第110話 最後のさよなら
「わかったわ。罪滅ぼしに、その条件を飲むわよ」
李御はしばらくうつむいて考えていたが、蚊の泣くような声でそう答えた。
「ただし!」
彼女はすぐに顔を上げ、怯えたような表情で念を押す。
「やるのは今回だけだからね! 助けるのはこの一件だけだから!」
「ええ、だけでいいわ!」
波有は微笑みながら、きっぱりと答えた。
「もちろん!それだけでも大助かりよ。心から感謝するわ」
李御を見送った後、波有が茅葺き小屋に戻ると、仲間たちが一斉に彼女を取り囲んだ。
伊高屋は彼女の顔を覗き込む。
「本当に行く決心を固めたのか?」
トニは彼女の腰にしがみつき、小亀は手をぎゅっと握りしめた。
まるで手を離せば、彼女が今すぐ消えてしまいそうな勢いだ。
波有は彼の指を一本ずつ優しく解き、トニの腕もそっと離させた。
―――
「みんな、聞いて」
彼女の声は落ち着いていて、どこか揺るぎない力強さがあった。
「絶対に行くわ。でも、心配する必要はないの」
「仙尊が去り際に残してくれた手紙を覚えているでしょ? あの中には、無光を倒す方法が書かれていたの。みんなとじっくり話し合ってから行動しようと思っていたけれど、思いのほか早くチャンスが巡ってきたわ」
それを聞いた伊高屋たちは大喜びした。
さすがは仙尊の秘策だと言わんばかりに、早く話してくれと波有を突っつく。
波有は微笑みを浮かべながら、あらかじめ考えておいた嘘を口にした。
「仙尊の手紙によるとね、無光には誰も知らない致命的な弱点があるそうなの。そこを狙い撃ちできれば、彼を永遠に消し去ることができるのよ」
彼女は目を細め、わざと真面目な顔を作ってみせた。
「だから、この手紙は絶好の機会を与えてくれたの! 今回はまず人魚島へ行って探りを入れ、弱点を確認してくるわ。見つけたら連絡するから、内と外から挟み撃ちにして一気に倒しましょう」
―――
みんなの顔にパッと喜びの色が走り、やがて感極まって涙ぐんだ。
仙尊は去ってしまったけれど、最後まで自分たちのことを考えてくれていたのだと。
けれど、小亀だけは胸の奥で首をひねっていた。
なぜ師姉は楽しそうに笑っているのに、瞳にはどこか寂しさが漂っているのだろう?
駄目だ!ちゃんとはっきりさせなきゃ。
彼はそう決意した。
「ねえ、師姉、手紙に書いてあった無光の弱点って何なんだい? 僕たちにも教えてよ、心の準備をしておきたいからさ」
波有はうなずき、用意していた出まかせを続けた。
「いいわよ! 隠すことでもないしね」
「仙尊によるとね、無光の正体は結局のところ心魔でしょ? だから胸のあたりの皮膚が日光に弱いのよ。そこが奴の弱点なの」
「あいつが上半身を裸にして太陽の下を歩いているのを見たことある? ないでしょ!」波有は大げさに問いかけた。
みんなは半信半疑だった。
誰だって用もないのに上半身裸で歩き回ったりはしない。
少し間抜けな質問に思えたけれど、星盤仙尊の残した言葉となれば、誰も疑うわけにはいかなかった。
しかし小亀は違った。
疑念を抱いた彼の目には、波有の態度が不自然で仕方がなかったのだ。
満面の笑みを浮かべる波有の瞳に、笑みが一切宿っていない。
絶対に何かを隠している!
(どうして師姉はみんなに嘘をつくんだ? 一体、仙尊の手紙には何が書かれていたんだよ……?)
―――
無光の手紙には、十日以内に人魚島へ来いと書かれていた。
一番北にある通天山から最南端の人魚島までは、かつて星盤仙尊が秀麗山へ客分として赴いた際でさえ五、六日はかかった道のりだ。
無茶な話だった。
人間の少女にすぎない彼女が、大能の修行者と同じ速度で移動できるはずもない。
元より、前世の人魚姫としての力を取り戻したかどうかを試すための口実にすぎないのだ。
十日という期限もただの脅しだろう。
だからこそ、波有は「諾」と返事を出しつつも、慌てる様子もなく静かに旅の支度を整えていた。
荷造りを終えると、波有は草むらの坂下にある温泉池へと向かった。
温かい湯に浸かりながら、手を水面で揺らして水しぶきを上げる。
緑色の湯に透ける雪のように白い腕は、まるで透明な玉のようだった。
岩の隙間から小さな泡がポコポコと湧き上がってくるのが面白くて、彼女は見つめていた。
けれど、彼女は何度もため息をついた。
きっとこれが最後になる。
こんなにも心地よくて温かい場所には、もう二度と戻ってこられないのだから。
仕切りの向こうにある男湯から音がした。
誰かが温泉に入ってきたらしい。
「師姉!」
向こうから小亀の声が聞こえた。
「師弟まで来たの? 離れるのが寂しいのかしら?」
波有はくすっと笑った。
小亀は一瞬絶句し、慌てて言い訳をした。
「師姉だけが温泉に入っていいなんてルールはないだろ!」
そうね、もちろんいいわよ。
でも、こうして温泉に入りながらあなたとおしゃべりできるのも、これが最後かもしれない……。
波有の頭にふと星盤仙尊の姿が浮かび、胸の奥から寂しさがこみ上げてきた。
(仙尊様、私も近い将来、あなたと同じようになってしまうのでしょうか? この山を吹き抜けるそよ風や、青空に浮かぶ白雲のように……)
悲しみが限界まで膨らんでいく。
一度だけ耐えようとしたものの、涙がポロポロとこぼれ落ち、声が詰まってしまった。
「生老病死は自然の摂理……どれほど強い大能であっても、いつかはこの世を去るのよね」
小亀は急にそんなことを言い出した彼女の意図が分からなかったが、言葉を合わせるようにうなずいた。
「落ち込まないで。星盤仙尊はいなくなっちゃったけど、おっしゃった言葉は僕たちの心の中にずっと残っているんだから」
「師父も言っていたわ。物事にはすべて定めがあるって。だから、私の心配なんてしなくていいのよ」
波有は反対側でポツリと呟いた。
「心配するに決まってるだろ! でも、もう決めたんだ。昔、君の足の指に隠れて逃げ切ったみたいに、今回も一緒に行く! それに、無畏も一緒に行きたがってるんだ。僕から頼んでくれって言われてさ。それと……」
言い終わらないうちに、波有は冷たく言葉を遮った。
「絶対に駄目よ! 無畏だけじゃなく、あなたも連れて行かないわ。無光に見つかったら計画が台無しになるでしょ。何のために私が行くと思っているの?」
小亀は心の中で叫んだ。
(自分の族人が苦しんでいるのを黙って見ていられるわけないだろ! 師姉は調子の良いことを言っているけれど、僕は一言も信じないぞ!)
「ねえ、本当に危険になったら、無畏の洞穴の中に隠れればいいんじゃないかな? あの中はすごく広いから、人魚たちを全員避難させることだってできるよ」
波有は少し考え込んだ。
「無畏は鷹王の手から逃れたばかりなのよ? また彼を縛り付けて、ただの避難場所にするつもり?」
彼女が頑なに拒めば拒むほど、小亀の疑念は深まっていった。
「僕がどうしても行くって言ったら?」彼は歯を食いしばった。
女湯の側からは長い沈黙が続き、やがて波有の声が響いた。
「……分かったわ。無畏も連れて行きましょう」
あまりにあっさりと引き下がったので、小亀は驚いた。
だが、波有の頭の中には別の計算があったのだ。
小亀の言葉を聞いて、彼女はふと気づいた。
「如意琉璃塔」と「如意錫杖」が無限の光明を放つ時、どれほど凄まじい衝撃が走るだろうか。
その巨大なエネルギーが弾けた瞬間、人魚島ごと粉々に砕け散ってしまうかもしれない。
無畏を連れて行けば、広い洞穴を使って族人たちを守ることができるかもしれないのだ。
―――
ずるずると先延ばしにしていた別れの時が、ついにやってきた。
無畏は薄ペラな胸を叩き、危険が迫ったらすぐに小亀と波有を自分の中に隠し、無事に連れ戻すとみんなに約束した。
だが波有の心の中には、二度と戻らない覚悟ができていた。
(師父、大師兄、二師兄、トニ……)
彼女は一人ひとりの顔を目に焼き付けるように見つめた。
目頭が熱くなり、一度泣き出したら止まらなくなりそうだった。
彼女は無理やり笑顔を作り、大きな声を張り上げた。
「無光の弱点を見つけたら、すぐに師父に知らせるわ! 心配しないで! あのロクデナシをコテンパンにしてやるんだから!」
(さようなら、みんな。私は人魚姫としての使命を果たしてくるわ!)
心の中で静かに告げる。
伊貴は悲しみを隠すように、おどけて笑ってみせた。
「まったく! 女の子のくせに言葉遣いが乱暴すぎるぞ。少しは念ちゃんを見習いなさい」
伊蘭も一緒になって茶化する。
「師父も心配しないでよ。道中はおしゃべりなチビちゃんが一緒なんだから、絶対に退屈しないって!」
再び笑い声が巻き起こる中、白い鶴が大きな羽を広げ、雲を突くような雪峰に向かって飛び立っていった。




