第14話 人魚涙のブレスレット
悲しみに暮れていたのは、汕たちだけではなかった。
岩洞の中で小亀とこっそり話をしていた波有の目からも、突如として涙が溢れ出した。
小亀は飛び上がって驚いた。
「師姉! 師姉! どうしたんだい!?」
「私にもわからないの!」
波有は必死に涙を拭ったが、拭っても拭っても、後から後から溢れて止まらない。
「どこか具合が悪いの? 師父を呼んでこようか?」
「だめ! 呼ばないで!」
彼女は心の中に、異様な感覚を覚えていた。
「どこも悪くないわ。ただ……」
「ただ、何?」
「……『あれ』が、私を呼んでいるの」ようやく、自分の感じていることを口にした。
小亀は困惑した。
「『あれ』って誰だい?」
「わからない。姿は見えないけれど、確かに感じているの」
やがて波有の涙が止まった。
汕の持つ腕輪の光が、元に戻ったからである。
腕輪は再び、丁重に小箱へと戻された。
―――
今しがた起きた驚くべき情景に、周囲の者たちはざわざわと議論を始めた。
胡白は小声で師兄に尋ねた。
「師匠と腕輪の関わりを、人魚たちに話すべきでしょうか?」
仮羅は少し考え込んでから答えた。
「……言わない方がいいだろう」
「話せば、師匠が人魚に対して何か後ろ暗いことをしたかのような誤解を招きかねん」
「真実は誰にもわからぬし、師匠が我らに話さなかった以上、他人に知られたくない私的なことだったはずだ」
光仮羅はふと微笑んで付け加えた。
「それに、もし誤解が生まれて不仲になれば、もうこの島へは来られなくなる。そうなれば、お前の新しい服も手に入らなくなるぞ」
胡白は自分の利益に関わると知り、慌てて頷いた。
「そうです! おっしゃる通りです! さすが師兄、配慮が行き届いておられる」
二人の師兄弟はそう口裏を合わせると、ようやく心を落ち着かせるのであった。
光仮羅は汕へ拱手して言った。
「人魚一族に伝わる家宝、今日拝見できて実に奇妙な体験であった! あなたたちの喜びの歌には聞き慣れていたが、これほど悲しげな調べを耳にしたのは初めてだ。忘れがたいものになったよ」
汕は慌てて礼を返した。
「山主の器の大きさには恐れ入ります。実を言えば、先ほど腕輪から突如として悲壮な曲が流れたときは、貴客の興を削いではしまいかと肝を冷やしました。お気に召したようで、何よりです」
汕は苦笑いを浮かべた。
仮羅は考えた。
もともとは胡白と共に、人魚島付近の景色を数日ほど遊山してから南海へ戻るつもりだった。
しかし、先ほどの腕輪の一件は、間違いなく人魚たちの間で噂になるだろう。
これは一族の内情だ。
部外者がいつまでも居座るのは無粋というもの。「鮫紗」も手に入れたことだし、早々に引き上げるのが得策だ。
「汕頭領、今回はお招きいただき感謝する。あまり長居もできぬゆえ、これで失礼しよう。実は陸の方で少々用事がありましてな」
汕もその言葉の裏を察した。
「もちろんですとも! 山主ほどのお忙しい方を、これ以上お引き止めするわけにはまいりません」
そこへ清がしめやかに泳ぎ寄り、一礼した。
「貴客はすぐさま南海へお戻りですか? 少々お待ちいただけますか。あの方たち――人間の客人もお連れしますので、よろしくお願いいたします」
光仮羅は、一度引き受けた約束は必ず守る男である。
「心得た。構わぬとも」
―――
光仮羅を避けるために、毎回黙って失踪するわけにはいかない。
師父は常に小亀を気に掛けているし、そんなことを繰り返せば伊高屋の不審を招く。
そこで波有たちは、あらかじめ口実を練っておいた。
「北海と南海はもともと仲が悪く、光山主に北海の妖族だとバレるのが怖い……と、そう言うのか?」
伊高屋は小亀に尋ねた。
「そうなんです、師父。昨日隠れていたのも、それが理由なんです」
波有も慌てて加勢した。
「北海の妖と南海の妖の仲が悪い」などという話、人間の弟子たちは初めて耳にした。皆は目を丸くして顔を見合わせ、言葉に詰まっている。
波有はさらにでっち上げを続けた。
「師父、光山主は南海の大妖で法力も高いんです。きっと師弟が私たちとは違うことに気づくはずです。もし出自を聞かれて、嘘をつくわけにもいかないでしょう? 」
「師弟が北海の水族だと知って不機嫌になったら、私たちは人魚島に閉じ込められてしまうかもしれません」
この言い分には筋が通っており、弟子たちも「なるほど」と頷いた。
強大な力を持つ二人の大妖を前にすれば、警戒するに越したことはない。
師父も深く頷いた。
「確かに、その通りだ。何としても甲ちゃんを見つからせてはならん」
実は伊高屋の心には、口に出せないもう一つの理由があった。
それを言えば、他の弟子たちに「えこひいきだ」と言われかねないからだ。
伊甲は骨格からして非凡で聡明、人間であろうと妖であろうと、修行者として稀に見る逸材である。
彼は、光仮羅に愛弟子を奪われることを何より恐れていた。
小亀を弟子にして以来、人生最大の願いが叶った伊高屋は、寝ているときでさえ笑みがこぼれるほどだった。
末っ子のような弟子を、誰にも渡したくはないのだ。
今の伊高屋は、ただひたすらに愛弟子を隠し通すことしか考えていなかった。
「甲ちゃん、もっと早く師父に話しておくれ。昨日はさぞ怖い思いをさせたな……ああ、小妖が大妖に出くわすとは、不憫な子だ」
師父は愛おしそうに弟子の頭を撫でた。
実のところ、あの大妖たちの前で震えていたのは、小亀だけではなかったのだが。
伊貴が師父に言った。
「光山主の法力がいくら高くとも、昨日はバレなかったのですから、方法は有効だということです! 山主と一緒に帰るときも、同じ手で行きましょう!」
伊念が興味津々で尋ねる。
「どんな方法なんだい? 大妖の目を欺くなんて!」
伊蘭も茶化した。
「師弟は体は小さいけれど、なかなかの術の使い手だね。師父の『四霊術』を極めたら、いつか俺たちの中で一番の使い手になるんじゃないか?」
言い終えるなり、自分の頬をパチンと叩いて笑った。
「おっと、師父を除いて一番、ですよ! ははは! もちろん、師父が永遠に一番です!」
伊高屋は口元を綻ばせた。
以前なら大弟子の世辞を心地よく聞いていたが、小亀が来てからは、大弟子の最初の一言の方が耳に心地よく響くようになっていた。
(そうだ。小甲は資質が良いだけでなく、妖族としての素質もある。間違いなく一番の使い手になるだろう。いや、私をも遥かに凌ぐはずだ)
術への執着が強い伊念が問い詰める。
「さあ、小師弟、術を見せておくれ。どうやって目をくらましたんだい?」
皆がやんやと小亀を取り囲むので、彼は怯えて波有の背後に隠れてしまった。
―――
伊高屋がこの野郎共を追い払おうとしたその時、遠くから足音が聞こえてきた。
「|神識術」で探ると、一人の人魚がこちらへ向かってきている。
「しっ! 誰か来たぞ」
ほどなくして、洞窟の入り口で人魚が声を上げた。
「人間の皆さま! 汕頭領がお呼びです。南海の貴客がまもなく発たれますので、すぐに準備をしてついてきてください」
思ったよりも早い出発だった。
波有は靴と靴下を脱ぎながら、師父に言った。
「師父、説明している時間はありません! 光山主に気づかれずに外へ出られたら、皆さんに種明かしをします!」
衆人環視の中、小亀は本来の姿である小さな亀に戻り、さらに緑豆ほどの大きさに縮むと、波有の足の指の間に収まった。
「なんて不思議な……!」
みんなは目を見開き、呆然と立ち尽くした。
これで愛弟子を奪われずに済むと、伊高屋は胸をなでおろした。
「よし、よし! 荷物をまとめて、お待たせしないように」
一呼吸置いて、彼は表情を引き締め、弟子たちを釘付けにした。
「甲ちゃんのことは、絶対に口を滑らせるなよ!」
「 もし人魚たちに聞かれたら、まだ幼いから伊蘭の背負い籠の中で寝ているとでも答えておけ」
皆は大弟子の背負った巨大な竹籠を見て、師父の名案に感心した。
伊高屋は向き直ると、鋭い眼光で波有を射抜いた。
彼女は思わず身震いした。
「波有! お前はゆっくり歩くんだ! それから、足元をしっかり見て、絶対に足をぶつけたりするなよ! 師弟の命はお前にかかっているんだからな!」
(師父の知恵には感服したけれど、この偏愛ぶりときたら……足の指の間にいるんだから、ちょっとぶつけたくらいじゃ平気でしょ!)
<あと書き>
最後まで読んでいただきありがとうございます!
波有が耳にした、人魚涙のブレスレットから流れる歌声。 そして、なぜ彼女はあんなにも涙を流したのか……。
ここで少しだけ、皆様にネタバレを。
実はあのブレスレットは、彼女自身の「涙」が珠となったもの。 そして聞こえてきた歌声は、ほかでもない「自分の声」だったのです。




