第111話 極上の餌
波有は前世の記憶を思い返していた。
かつての「光如意」は、事あるごとに自分と驕盧を試すような真似が好きだった。
あの頃の自分は天真爛漫で、要するにどこかネジが抜け落ちていたのだ。
聞かれたことにはそのまま答え、言いたくない時は「知りません!」の一言で片付ける。
師匠はそんな直情的なところをとても気に入ってくれていた。
「わしの人魚姫のお弟子は、見た目がいいだけでなく裏表がない。実に清々しい良い娘じゃ」
なんて冗談交じりに褒めてくれたものだ。
一方で、四不像の師兄はそうはいかなかった。
気が小さく、考えすぎる性格で、彼女とは正反対。
師匠に話しかけられるたび、ビクビクと身体を強張らせていた。
特に波有に断られてからは、洞窟に閉じこもって修行ばかりしており、めったに姿を見せなくなった。
彼女を見ると顔が差し込むというのもあっただろうが、何より師父と顔を合わせずに済むからだったのだろう。
いまの無光は、光如意であり、驕盧でもある。
ふたりの性格を同時に受け継いでいるのだろうか?
(だとしたら、随分とおかしな話ね)
波有は口元に皮肉な笑みを浮かべた。
―――
無光は丸二か月も待たされて、ようやく彼女とまみえることになった。
この二か月間、彼は「薬人」作りを一切停止させていた。
人魚姫がやってくるまでは、成功率の低い実験に貴重な素材を費やすわけにはいかなかったからだ。
自ら進んで不老の霊薬になろうとする貴族の血筋など、もはや数えるほどしか残っていない。
それもこれも、李御の手下である妖怪がしでかしたドジのせいだ。
薬人の管理を怠るからそんなことになる。
温泉鎮から逃げ出した不完全な薬人が不老国の宮殿に乱入し、文武百官を死ぬほど恐怖させた。
そのせいで怪物の噂が広まり、大臣たちは家族や親族を連れて都城から夜逃げしていった。
一般の民にも皇宮の異変が伝わり、都城からは人影が消えた。
店はシャッターを下ろし、どの家も固く戸を閉ざし、街じゅうが底知れぬ不安に包まれている。
国師たる無光は、九重塔の最下層にあるサンゴの玉座に腰掛け、目の前をゆらゆらと漂うクラゲの妖怪をじっと見つめていた。
水色のドレスを纏った美女の給仕たちが、細い腰をくねらせながらテーブルにごちそうを並べていく。
彼のイライラは最高潮に達していた。
(人間どもめ、図々しいにも程がある。何の対価も払わずに旨い汁だけ吸おうなどと甘すぎるのだ)
(不老不死の霊薬を得るのに、代償がいらないはずがないだろう。薬人が怪物になろうと知ったことか。失敗を重ねてこそ成功率は上がるのだからな)
(……まあいい。今度こそ、人魚姫が期待を裏切らないことを祈るばかりだ)
視線を給仕の裾から別の裾へと移しながら、彼は自分に言い聞かせる。
(霊薬さえ完成すれば、この世で永遠に最強の存在となる。そのあとの何千、何万年に比べれば、数日の遅れなど大したことではない……)
だが、分かってはいても待ち人は来ない。
人を待つ時間というのは実にちょっと苦痛だった。
―――
そこへ、大広間の入口が俄かに華やいだ。
美姫が、太ったの円筒を従えて入ってきたのだ。
どうやら目に見えて機嫌が良い。
李御が失敗して失脚したおかげで、すっかり若返ったように見える。
彼女はピチピチとした若さを振りまきながら、軽快な足取りで無光に恭しく一礼した。
「国師様にお知らせいたします。例の人魚族の姫君が到着し、ただいま塔の前でお待ちです」
無光は一瞬、眉をひそめた。
あの姫は前世からサバサバした性格で、一度口にしたことは必ず守る人だった。
どうやら今生でも変わっていないらしい。
引き受けると返事をした以上、絶対に来ると分かってはいたが。
彼は素っ気なく尋ねた。
「ひとり出来たのか?」
「はい。一羽の白鶴に背負われて島に降り立ち、鶴はそのまま飛び去っていきました」
「中へ通せ」
美姫に案内され、波有は大広間の前に引き出された。
高々とした階段の上で、無光は相変わらず銀髪に黒の長袍という冷酷な装いで佇んでいる。
「十日と指定したはずだが、なぜ一か月もかかった?」
無光は無表情のまま、低く重苦しい声で圧迫感をかけてきた。
「知りません」
波有はあっけらかんと答えた。
(つき合っていられないわ。端から無理な期限を突きつけておいて、何のつもりか分かったものじゃないもの)
隣にいた美姫は目を丸くして円筒を見つめた。
弱々しそうな小娘のくせに、国師様に向かってそんな口を利くなんて死にたいのだろうか。
円筒もまた驚いていた。
なかなか骨のある娘だ、国師様はどんなお仕置きを下すつもりだろうか。
ところが無光は、鼻を鳴らしただけでそれ以上追及してこなかった。
沈黙を破り、波有から切り出した。
「私の族人に会わせてちょうだい」
無光は不意に「くすっ」と笑い声を漏らした。
「お前というやつは……何百年経とうが、その一本気な性格は生まれ変わっても治らんのだな。『知りません』なんて言葉、本当に久しぶりに聞いたぞ」
波有は思わずカッとなって跳び上がった。
「師匠の真似をしないで! あなたなんか師匠じゃないわ!」
「前世の貸し借りは一旦置いておくとしても、自分の欲望のために都の人々や私の族人を痛めつけるなんて、慈悲深い師匠と同列に語る価値もないわ!」
無光は目の前の少女をじっくりと観察した。
「まあいい。言っておくが、お前のことが嫌いなのは本当だ。だが、お前に恩義があるのもまた事実なのだからな」
彼は手を軽く一振りし、美姫に命じた。
「族人のところへ案内してやれ」
波有が美姫について塔を出ようとした時、背後から無光の声が追ってきた。
「素直に霊薬作りに協力するなら、成功した暁にはお前たちを解放してやってもいい。よく考えておけ」
―――
美姫に導かれ、波有は汕首領と清夫人が捕らえられている洞窟へと入った。
人魚の夫婦は、彼女を見るなり揃って地面にひざまずいた。
「姫様! どうして私どものような下道の者のために、このような虎穴に足を踏み入れられたのですか! 勿体なさすぎて罰が当たります!」
波有はふたりを抱き起こした。
「無謀な真似をしに来たわけじゃないわ。通天山のみんなが心魔を倒す方法を思いついてね、私を潜入させたの。内と外から挟み撃ちにするために」
「安心して。この計画は完璧よ。絶対に無光を退治して、みんなを救い出してみせるから」
どうやら最近、嘘をつくのがどんどん上達しているようだった。
汕首領は情けない顔で愚痴をこぼした。
「はあ……星盤仙尊様を責めるわけにはまいりませんが、周りの者どもはどうして姫様に危険な真似をさせたのですか! あなた様は人魚族で最も尊い姫君なのですよ!」
波有は苦笑いを浮かべた。
「滅ぼされかけているのに、姫の肩書きなんて何の役にも立たないわよ」
そして、足の指の間に隠していた小亀と、ポケットの中の無畏を外へ連れ出した。
「姫様、このおふたりは……?」
波有は無畏を指さして笑った。
「小さく見えるけれど、砂漠から来た頼もしいお友達よ! 正体は『無畏眼』という容器で、絶対に壊れないから、何千年も砂漠の鷹王の宝物庫として使われていたの」
「心魔と戦う時は、あなたたちはこの子の中に隠れれば、一時的な危険は回避できるわ」
続けて小亀の肩をぽんと叩いた。
「こちらは仮羅伯父の甲羅から生まれた子で、実力は伯父とタメを張るわ」
「これで安心したかしら? 強い味方をふたりも連れてきたのよ」
汕首領は頷いたが、清夫人は悲しそうに顔を曇らせた。
「けれど、心魔は交代でわたくしたちの血を搾り取るのです。姫様の高貴なお身体に傷をつけるなんて……」
そう言って、血を抜かれた痕だらけの腕を見せた。
「私は姫なんだから、血の価値だってそれなりに高いはずでしょ? 無光だって私から長く血を採りたいはずだから、無茶な抜き方はしないわ。それにね、これは釣りみたいなものよ。あんな真っ黒な毒魚を釣り上げるんだから、最高の仕掛けを使わなくちゃね」
波有は何でもないことのように、ケラケラと笑ってみせるのだった。




