第112話 また、五月の風が吹く(最終話)
第三陣の薬人たちの心臓と肝臓は玉石の瓶に納められ、厳重に密封された。
それから1か月余りが過ぎ、十分に発酵が進んだ頃、美姫は手下の妖怪たちを率いてたくさんの瓶を抱え、九重無光塔の八階へと慎重に運び込んだ。
フロアの中央には、巨大な円形の鉄炉が据えられていた。
炉の周りはぐるりと太い鉄板で囲まれ、下では激しい火柱が絶え間なく燃え盛っている。
玉瓶ひとつにつき二匹の小妖がついて看守を担当し、美姫の指示で密封された瓶を開けた。
途端に、鼻を刺すような猛烈な悪臭が部屋中に広がった。
フロア本来の高温も手伝って、場にいた者全員がポロポロと涙をこぼした。
あらかじめ布巾を顔に巻きつけて対策していたものの、臭いは隙間という隙間をくぐり抜け、目や耳にまで容赦なく突き刺さってきた。
美姫も頭がクラクラとしてきたが、重大な任務を背負っている以上、少しの油断も許されない。
「シャキッとしなさい! 手元を狂わせるんじゃないわよ!」
彼女は甲高い声で叱り飛ばした。
臭いが少し落ち着くと、妖怪たちは玉瓶の中から泥のようにドロドロに腐敗した赤黒い物質を取り出し、真っ赤に熱した鉄板の上に開けた。
そして特製のアミで絶え間なく炒め始めた。
水分が飛び、カラカラの灰状になるまで炒め上げると、その粉末を大事そうに心臓の形をした黄金の小箱へとすくい入れていく。
箱の中には、あらかじめ人魚の血と髪の毛が仕込まれていた。
粉末とそれらを念入りに混ぜ合わせ、黄金の蓋をしっかりと閉める。
さすがは千年大妖の美姫だ。
瞬きひとつせず、凄まじい神識を集中させて調剤作業の全工程を監視していた。
小妖たちがすべての作業を無事に終えたのを見届けて、彼女は心の中でようやくほっと息をついた。
―――
同じ頃、無光は自ら汕首領の洞窟へと向き、波有を連れ出していた。
彼女を九重塔の最上階にある展望プラットフォームへと案内した。
そこには四角い高台の祭壇がそびえ立っていた。
祭壇の上に立つと、四方を大海原に囲まれ、人魚島がまるでキラキラと輝く群青色の鏡に嵌め込まれた一粒の白真珠のように見えた。
無光は周囲の絶景を気に入ったのか、満足そうにうなずいた。
「姫様、すでに族人たちの様子はご覧になったでしょう。僕は彼らから少しばかり血と髪の毛をお借りしただけで、酷い痛めつけ方などしていませんよ」
波有は表情を変えずに「ふーん」と気のない返事をした。
目をしばたたかせながら、じっと彼を見つめる。
「ここ数日、汕から話を聞いて私もいろいろ納得したわ。霊薬作りには協力してあげる。増して、薬が完成したら族人を解放するっていう言葉、本当でしょうね?」
無光は思わず吹き出した。
「もちろん本当ですとも! あなた方は口を開けば僕をボロクソにけなしますがね、いまや僕はこの世で最強の大能なのです。俗人と同レベルで張り合うわけがないでしょう」
波有はにっこりと微笑んだ。
「けれど、もしこの俗人から『そんな霊薬、はじめから成功するわけがない』と言われたらどうするの?」
無光は絶句し、思わず声を張り上げた。
「戯言を! 一体誰からそんなことを聞いたのです? 通天山の老いぼれですか? 秘伝書には『成功率は極めて低い』と書かれているのですよ! つまり何度も失敗を重ねてようやく成功するということであって、成功しないという意味ではない!」
そこまで捲し立てると、彼の顔色は怒りで激変していた。
口元に冷ややかな嘲笑を浮かべる。
「族人を救いたいからといって、そんな嘘をつく必要はありませんよ!」
波有は相変わらず風のように平然とした態度だった。
「心魔はどこまでいっても心魔ね。執着こそがあなたの最大の弱点よ。霊薬のことばかりで頭が一杯になって、思考停止に陥っているわ」
無光は凶悪な笑みを浮かべ、大声で吼えた。
「……続けて言ってみろ!」
「この秘伝書を誰が書いたのかは知らないけれど……仮にその人が霊薬作りに成功していたとして、国師様にお聞きしたいの。不老不死になったその人は、いまどこにいるのかしら?」
無光の笑顔が凍りついた。
しばし考えてから、彼は答えた。
「秘伝書を書いた者は人里離れた場所に隠遁しているのだろう。あるいは、不老不死にはなったものの、別の理由ですでにこの世を去ったか……もしくは……」
波有は口を丸くして「へえー」と声をあげた。
「そういうことなのね! あなたの言う一つ目の説——隠遁しているとしたら、一度も姿を現さないなんてことあるかしら? 古今東西、そんな噂は聞いたこともないし、そんな存在すら知られていないわ。可能性としてはかなり低いわね」
彼女の口元に、軽蔑の笑みが浮かぶ。
「二つ目の説——別の理由でいなくなったとしたら……永劫の時を生きられる存在なのに、どうしていなくなるの? それもすごく怪しいわね」
波有は気怠そうに言葉を続けた。
「まあ、国師様がそこまで言い張るなら信じてあげるわ!」
「じゃなければ、その本を書いた本人は霊薬作りなんて成功していなくて、自分の理想や希望を秘伝書に書き殴り、後世の誰かが叶えてくれるのを期待しただけ……なんて思ってしまうところだったわ」
「だって不老不死なんて、世の中の誰もが望む夢だもの。そんな霊薬を作りたいなんて考えた人は星の数ほどいたはずよ。けれど残念なことに、天道に逆らって運命を変えるような都合の良い話なんて、一度も聞いたことがないし、絶対に起こりえないの」
「そういう愚かな人たちって……本当に哀れで可笑しいわね」
波有が軽やかに放った言葉は、無光の心に激しい動揺を巻き起こした。
彼の思考が乱れ始める。
(違う!!!)
(絶対にそんなはずはない!)
秘伝書には成功率は極めて低いとあった。つまり、必ず成功するということだ!
「国師様、黄金箱の調合が完了いたしました」
美姫が手下の妖怪たちを従え、箱を捧げ持ちながら九階のプラットフォームへ上がってきた。
無光は聞こえていないかのように、呆然と目の前に立つ少女を見つめ続けていた。
「国師様!」
美姫は少し嫉妬を覚え、声を張り上げて再び呼んだ。
無光はようやく振り向いた。
太陽の下、海風に煽られた彼の白髪はボサボサと乱れ、ツヤもなく、彼が生まれ持っていた冷酷で気品ある佇まいすら吹き飛ばされていた。
彼はうなずくだけで口を開かず、ただ静かに妖怪たちが箱を四角い祭壇の上に「口」の字型に並べていく様子を見つめていた。
美姫は波有へ歩み寄り、笑顔を向けた。
「最後の三日間、姫様にはここで人魚族の楽しげな歌を絶え間なく歌っていただきますわ。そうすれば、箱の中の心臓と肝臓が再び脈打ち始めるのです」
無光に向かって恭しく指示を仰いだ。
「国師様、始めてもよろしいでしょうか?」
彼はまだぼんやりとした様子のまま、力なくうなずいた。
二匹の小妖が波有の腕を掴み、祭壇の上へと連れていった。
―――
それから間もなくして、天からの授かりもののような美しい歌声が響き渡った。
歌声は夜空を彩る星々の瞬きのようでもあり、大地を優しく潤す恵みの雨のようでもあった。
聴く者を心地よい夢の中へと誘っていく。
美姫と取り巻きの男たちは、感嘆して手を叩いた。
「さすがは姫様! 他の人魚たちとは比べものにならないほど美声ですわね!」
波有は歌を紡ぎながらしなやかな魚尾へと姿を変え、かけられた海音鈴を鳴らした。
七色の尾ヒレから解き放たれた色鮮やかな光線が、一直線に空を突き抜けていく。
やがて、人魚島を包み込むように大きな七色の虹が架かった。
この世のものとは思えぬ絶景に、プラットフォームにいた誰もが心を奪われ、うっとりと見入っていた。
彼女の奏でる旋律に合わせ、タワーの下の洞窟からも人魚たちの合唱が聞こえ始めた。
歌声は島全体へと響き渡る。
『波は躍りて 風は舞う
美しき花は 酒に酔い
七色の尾が 鈴を鳴らす
満月の夜に いとしき人ぞ帰らん』
素晴らしい大合唱に、島の中や周辺にいた無数の妖怪たちも酔いしれていた。
誰もがその音楽に没頭していた時——
九重塔のプラットフォームの隅に、いつの間にか巨大な赤狐が現れていた。
その背には、まるで仏像のように座禅を組んだ人物が乗っている。
次の瞬間、波有は明るい天籟の音色を急激に転調させた。
喜びに満ちていた旋律が、一転して悲痛な哀歌へと変貌する。
雲を吹き飛ばさんばかりの切ない歌声は、耳を傾ける者たちの胸を締めつけ、深い悲しみで満たしていった。
―――
突然の変貌に無光が慄いた瞬間、はるか彼方から閃光が駆け抜け、目の前で静止した。
如意琉璃塔だ!
そして、先ほど赤狐の背に乗っていた人物は、いまや正々堂々と塔の中に座していた。
光如意羅漢の真身である!
都の皇宮に置いてあったはずの法宝と羅漢の真身が、なぜここにあるのか。
無光が思考を巡らせる暇もなく、宝塔は彼を主人と認めなくなったかのように波有の元へと飛び、彼女の周りを優しくくるくると回り始めた。
波有の哀歌と人魚たちの歓喜の歌声は、思いのほか美しく調和し、胸が洗われるようなハーモニーを奏でていた。
如意塔の頂点に飾られた「人魚の涙」の宝珠が眩い光を放ち、あまりの強さに妖怪たちは目を開けていられなくなった。
無光は顔を蒼白にさせ、歯の隙間から激しい憎悪を絞り出した。
「貴様ら……よくも!!」
彼は印を結び呪文を唱え、力ずくで塔を呼び戻そうとした。
しかし、塔の頂にある宝珠は如意羅漢の真身が鎮座しているため、頑として波有のそばを離れようとしない。
無光の全身から噴き出す禍々しい邪気が、彼の黒袍と白髪を逆立たせる。
手のひらから解き放たれた不気味な青い光が、眩い光芒に向かって放たれた!
『ドォン!』と激しい音が響き渡る。
如意塔が波有の盾となって立ち塞がり、直撃の大半を防いでくれた。
それでも波有の胸に強い衝撃が走る。
口の端から鮮血が伝い落ちたが、彼女の心は深い歓喜と感謝で満たされていた。
(師匠! あなたはこの世を去られてもなお、弟子をお守りくださるのですね……。かつて私を愛しみ、人魚族が迫害されるのを黙って見過ごせなかった、あの頃と同じように!)
無光はやむを得ず、都城から如意錫杖を引き寄せた。
「俗人どもめが……!」
彼の顔に、ゾッとするような妖しい笑みが浮かぶ。
言葉と同時に錫杖を宙に持ち上げると、杖から黒い霧が龍のように渦を巻き、波有の身体を強く締め上げていった。
―――
身体を絞り上げられ、息ができない。
耳や鼻から血がどっと溢れ出してきた。
波有の苦痛を感じ取った如意塔は、彼女を包み込むように守ろうとした。
だが黒い霧はますます太くなり、最後は濃い霧となって如意塔ごと完全に覆い隠してしまった。
無光の口元に嘲笑が浮かぶ。
「たかが法宝の分せいで、身の程を知れ」
言い終わるか終わらないかの瞬間——
黒霧の隙間から、目を射るような強烈な光輪が円を描いて溢れ出した。
塔の中にある羅漢真身の頭上から放たれる頭光が、周囲の黒霧を少しずつ追い払い、如意塔と血まみれの波有の姿を浮かび上がらせていく。
これこそが、如意羅漢が悟りを開いた正果の光!
無光の意識が一瞬吹き飛んだ。
彼が心魔へと堕ちたのは、まさにこの「悟り」に固執しすぎたからだ。
羅漢正果の光とは……これほどまでに眩しく、神々しいものだったのか……!
島全体が万丈の金光に包まれる中、意識が遠のいていく波有の視界に、はるか遠くから駆け寄ってくる人の影が映った。
彼女はありったけの力を振り絞って叫んだ。
「早くみんなを連れて無畏の中へ逃げて! 私を待っていて!」
だがその影は指示を聞かず、こちらに向かってがむしゃらに走ってきた。
波有は如意塔の宝珠に力を送り込み、円形の頭光をより明るく、より眩しく輝かせた。
無光の黒袍は頭光の光線を浴びて「ジュッ、ジュッ」と音を立てて焦げ始め、四肢の衣にぽっかりと丸い穴が空いて白い下着が覗いていた。
周りから見れば衣類がボロボロになっただけに思えるが、あの黒袍は彼自身の心魔の一部から生成されたものだ。
苦痛は骨身に染みるものだった。
顔を凶悪に歪ませた無光の銀髪は、すでにボサボサに乱れている。
彼は右手を刃に変えて左の掌を深く切り裂くと、溢れ出る自分の血を宙に浮かぶ錫杖へと叩きつけた。
錫杖も羅漢の頭光に共鳴して如意塔と合体しようとしていたが、無光の血によって強引に押さえ込まれ、動けなくなってしまった。
波有は残されたわずかな霊力をすべて尾ヒレに集めると、腰を捻って如意塔の宝珠へ向けて力任せに打ち付けた!
『ジャラン! ジャララン!』
海音鈴に埋め込まれた金剛石が宝珠に亀裂を入れ、やがて『ミシミシ、バリバリッ』と音を立てて宝珠は粉々に砕け散った。
宝珠に残されていた最後のエネルギーが破片とともに放たれ、一筋の煙のように羅漢の頭光へと吸収されていく。
一瞬にして光輪は数倍に膨れ上がり、いっそう眩い輝きとなって煙を上げる黒影を照らし出した。
炎の中で激しく悶える無光は光の中に包み込まれ、一筋の火の気もないのに体を歪ませて苦しみぬいた。
やがて彼の姿はひとすじの黒煙へと変わり、万丈の光の中へと完全に姿を消した。
はじめからそんな存在などいなかったかのように。
この巨大なエネルギーの発散は、当然のように天動地異を引き起こした。
人魚島は地震のように激しく揺れ動き、はるか水平線の彼方からは、城壁のような巨大な碧い波が高々と首を上げ、島に向かって押し寄せていた。
―――
すべてが過ぎ去った後——
小亀は祭壇の下にひざまずき、呆然と如意塔を見つめていた。
塔の中の羅漢真身も、頂上の宝珠も、もう存在しない。
彩っていた七色の琉璃はすべて無機質な白色へと変わり、まるで旅立った仲間を静かに悼んでいるかのようだった。
倒壊寸前の九重塔が揺れる中、無畏は本来の姿、白い球体に変身し、小亀の隣へ飛んできた。
「早く乗るんだ、伊甲! あっちから津波が押し寄せてくるぞ! 島の人魚たちはみんな僕の中に避難した、あとは君だけなんだ!」
小亀は顔を上げ、ぼろぼろと涙をこぼした。
「師姉が……師姉が……」
「波有が羅漢様の光を解き放ったのを見た時、嫌な予感がしたんだ……彼女はきっと、ずっと前から覚悟を決めていたんだよ! じゃなきゃ、どうして僕を連れて族人を助けに来たりするんだよ……!」
無畏は泣きだしそうな顔で言った。
小亀はもう考える気力すら失っていた。
「でも……師姉は待ってろって言ったんだ……」
無畏は残酷な現実を突きつけるのが忍びなく、わざと問いかけた。
「彼女が待てと言ったのか? だったら……他に助かる方法があるのかもしれないぞ?」
小亀は涙で滲んだ目をかろうじて開けた。
「本当……に……?」
耳を割んばかりの凄まじい津波の音が響き渡り、高く聳え立つ恐ろしい水の壁が無慈悲に迫ってくる。
無畏はくるりと一回転すると、小亀と足元に落ちていた如意塔、そして錫杖を一瞬で体内に吸い込み、巨大な波が九重塔を押し流す直前に空へと飛び立っていった。
―――
あの大一番から、途方もない年月が流れた。
幾度となく春夏秋冬が巡り——
―――
とある市立体育館のプールは、今日も大勢の人で賑わっていた。
波有は親友のトニーと水着に着替えると、豪快にプールへと飛び込んで練習を始めた。
ひと息に壁まで泳ぎ切り、水中で360度ターンしてクイックターン。
数回のスパートであっという間に飛び込み台へと戻ってくる。
顔の水滴をぬぐい、台の上に腰掛けて彼女を待った。
少し遅れてぜぇぜぇと息を切らしたトニーが泳ぎ着き、ふたり並んでコーチの到着を待つ。
トニーがニヤニヤしながら囁いた。
「ねえ、ショックなニュースがあるんだけど、聞きたい?」
波有も笑って返した。
「私に関係ある話ならね! でもどうせ噂話でしょ、早く教えてよ!」
トニーが彼女の腰をつついた。
「うちの学校のイケメンコーチね、最近彼女ができたんだって。しかもすごく仲が良くて、昨日も彼女がここまで会いにお祝いに来てたらしいよ」
噂をすれば影が射す、とはまさにこのことだ。
向こうから仲良く手を繋いだ男女が歩いてくる。
噂のコーチと彼女だった。
トニーは口を尖らせた。
「ショック? 落ち込んじゃった?」
コーチたちがこちらを見ているのに気づき、波有は顔を赤くしながらも強がってみせた。
「別に。私なんて可愛くないし、最初から誰も期待してないから。期待しなきゃ落ち込むこともないでしょ」
強がりを言ってみたものの、本心はガッカリだった。
あの人に会いたい一心で、どれだけ努力してこの強豪水泳部に入ったことか。
けれど努力したところで、結局、みにくいアヒルの子は白鳥にはなれない。
童話の世界じゃないのだから。
(はぁ……彼女がいるなら、もう変な妄想をするのはやめなきゃね)
波有は頭を振り、淡い恋心と髪から滴る水を一緒に振り払おうとした。
「うわっと!」
耳元で、爽やかで心地よい男の子声が聞こえた。
振り向くと、そこには色白で整った顔立ちの少年が立っていた。
トニーが耳元でヒソヒソと囁く。
「コーチよりイケメンじゃん……」
波有は申し訳なさそうに立ち上がった。
「ごめんなさい! 後ろに人がいるなんて気づかなくて」
少年はニカッと笑い、白く綺麗な歯を見せた。
「お姉さん、落とし物だよ」
そう言って差し出された掌の上には、水晶のように澄んだ珠がつながったブレスレットが載っていた。
「私のじゃないわ」
波有は首を振った。
すると少年はクスッと微笑んだ。
「あ、ごめん! 僕の勘違いだったみたい」
そう言って手を離すと、水晶の珠は地面に落ち、まるで輝く水滴のようにツルリと滑って波有の足元へ転がり……
そのまま消えてしまった。
波有は目をこすってもう一度見たが、珠はどこにもない。
「嘘!? プールの中に落ちちゃったのかな? 一緒に探しましょう!」
「あー、でも僕もう時間なんだ……」
少年は腕時計を見て困り顔をした。
波有は少し考えると、バッグから紙とペンを取り出し、連絡先を書いて手渡した。
「私は波有。あとで連絡して、私が探しておくから!」
少年は紙切れを受け取った。
「僕は伊甲。ありがとう、お姉さん! また連絡するね」
そう言って背を向け、体育館を出ていった。
少年は鼻歌をまじえ、微笑みながら道を歩く。
(昔はずっと『師姉』って呼んでたから、名前で呼んだの初めてだな……フフッ……波有か!)
ふと空を見上げれば、うららかな春の光が降り注ぎ、心地よい風が通り抜けていく。
またひとつ、輝かしい五月の季節が巡ってきたのだ。
―完―
<後書き>
【完結のお礼と次回作のご案内】
◇感謝
今年の5月7日から連載を始め、本日無事に完結を迎えることができました。ここまで付き合ってくださった読者の皆様、本当にありがとうございました!皆様の応援が大きな励みになりました。
◇お詫びとご報告
当初は50万文字前後を予定しておりましたが、最終的に約39万文字での完結となりました。楽しみにしてくださっていた方には少し短く感じられたかもしれませんが、物語としては綺麗に描き切ることができました。
◇新作について
今作は毎日更新で駆け抜けましたが、正直少し大変な部分もありました。 そのため、次回作『望郷アザラシ シリーズ1-2 〜七変化の神君〜』からは、無理のないペースでより質の高い物語をお届けできるよう、【毎週 金・土・日】の週3日更新に変更させていただきます。
次回作(9月4日(金)公開予定)も皆様に楽しんでいただけるよう準備を進めておりますので、どうぞお楽しみに!




