど。綺麗になったのは、鶏のせいじゃなくて、君自身の人魚としての本質が戻ってきたからなんだ。だから、他の人たちがいくら食べたって意味がないんだよ」
波有は口に運んでいた手羽先を驚きで詰まらせそうになった。
「どうしてそんなこと知ってるの?」
「師姉、人魚島にいた時、ひどく泣きながら『誰かが私を呼んでる』って言ったのを覚えてる?」
「もちろん覚えてるわ。自分でも訳が分からないくらいたくさん涙が出たもの」
「あの時、主人たちが島の家宝『人魚涙のブレスレット』を見ていたんだ。あれから悲しい曲が流れて、君を呼んでいたんだよ」
―――
波有はもう鶏を食べるどころではなくなった。
当時の情景を思い返す。
小亀は周囲を伺い、誰も見ていないのを確認して続けた。
「あれは、もともと君のものだったんじゃないかと思うんだ。」
「島を出る日、僕を指の間に入れた時、ブレスレットもそこにあるのが見えたよ。それがだんだん小さくなって消えたんだ。きっと、君の体の中に入ったんだね」
「僕は思ったんだ。」
「もし元々君のものなら、体に戻れば人魚の本質もゆっくり戻ってくるはずだって。案の定、容姿が変わってきた。きっと、かつての法力も戻るはずだよ」
「人魚涙のブレスレット? それがどうして私のものなの?」
「僕だって全部わかるわけじゃない。例えば、僕だけが君の人魚の気配を感じ取れる理由も、未だに謎なんだ。法力なら主人や胡仙人の方がずっと上なのに、彼らには見抜けなくて僕にはわかる」
小亀はぷくぷくとした小さな手で、親愛を込めて波有の肩を叩いた。
「きっと、師姉とは深い縁があるのか、前世で貸しがあるのか……とにかく不思議な感覚なんだ。最初に会った時から妙に親近感があって、ずっとそばにいたいと思ったんだ」
波有は狐につままれたような気分で鶏肉を飲み込んだ。
「色々聞いたけど、結局よく分からないわ……」
「まあ、ゆっくり行こうよ。主人も許してくれたことだし、一緒に考える時間はたっぷりあるから」
小亀は可愛らしく微笑んだ。
―――
朝、波有の整った顔を見て以来、伊念は面白くなかった。
以前はあんなに醜かった末弟子が、自分より美しくなるなんて。
鶏の霊薬のせいだとは信じたくなかったが、他に方法もなく、大して好きでもない鶏肉を無理やり口に押し込む。
気分は最悪だった。
「師妹、また師弟とコソコソ何をお喋りしてるの? 一日中二人で秘密話なんて、私たちには聞かせられないこと?」
「念師姉には関係ないでしょ。いつもは静かなのに、今日はよく喋るわね」
波有はまともに相手にしなかった。
師姉と呼ぶのは単に自分より年上だからであって、恐れてはいない。
自分は修行歴も長く、幼い頃から師父や師兄たちと各地を渡り歩いてきた。
法力もおそらく彼女より上だ。
伊念は「ふん」と鼻を鳴らして黙り込んだ。
口喧嘩では一度も波有に勝てないのだ。
あちらの席では、伊高屋がまたしても酔い潰れていた。
霊酒があまりに美味すぎたのがいけない。
飲んでいるうちに、壁に掲げられた夜明珠がゆらゆらと揺れ始めた。
仮羅は自分が酔ったかと思った。
続いて、宮殿全体がゆっくりと左右に揺れ始めた。
一体何事だ? 酔い潰れた伊高屋を除き、全員が立ち上がって顔を見合わせた。
だが、揺れはすぐに収まり、再び静寂が戻った。
「墨墨! 何があったか見てこい」
仮羅が命じると、海夜叉は「はっ!」と応じて駆け出した。
大広間の門を出たかと思うと、すぐに引き返してきた。
「山主! 北海宮主の美姫様がお見えです。門の前で面会を求めております!」
仮羅と胡白は顔を見合わせた。
「私が戻ったのを、なぜ知っている?」と師兄。
「どこかに眼光があるんでしょうな」と師弟は目を細めた。
もう玄関先まで来ている。逃げるわけにもいかない。
「……美姫をお通ししろ」
伊高屋の弟子たちは「美姫」という名を聞いて目を見開いた。
「美しい姫」! 名前からして、絶世の美人に違いない。
―――
ひらりと小柄な影が大広間に舞い込み、続いて丸々と太った男が転がり込んできた。
女は、パッと見は大きな目に紅い唇で、なかなか見栄えがするように思えた。
だが、近づいてよく見ると、二つの鼻の穴が丸見えの獅子鼻が、弟子たちの夢をすべて打ち砕いた。
その上、若くもなく、白粉が厚すぎて、なんというか……波有は幼い頃によく見かけた人物を思い出した。
「大師兄、この人……昔いた遊郭のやり手婆に似てない?」
波有が伊蘭に尋ねた。
彼が答えようとすると、隣の云英が腕を思い切りつねった。
「痛っ、痛い! 云英、誤解しないで。あれは師父に行けって言われたんだ。あそこのお母さんは師父と仲が良くて、よくお菓子をくれたんだよ」
云英が拾われてきて家事を引き受けてくれるまでの日々は、まさに暗黒時代だった。
伊蘭が十二歳、伊貴が十一歳、波有はまだ一歳そこそこ。
一人の男が二人のガキと赤ん坊を抱えて食いつなぐ毎日。
近くに、あまり流行っていない遊郭があった。
そこのやり手婆は気立ての良い人で、困窮する彼らを見かねては食べ物を分けてくれたのだ。
伊高屋も時折、用心棒として手伝いに行っていた。
云英が来てからは、その遊郭との縁も徐々に切れていったのだが。
伊蘭が当時の状況を詳しく説明すると、云英はようやく機嫌を直した。
―――
二師兄の伊貴は、小亀なら事情に詳しいはずだと袖を引いた。
「甲ちゃん、光の伯父様が南海の覇者なら、北海宮主というのも相当な手練れなのか?」
小亀が皆に解説を始めた。
「もともと北海と南海は一つで、美姫の縄張りだったんです。でもある時、主人と胡白様が人魚島からの帰りにここへ寄ったのを、彼女に見つかってしまって」
「うんうん、それで?」と伊蘭が身を乗り出す。
「美姫の周りにはもともと十人の面首(男妾)がいたんです。一緒に来たあのデブは、その一人で軍師の『円筒』」
一同は吹き出した。
伊蘭はお腹を抱えて笑った。
「名は体を表す、とはこのことだな!」
波有が続きを促す。
「それで、どうなったの?」
「主人たちを見た途端、彼女はすぐに今いる男を二人殺して、主人と胡白様を新しい愛人に誘ったんです」
波有は驚愕した。
「あんな顔して、ずいぶん自信満々なのね」
小亀が言う。
「妖族にとって容姿も大事ですが、一番は法力の高さです。主人が来る前、この海で美姫の右に出る者はいませんでした。だから、自分の誘いを断る奴がいるなんて思ってもみなかったんでしょう」
伊蘭が口を挟む。
「伯父様たちが断るのは当然だ。戦いになったのか?」
「その通り。断る奴がいるのも驚きだったでしょうが、自分より強い奴がいるなんて想像もしていなかった。美姫、美姫なんて名前をつけてるけど、正体は井の中の蛙、傲慢なヒキガエルですよ」
皆が笑い転げた。
「それで、結末は?」
小亀は口を尖らせて言った。
「彼女は完敗して北海へ逃げ帰り、主人がこの南海を治めることになったんです。でも彼女、まだ諦めてなくて、隙あらばこうしてやって来る。」
「修行歴は長くて法力も高いんだけど、男への執着が強すぎて、どうしても頂点には立てないんだって主人が言ってました」
<あと書き>
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