第109話 『諾』
無光が目の前で雷の術を放ち、慧を一瞬で灰に変えてしまったせいで、李御は腰を抜かすほど怯えきっていた。
彼女は飛ぶように屏風山へ逃げ帰り、奥の洞窟へと引きこもった。
元の赤狐の姿に戻ると、蒲扇の上にだらりと丸くなり、モフモフの大きな尾っぽで自分をすっぽりと包み込んだ。
そして深いため息をつき、ふと昔の許嫁のことを恋しく思い出した。
仮羅は情熱的な男ではなかったが、いつだって彼女に礼儀正しく接してくれた。
自分の甲羅を引っぺがして婚約指輪代わりにプレゼントしようとしてくれたことだってある。
彼女が都城で遊んでいた時も、修行中だと嘘をついていたのに、バレて怒りこそすれど、ただ婚約を破棄しようとしただけだった。
復讐なんて一切考えなかったのだ。
あんな頼もしい君子と一緒になるのも、悪くなかったかもしれない。
特に、こんな恐ろしい思いをした後では切実にそう思うのだった。
「葉、私、選ぶ道を間違えてしまったのかな……?」
「奥様、何のことですか?」
皇宮で太后を辞めてからというもの、手下の妖怪たちはまた昔の呼び名に戻していた。
李御はもう一度ため息をついた。
「良かったわ、あなただけでも側にいてくれて。おしゃべり相手がいるだけで救われるわ」
葉は月白色の羽織を取り出し、赤い狐の体に優しくかけてあげた。
「国師様があんなに冷酷で残酷な方だって知っていたら、最初からあっちにつかなかったのに。慧が死んだのも、私に責任があるわ……。葉、私のこと恨んでいる?」
「奥様が責められることではありませんよ! あの状況で庇おうものなら、奥様まで殺されていたはずです。……可哀想な慧姉ちゃん。運が悪かったとしか言えません……」
「ねえ葉、私って前はどうかしていたのかしら。なんであんな男に夢中になっていたんだろう? 見た目のイケメンぶりだって、本当は胡白のほうが上じゃない……」
「そうですよ奥様! 私も慧姉ちゃんと何度も話していたんです。なんで奥様があんな冷たい国師様に夢中なのか分からないって。背が高くて気取ってるだけでしょ? 優しさなら絶対仮羅様ですし、お顔なら断然胡白様ですよ!」
「二人とも、私よりずっと目が肥えていたのね。『当事者は目が眩む』ってやつかしら」
李御は自嘲気味に笑った。
かけられた羽織が暖かくて、固く丸めていた尾っぽの力を抜く。
「でも、慧の死のおかげで、完全に目が覚めたわ」
葉は空に向かって手を合わせた。
「慧姉ちゃんも、奥様の言葉を聞いたら、きっと天国で喜んでいますよ」
二人でポツリポツリと話していると、洞窟の外から声がした。
「奥様、失礼いたします!」
ナマズ妖怪の于旦那の声だ。
無光が屏風山を占領して以来、彼は李御に従い、山と麓の温泉鎮、時には都城を行ったり来たりさせられていた。
連日連夜ドタバタと走り回されていたおかげで、以前より一回り痩せこけている。
「ご修行中、誠に申し訳ございません! 実は都城の皇宮にいる国師様から緊急の手紙が届きまして。書かれている任務を直ちに実行せよとのことです。手前どもでは手に負えず、お邪魔いたしました!」
李御は人の姿に戻り、すぐに結界を解いて于旦那を中に招き入れた。
葉は横で青ざめている。
「奥様、もしかして国師様のお怒りを買って、お咎めを受けるのでは……?」
届いた手紙を開いて内容を確認した李御は、思わずクスッと笑った。
「何をそんなに怯えているのよ。国師様からのお仕事の依頼じゃない」
「な、なんだ、良かった……」葉は胸を撫でおろした。
李御は封筒の中から、厳重に密閉されたもう一通の手紙を取り出し、呟いた。
「いったい何が書かれているのやら……」
「奥様、何かおっしゃいました?」
小葉が顔を上げる。
李御は空虚な目で前を見つめた。
「国師様、私にこの手紙を通天山の人魚姫へ届けろとおっしゃっているわ。通天山か……仮羅も、義理の弟もそこにいるのよね……」
―――
波有は届いた手紙を読むと、指先を噛み切って血を走らせ、手紙の裏面に大きく『諾』の一文字を書きつけた。
それを李御に手渡す。
「無光に伝えて。『承諾する』と」
小亀が慌てて駆け寄り、波有の指に布を巻きつけながら文句を言った。
「師姉、何やってるのさ! ペンで書けばいいじゃないか! どうしても血が必要なら、僕のを使えばよかったのに!」
「師弟の血じゃダメなのよ。人魚の姫である私の血じゃないと意味がないの」
波有は彼に優しく微笑みかけた。
それから部屋中にいる仲間たちを見回す。
「無光から脅迫状が届いたの。人魚島へ行って血を提供しなければ、族人たちをもっと酷く痛めつけるって」
「あいつ、どれだけの薬人を作るつもりなんだ!師姉の血を全部絞り取ったって足りやしないぞ!」小亀が声を荒げる。
「波有ちゃん、そんな言われるがまま死にに行くなんてバカな真似はやめろよ!」
伊高屋も憤慨した。
だが波有は、手紙を掲げて首を振った。
「その点については、ちゃんと保証されているわ。一回につき小さな瓶一本分だけ。どうやら命まで奪うつもりはないみたい」
伊蘭が伊貴の耳元でコソコソと囁く。
「あいつが脅してくるなら、こっちも脅し返せばいいじゃん! あの狐妖怪なんて小妖を一匹連れてきただけなんだから、捕まえて人質にしようよ!」
囁き声とはいえ、ここにいるのは大妖怪ばかり。
人間のヒソヒソ話など丸聞こえだった。
相変わらず単純な頭をしている。
李御は鼻で笑った。
「法術も使えない弱者ばかりのくせに威勢がいいわね。ついでに言えば、天人五衰の星盤仙尊だってもう老いぼれて人前に出られないんでしょ? 仮に私を捕まえたところで、国師様には一切通用しないわよ」
「あの男がどれだけ冷酷で腹黒いか、あなたたちが一番知っているでしょ!」
「仮羅みたいに手足の筋を切られたって、あの人が私を一瞥することすらないわ。用済みの雑巾と同じ。いてもいなくても変わらない存在なのよ」
笑いながら言ったものの、語尾は涙で震えていた。
胡白が目を怒らせて睨みつけてくる。
「この赤狐め、自業自得だろ! 僕と師兄が昔どれだけ優しくしてやったと思ってんだ。良心ってものがないのかよ! 無光の奴が都城で僕たちを拷問した時だって、お前は隣で見てただろ! 今更反省したって遅いんだよ!」
「そうよ、反省したわ。だから何? 今更言っても無駄でしょ」
李御は力なくうつむいた。
仮羅が静かに口を開く。
「もう行かせてやれ。今の無光はこの世で最強の存在だ。彼女を責めたところでどうにもならん」
「けっ、さっさと消え失せろ!」
胡白は悔しそうに歯ぎしりした。
―――
李御と葉はトボトボと頭を下げて茅葺き小屋を出た。
来る時は必死で気づかなかったけれど、ここは本当に景色が美しくて平和な場所だった。
「奥様! 向こうに温泉がありますよ!」
葉が嬉しそうに声をあげる。
仮羅たち兄弟は、ここで大勢の仲間に囲まれて賑やかに暮らしている。
それに比べて自分は……。
落ち込んでいた李御に、葉が慌てた様子で小声で囁いた。
「奥様! 奥様! 人魚の姫様が追ってきます!」
追ってきた波有は李御を見つめ、まっすぐに尋ねてきた。
「さっき後悔したって言っていたのは本当? あなた、今でも仮羅様のことが好きなのね?」
嫌みや馬鹿にする様子は一切なく、ただ真摯な瞳だった。
李御は小さく「ええ」とうなずいた。
「なら、私達に協力してくれる?」
「……何させようとしているの? まさか国師様と戦えとか言わないわよね?」
青ざめた李御はブンブンと手を振った。
「私の法力じゃ、あの人には束になってかかっても敵わないのよ!」
波有は一歩踏み出し、李御の手をしっかりと握りしめた。
「さっき、無光は最近ずっと人魚島にいると言っていたわね。お願い、皇宮へ向かってほしいの。そして……かくかくしかじか……」




